頡利可汗(けつりかがん、テュルク語でイリグカガン)
阿史那 咄苾(あしな・とひつ)は7世紀の東突厥の大可汗(皇帝)です。
ドラマ「長歌行」の延利可汗のモデルになった人物です。
建国間もない唐に何度も攻め込み。即位したばかりの太宗 李世民をせめて「渭水之盟」という唐にとって屈辱的な盟約を結ばせました。
「渭水之盟(いすいのめい)」は日本ではあまり知られていない盟約。唐を美化しがちな日本ではスルーされがちですが、実は唐ができてまもないころ太宗はひどい屈辱を味わっていたのです。
しかし傲慢な性格の頡利可汗に対して突厥内で反発が起き、さらに大雪で草原の家畜や人々が多数死亡。配下の部族が次々と離反して、頡利可汗の権威は薄れました。
そこに力を付けた唐に攻められ敗北。唐に降伏しました。
晩年は太宗 李世民の臣下となり唐で暮らしました。
史実の阿史那 社爾はどんな人物だったのか紹介します。
頡利可汗の史実
いつの時代の人?
生年月日:不明
没年月日:634年
姓 :阿史那(あしな)氏
名称:咄苾(とひつ)
称号:頡利可汗(日:けつりかがん、ト:イリグカガン)
国:東突厥→唐
父:啓民可汗
母:
兄:処羅可汗
妻:可賀敦(カガトゥン:皇后)、義成公主
子供:特勤(テギン)
日本では飛鳥時代になります。
東突厥の時代
咄苾(とひつ)は啓民可汗の三男として生まれました。
兄に処羅可汗がいます。
莫賀咄設(バガテュル・シャド:軍事指揮官)になり、五原郡の北に牙(陣営)を置きました。
620年。処羅可汗が病死。彼の妻で義成公主は彼の子・摸末が未熟だと判断。咄苾を後継者に指名しました。
東突厥の大可汗になる
咄苾は大可汗に即位。頡利可汗(けつりかがん)と呼ばれます。
頡利可汗は突厥の慣習に従い義成公主と結婚。兄・始畢可汗の子・什缽苾を小可汗の突利可汗に任命しました。
唐に復讐心をもつ妻・義成公主
妻になった義成公主は隋朝の宗室である楊諧の娘。隋の文帝から同盟を結ぶために派遣されていました。彼女の兄・楊善經も突厥に仕えていました。
義成公主は唐が隋に取って代わったのが不満でした。そこで兄・楊善經や王文素と共に頡利可汗に対して、啓民可汗の兄弟が隋朝の支援を受けていたことを説明し隋朝を復興させるべきだと説得しました。
当時の唐は建国してまだ3年しかたっていません。啓民可汗は唐の力を侮っていました。頡利可汗は唐を消耗させ、力をつけるのを阻止するため国境付近を何度も襲って略奪を繰り返しました。
何度も唐を襲う頡利可汗
621年。頡利可汗は一万以上の騎兵を率いて馬邑の苑君璋 率いる6,000の兵力と共に雁門を攻撃しましたが、定襄王 李大恩に撃退されました。頡利可汗は唐朝の使者を捕らえ、唐高祖も突厥の使者を捕らえました。
その後、頡利可汗は再び代州に侵攻。行軍總管 王孝基を打ち破り、河東を略奪しました。
622年。頡利可汗は捕らえていた長孫順徳らを唐に送り和平を要求しました。高祖 李淵は突厥の使者・特勒熱寒らを釈放しました。
李大恩は「突厥は飢餓に苦しんでいるので突厥を討つべき」と上奏。高祖 李淵は李大恩に苑君璋を討つように命令しました。ところが李大恩が新城に駐屯していたところを、頡利可汗が数万の騎兵を率いて劉黒闍と共に攻撃。李大恩と兵士数千人が戦死しました。頡利可汗たちはその後、忻州に進攻しましたが、唐の左武衛大将軍 李高遷によって撃退されました。
その後。頡利可汗は15万(または5万)の兵を率いて雁門に侵入、併州、汾州、潞州、原州、霊州を襲撃。五千人以上を捕虜にしました。
この時、李建成や李世民も出撃。頡利可汗は唐軍と戦った後、各地で略奪して引き上げました。
こうして頡利可汗は毎年、唐を攻撃、略奪しては撤退を繰り返しました。
長安遷都を検討する高祖 李淵
唐ではあまりにも頻繁に突厥が攻撃してくるので長安を放棄して遷都しようという意見が出ました。主な重臣や皇太子 李建成も遷都に賛成。高祖は新しい都の候補先を探させました。しかし秦王 李世民は反対。高祖 李淵は遷都は取り止めにしました。
頡利可汗は唐に使者を派遣。北楼関を開放し、貿易を行うように要求。高祖 李淵は拒否することはできませんでした。
その後も、頡利可汗は唐への攻撃、略奪を繰り返しました。高祖 李淵は唐の兵士を訓練、軍備を増やしました。唐軍は時々、突厥に勝つことはあってもなかなか突厥の略奪を防ぐことはできません。
李世民に屈辱を与えた渭水之盟
玄武門の変
626年6月。秦王 李世民が玄武門の近くで皇太子 李建成、李元吉を襲撃、殺害しました。高祖 李淵は隠居に追い込まれ、李世民が皇太子になり唐の実権を奪います。
李建成は唐の守りを担当していました。唐の国境を守る武将には李建成の部下が多くいます。李世民は彼らの罪は問わないと発表したものの。李建成に親しい者たちは動揺し国境の守りが手薄になります。中には突厥と通じて生き残ろうとする者も出てきます。
突厥の大軍が唐を襲撃
7月。唐の異変を知った頡利可汗は10万ともいわれる軍団で唐を攻撃しました。突厥の大軍は安々と唐の国境を突破。長安と70kmしか離れていない武功に迫りました。長安城では戒嚴が敷かれました。
8月9日。太宗 李世民が即位。
8月24日、突厥軍は高陵を攻撃。太宗 李世民は勇将の尉遅敬徳たち派遣、突厥の進撃を食い止めようとしました。唐軍は部分的に勝利することはあっても突厥の進軍を止めることはできません。
頡利可汗の主力軍は渭水沿いに進み長安に迫りました。突厥の軍勢は20万にも達し、渭水の北岸に陣を敷きました。長安の兵力は不足し、長安市民は恐れおののいていました。
頡利可汗は執失思力を長安に派遣しました。唐の歴史書「旧唐書」には執失思力は偵察のためやってきたので捕らえたと書かれていますが、交渉の使者と思われます。遊牧民が街を襲うのは物目当てですからおそらく貢物を要求したのでしょう。
渭水之盟
太宗 李世民は高士廉、房玄齢齡たち6人の側近と共に頡利可汗の陣営を訪れ、頡利可汗と対話。頡利可汗が約束を破って攻撃したことを非難しました。
このとき「旧唐書」には太宗のあとに唐の大軍が続いたので突厥は恐れおののいて和睦に応じて撤退したと書かれています。でもこのときの唐には10万とも20万ともいわれる突厥を圧倒できる兵力はありません。兵をかき集めてもせいぜい数万しか用意できなかったと言われます。
中国側の資料にあるように大軍でやってきた突厥軍が唐の軍勢を見ただけで恐れおののいて撤退したとはとても思えません。
皇帝の命令一つで大軍が動く中国王朝と違い、遊牧民の軍団は可汗は命令するものの軍の大半は各部族から分け前を期待して集まった人たちです。負けてもいないのに手ぶらでは帰れません。
このときの交渉内容は公式資料では明らかにされていませんが。ある役人の記録によれば、李靖が「国庫を空にしてでも和平すべき」と太宗に提案したといいます。唐が突厥に莫大な金と絹を支払うと約束し突厥に撤退してもらったようです。
頡利可汗と李世民は白い馬を殺して生き血を飲み契約をかわしました。このときの盟約を「渭水之盟」といいます。
頡利可汗は満足のいく取引ができて軍をひきあげました。
9月。頡利可汗は唐に馬や羊を送りました。唐の歴史書にはこの部分だけが書かれていますが、実際には突厥が受け取った莫大な財物へのささやかな返礼だったのでしょう。
また突厥が捕虜にしている漢人を釈放しました。これも渭水之盟で決められていたことなのでしょう。
李世民にとっては生涯で最大級の屈辱でした。このあと唐は兵士の訓練を更に進め武力を増強します。
栄光からの転落
頡利可汗は有能だったかもしれませんが、高圧的で部族に重税を課していました。
627年(貞観元年)。鉄勒(てつろく)、ウイグル、薛延陀(せつえんだ)などが突厥に反乱を起こしました。頡利可汗は欲谷設を派遣しましたが、馬猟山の戦いで敗北。
頡利可汗は突利可汗を救援に向かわせました。でも突利可汗は敗北して逃げ帰ってきました。怒った頡利可汗は突利可汗をしばらく拘束しました。突利可汗は頡利可汗を恨むようになります。
頡利可汗は部下には厳しすぎるので配下の者たちから反感をかうことがありました。
628年には阿史那 社爾が部族を率いて東突厥から離れました。
天災で突厥が衰退
629年。猛烈な寒波が突厥を襲いました。モンゴル高原では大雪が振り、多くの家畜や人々が死亡しました。唐から得た財物がいくらあっても食料がなくては意味がありません。
災害と重税で多くの者が頡利可汗に不満を持ち、多くの人々が彼のもとを去りました。
薛延陀と唐の同盟
このころ反頡利可汗の勢力で勢いがあったのが薛延陀の夷男(いだん)でした。周囲の部族が続々と夷男のもとに集まります。やがて唐の太宗は薛延陀に使者を送り夷男に「真珠毘伽可汗」の称号を与えました。夷男も唐に弟を使者として派遣しました。
唐と薛延陀が同盟。薛延陀には多くの鉄勒の部族も従っています。
頡利可汗の権威は落ち、配下の部族が離反していきました。
太宗 李世民は今が反撃の機会と考え、兵部尚書の李靖に馬邑を攻撃させました。奇襲にあった頡利可汗は逃走。
太宗 李世民は李靖、李勣たち6つの軍団に総攻撃を命令しました。総勢10万以上の軍団が6つ方角から突厥に攻め込みました。突厥は戦いに敗れ、数万の兵と家畜が捕虜になり。多くの部族が唐に降伏しました。突利可汗も唐に投降しました。
宿敵、突厥の可汗が降伏したことに李世民は「渭水の役の報復に足りる」と喜びました。李世民にとって渭水の盟約がどれほど屈辱的だったかがわかります。
東突厥の最後
630年1月。頡利可汗は李靖の奇襲にあい逃走。鉄山に退却。
頡利可汗は使者の執失思力を唐に派遣、今までの行いを謝罪して和睦を求めます。
太宗 李世民は鴻臚卿 唐儉、将軍 安修仁らを派遣して和睦に応じると見せかけて、李靖が頡利可汗が油断したところを奇襲。頡利可汗は戦いに破れ馬に乗って逃走。阿史那 蘇尼失の部落に逃げてて吐谷渾に亡命しようとしました。
そこに唐の行軍総管の李道宗がやってきて、頡利可汗を引き渡すように要求。蘇尼失は頡利可汗の引き渡しを認めます。
頡利可汗はさらに逃亡しましたが蘇尼失の息子の阿史那忠に命令して頡利可汗を捕らえさせました。西道行軍副総管 張宝が蘇尼失の営帳を包囲。蘇尼失は降伏、頡利可汗を張宝に引き渡しました。
唐太宗 に降伏した頡利可汗
頡利可汗は唐に連行され太宗 李世民の前に引き出されました。李世民は臣下の見守る前で頡利可汗に5つの罪を並べ立てました。そして「あなたを処罰する理由は多々あるが、渭上の盟約を忘れないため厳しくはしない」と言って命を助けました。頡利可汗の家族を返し、彼を太僕に住まわせ宮廷から食料を供給しました。
太宗 李世民は屈辱をバネに国を強くしてわずか3年で復讐を果たしたのでした。
頡利可汗は余生を太宗李世民の臣下としてすごすことになり。突厥帝国はいったん滅亡しました。
同じ年、西突厥の統葉護可汗も死亡します。
李世民が天可汗になる
唐朝の勢力はバイカル湖の北まで拡大、突厥に属していた部族の一部は薛延陀に従い、一部は西域に逃れ、唐に投降した者も多くいました。
遊牧民の部族長たちは長安に集まり李世民にテンゲルカガン(天可汗)の称号を贈りました。
李世民は中華の皇帝だけでなく遊牧民社会の可汗(君主)にもなりました。とはいえ唐の李氏も漢化したとはいえ鮮卑です。遊牧民社会では唐はタブガチと呼ばれていました。タブガチとは北魏を建国した拓跋氏のこと。拓跋は鮮卑でした。北魏を受け継いた北周・北斉・隋・唐も支配者層は鮮卑や遊牧民の血が入った人たちです。
遊牧民にとっては漢人に降伏したのではなく、リーダーがテュルク(突厥)のアシナからタブガチに変わっただけなのです。
頡利可汗の最期
634年(貞観8年)。頡利可汗が死去。「歸義王」の称号が与えられました。葬儀のため突厥の人々が唐に来るよう命令がありました。頡利可汗の遺体は突厥の習慣にあわせて火葬され、灞水の東岸に葬られました。
テレビドラマ
長歌行 2021年、中国 演:晉松 役名:延利可汗
天下長安 中国 演:艾克拜爾·黑血 役名:頡利可汗
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