高斌 は清朝の第6代皇帝・乾隆帝時代の役人。
慧賢皇貴妃 高氏(高貴妃)の父親。
「河道総督」という役職を務め治水対策で成果をあげました。
史実の 高斌(こう ひん) はどんな人物だったのか紹介します。
高斌 の史実
いつの時代の人?
生年月日:1683年
没年月日:1755年
姓:高 氏
名:斌(ひん)
地位: 江南河道総督 ほか
父:高衍中
母:李氏
妻:陳氏、斉氏、馬氏
子供
長女:慧賢皇貴妃
次女:
三女:
四女:
長男:高恒(清朝の役人)
清王朝の第6代皇帝・乾隆帝の時代です。
日本では江戸時代になります。
おいたち
曽祖父・高名选は奉天(現在の中国遼寧省瀋陽市)の出身。漢人の家系でした。ヌルハチの時代から清朝(後金)に仕えていました。代々役人を務めました。高斌 の時代に大きく発展します。
高一族は内務府包衣です。包衣とは満洲貴族に仕える奉公人です。内務府所属なので皇帝直属です。他の包衣にくらべれば地位は高いですが貴族ではありません。
1683年(康煕22年) 高斌 が誕生。
1723年(雍正元年) 内務府主事を担当。
1726年(雍正四年) 蘇州の織物工場の責任者を務めました。
その後、広東、浙江、江蘇、河南の役人を務めました。
1731年(雍正9年)。河東副総河職務
1735年(雍正13年)。江南河道総督になりました。
治水の専門家として活躍
1736年(乾隆元年)。黄河が増水。乾隆帝は高斌に対して両江総督の趙洪園や河南総督のの富徳と相談して治水対策を命令しました。高斌は治水案としてダム建設を提案。承認されました。
1738年(乾隆3年)。ダムが完成。1年後、新しく造った運河を開門、古い運河の水門を閉じて黄河の水が逆流するのを防ぎました。
1741年(乾隆6年)。黄河から清河に至る200里ほどの河の流れが急で危険だと報告。治水工事の必要性をうったえて承認されました。直隷総督、総河印務を兼任しました。直隷総督は北京周辺の地域を担当。地方の長官の中でも最高の地位になります。
とはいっても宮廷の人びとからみれば地方役人。それほど大きな力をもっているとは言えません。一族の力で高貴妃を昇進させるほどの力はなく、高貴妃の寵愛は高貴妃自身の努力?で得たものでした。
高斌は永定河という河川の治水工事のプランを提案。このときは承認されなかったようです。
1743年(乾隆8年)。再び永定河の治水工事のプランを提案。この案は承認され実行されました。
1745年(乾隆10年)。訥親(ナチン)の後任として吏部尚書になりました。でも河川工事の業務も兼任しました。
1745年(乾隆10年)。娘の貴妃 高氏が死去。
1747年(乾隆12年)。文淵閣大学士(皇帝の命令を伝える係)に任命されました。
地方の役人から宮廷で仕える中央の役人になったのです。
乾隆帝は貴妃 高氏の死に報いるために父を出世させたようですが。それが周囲の妬みを生んだようです。このあたりから高斌の人生が怪しくなります。
没落への道
1748年(乾隆13年)。再び江南河道総督になり、山東地域に災害がおきて河川が反乱したので調査するように命じられました。副主任の顧琮と一緒に調査。
この期間、地元の知事の汚職事件を担当。ところが事件の処理方法に問題があるとして解任されましたが、皇帝の命令で復帰しました。
江南河道総督・周学健の家財没収を監督した件で、周学健に好意的な態度をとったとして大学士を解任されました。その一方で河川の担当は続けています。
1753年(乾隆18年)。洪澤、高郵などで洪水が発生。高斌は治水対策を怠ったとして激しく非難されました。その年、解雇され河川の工事現場で働くことになりました。
1753年(乾隆十八年)9月。黄河で洪水が発生。江蘇銅山のダムが破壊されました。高斌は洪水を防ぐために江蘇銅山に行かされ堤防を修復するように命じられました。
このとき、江蘇銅山総督の李敦と張斌は公金不正利用で処刑され、高斌と副総督の張師載も同行させられました。高斌はなぜ呼ばれたのか説明がなかったので自分も処刑されるのではないかと思い怯え、ぐったりしていました。
1755年(乾隆20年)。高斌は工事現場で死去しました。享年72。
死後名誉回復
乾隆帝は高斌の葬儀のために費用を出すように大臣に命令しました。
1758年(乾隆23年)。乾隆帝は高斌に“文定”の諡号を与えました。高斌の石碑を建てさせました。
乾隆帝は高斌のことを「江南河道の知事として多くの事実を成し遂げ、大きな成果をあげ、人々の生活に功績を挙げた」と評価しました。
清史稿(清の歴史書)では「高斌は20年あまりにわたって河川の工事を行い、人びとに大きな恩恵を与えた」と書かれています。
中国は古代より洪水との戦いでした。中国王朝は土木工事王朝ともいわれるくらい歴代の皇帝も治水に悩んでいました。誰が担当しても洪水を完璧に防ぐことはできません。高斌はそのなかでは一定の功績をあげた人物です。その功績は大きかったのですが、さまざまな讒言などにより最後は失脚。工事現場で亡くなってしまいます。
地方で治水だけを行っていれば地方の役人として一生を全うできたかもしれません。でも高貴妃の死後、乾隆帝によって中央の役職を得たことで人生が変わってしまいました。
息子は塩商人から賄賂をとって処刑される
高斌の息子・高恒は役人として働きましたが、あまり優秀ではなかったようです。高斌の名声と妹・高貴妃の寵愛のおかげで出世しました。最後は、塩商人と癒着して賄賂をもらい処刑されることになりました。
この事件を調査したのが富察皇后の弟・傅恒。調査報告を聞いて激怒した乾隆帝は「高恒を処刑しろ」と命令しました。傅恒は「亡くなった高貴妃のためにも命だけは助けてください」と言いました。
すると乾隆帝は「では皇后の兄弟が法を破ったら、私はどうすればいいのだ?」といいました。
つまり「高貴妃の兄弟だから不正が許されるなら、皇后の兄弟なら何をしても許されるということか?」という意味です。
すると傅恒は恐怖のあまり返事ができませんでした。
1768年(乾隆33年)。高恒は命令通り処刑されました。
テレビドラマ
瓔珞〜紫禁城に燃ゆる逆襲の王妃〜 2018、中国
演:蘇茂
如懿傳〜紫禁城に散る宿命の王妃~ 2018、中国
演:高蘭村
コメント