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明徳皇后 李氏 (宋太宗)はなぜ真宗 趙恒の即位に反対したの?

宋 4.2 宋の皇后・側室・公主

明徳皇后 李氏(李皇后)は10世紀の北宋時代の人物。

北宋 第2代皇帝 太宗 趙炅の3番めの正室です。
最初の二人の正室は太宗が皇帝になったときにはすでにこの世にいないので太宗時代の唯一の皇后です。

明徳皇后 李氏は太宗の死後。皇太子 趙恒ではなく、すでに皇太子を廃されていた趙元佐を次の皇帝にしようとする企みに賛成しました。

でも呂端に反対されて諦めました。

真宗 趙恒の時代は皇太后として余生をすごしました。

史実の明徳皇后はどんな人物だったのか紹介します。

 

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明徳皇后の史実

いつの時代の人?

生年月日:建隆元年(960年)
没年月日:景徳元年3月15日(1004年4月7日)

姓 :李(り)氏
名称:不明

国:北宋
地位:皇后→皇太后
称号:明徳皇后

父:李処耘
母:韓国太夫人陳氏
夫:太宗 趙炅(北宋2代皇帝)
子供:息子(早世)

兄:李継隆

彼女は生きたのは宋太祖~真宗時代です

日本では平安時代になります。

 

おいたち

北宋。太祖の時代。

建隆元年(960年)に潞州上党県で生まれました。
父は淄州刺史の李処耘。
母は妾の陳氏。

李氏は次女でした。

李氏は妾の娘なので庶女です。李処耘の正室・呉氏が嫡母になります。李氏は「普王妃」になりました。趙光義の3人めの正室。それまでの正室はすでに2人とも亡くなっています。

975年。普王 趙光義の正室・符氏が死亡。

976年。李氏が普王 趙光義と結婚。
976年。太祖が死去。趙光義が2代皇帝 太宗(趙炅に名前を変更)になりました。

太祖の喪があけた太平興国3年(978年)。李氏は後宮に入りました。

雍熙元年12月(985年1月)。皇后になりました。

明徳皇后はきちんとして礼儀正しく、優しくておおらかな女性でした。

太宗との間に息子が誕生。しかし早世しました。

至道2年(996年)。李氏の嫡母の呉氏に「衛国太夫人」、生母の陳氏に「韓国太夫人」の爵位が与えられました。

趙恒の代わりに趙元佐を即位させようとする

至道3年3月(997年)。太宗は病で寝込みました。

すると皇太子 趙恒(ちょう・こう)を快く思っていない太監の王継恩(おう・けいおん)は、参知政事 李昌齢、殿前都指揮使 李継勳、知制誥 胡旦たちと共謀して 趙元佐(ちょう・げんさ)を次の皇帝に担ごうとしました。彼らは李皇后も味方にしていました。

太宗が死去。李皇后は王継恩を呼びました。異変に気がついた重臣の呂端(ろ・ずい)はすぐに皇太子を呼び行かせると、王継恩を騙して書庫に閉じ込め。李皇后に会いに行きました。

李皇后は呂端が来ると「陛下はお隠れになりました。跡継ぎには長子を立てるのが順当だと思うが、あなたはどう思いますか?」と言いました。

すると呂端は「先帝が太子を決めたのは今日のためですぞ。どうして命令に背くことができましょうか?(いや、できません)」と言って趙恒を宮殿に連れてきました。

李皇后はそれ以上反論することなく趙恒の即位を認めました。

と、ここだけ見ると李皇后は王継恩たちと共謀して太宗が決めた皇太子を廃そうとした悪女にみえます。ドラマでも悪者として描かれます。

でも李皇后の立場になって考えてみると別の見方もできます。

なぜ李皇后は趙元佐の即位に賛成したのか?

趙元佐も趙恒も李皇后の子供ではありません。どちらの生母もこの世にはいません。李皇后は誰が皇帝になっても問題ないはずです。

趙元佐は有能な皇子だった

趙元佐は太宗の長男。子供の頃から賢く弓矢も得意、太宗のあとを継ぐならこの皇子と太宗も周囲の者も期待していました。

でも叔父の趙廷美の粛清に反対。父である皇帝が決めたことでも、はっきりした証拠もないのに罰するのはよくないと意見を言っています。

趙廷美は謀反を起こした罪で粛清されましたが証拠はありません。太宗は実の弟を排除するつもりだったので本当に謀反を起こしたかどうかはどうでもよかったのです。もちろん息子の趙元佐を皇帝にするためにそうしたのですが。皮肉なことに趙元佐は父のやり方が納得できません。

趙廷美が流刑先で死亡すると趙元佐は心を病んで人を傷つけたり放火したりするようになりました。そこで後継者から外され謹慎生活を送っていました。

 

倫理的道徳的に問題ありの趙恒(元侃)

趙恒は皇太子ですが。虚勢をはるのが好きなわりに勇敢さには欠けます。兄が廃されたり死亡したから皇太子になっただけ。皇太子にふさわしい人物だから選ばれたのではありません。真宗が頼りないから章獻明肅皇后が活躍できたともいえます。

後に章獻明肅皇后になる劉娥は庶民で龔美と結婚していました。ところが龔美は生活苦から当時15歳の妻を売ることにしました。中国では娘や妻を売ることはありました。劉娥は美人で親が蜀出身で結婚前は芸人として働いていたので芸も身に着けていました。龔美は劉娥なら高く売れると思ったのでしょう。

趙恒は「蜀の女は美しく才女が多い」と聞いて蜀の女を探していました。人づてに売りに出されている劉娥の噂を聞いて劉娥を買って妾にしました。

太宗はそれを知ると激怒。太宗は趙恒に劉娥と別れるように命令しました。でも趙恒は父に黙って劉娥を臣下の家に匿っていました。

李皇后が趙恒が劉娥を隠していたのを知っていたかどうかはわかりません。

趙恒の行いは人身売買が普通に行われている当時の中国では違法行為ではありません。でも李皇后としては趙恒の行いを快く思うはずがありません。当然、皇宮の女性陣の間では趙恒の評判は悪かったでしょう。

このころの趙元佐は問題行動は起こしてなく、落ち着いているようでした。趙元佐がまともなら君主にふさわしいのは趙元佐です。

押しの弱い皇后

そんな李皇后にとって臣下たちから太宗が死亡して「趙元佐を次の皇帝に」と勧められれば心が動いても不思議ではありません。予想外だったのは呂端が猛烈に反対したこと。李皇后は「みんな賛成しているんじゃなかったの?」と面食らったことでしょう。

趙恒を皇太子に決めたのは太宗ですから「先帝の命令です」と言われれば理屈では反論できません。

李皇后は良く言えばおおらかな性格。悪く言えば意思を押し通す力はありません。重臣に反対されて趙元佐を皇帝にするのは諦めてしまいました。

 

真宗の時代

997年。真宗 趙恒が即位しました。

真宗の生母・夫人 李氏は977年に亡くなっています。そのため真宗が即位した時には生母がいません。太宗の正室・李皇后が皇太后になり、真宗の母親代わりになりました。李太后は西宮の嘉慶殿に移りました。

真宗が即位して落ち着くと趙元佐を担ごうとした者たちは左遷されたりしてそれなりの処分は受けました。李太后には何のお咎めもありません。

李太后が積極的に趙恒の廃位に動いたわけではありませんし。儒教国家では親に逆らうのは大罪ですから。直接反乱を起こしたとかでない限り皇帝といえども皇太后を処分することはできません。

真宗の生母はすでにいませんし。真宗は李太后の機嫌を損ねないように大切にしました。

咸平4年(1001年)。李太后のための万安宮が建てられました。
李太后はここで暮らしたので「万安皇太后」と呼ばれました。

晩年、李太后は病気になり、真宗が皇太后を看病しました。

景徳元年(1004年)3月、万安宮にて崩御。享年45。

「明徳」と諡され、太宗の永熙陵に合葬されました。

 

テレビドラマ

大宋宮詞 2021年、中国 演:趙子琪 役名:皇后 李穆清

ドラマでは趙恒(元侃)が劉娥を買うエピソードがなくなり、恋愛で一緒になったと描かれています。さらに趙元佐は無能、趙廷美は本当に反乱を起こし、逆に趙恒(元侃)は立派(兄弟の中では)な人物として描かれます。事実関係が大幅に変わっているので李皇后は趙恒を邪魔者あつかいするただの悪い女になっています。

 

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