乞乞仲象は渤海を建国した大祚栄の父と言われる人物です。
大仲象と呼ばれることもあります。
乞乞仲象たちは高句麗滅亡後、唐に移住させられました。
しかし高句麗の遺民を引き連れ唐に反乱を起こし、独立運動を初めます。志半ばで倒れましたが、その志は息子の大祚栄が引き継ぎました。
乞乞仲象の史実
いつの時代の人?
生年月日:不明
没年月日:699年
彼が生きたのは高句麗末期。
日本では飛鳥・奈良時代になります。
家族
妻:不明
子供:大祚栄、大野勃
大仲象(テ・ジュンサン)の名前はなかった
韓国ドラマでは大仲象(テ・ジュンサン)となっていますが、歴史上の記録では「乞乞仲象」と書かれています。
息子の大祚栄が大の姓を持っているため、父の仲象も大仲象にされているんですね。
仲象が大仲象と名乗った形跡はありません。大乞乞仲象と書いてある記録もあります。唐から位をもらった時に漢式の名字「大」を与えられたようです。
似たような名字の人物に靺鞨系の乞四比羽(きつしひう)がいます。韓国ドラマ「大祚栄」ではコルサビウの名前で登場します。
乞乞という変わった姓ですが。靺鞨系の乞四比羽、高句麗将軍の乙支文徳(ウルチムンドク、いつしぶんとく)のように、一文字の漢式名字を持たない人も高句麗にはいました。
高句麗滅亡まで
新唐書によると乞乞仲象は粟末靺鞨の出身といわれます。
契丹系の豪族だったという説もあります。
いずれにしろ乞乞仲象は朝鮮系の民族ではなく、靺鞨か契丹などのツングース系民族だと考えられます。
高句麗はツングース系の人が多くいました。乞乞仲象も高句麗に住みある程度の地位にいた人だと思われます。
645年から始まった高句麗と唐の戦争はその後20年近く続きました。唐は何度も攻めましたが、高句麗は防いでいました。
淵蓋蘇文(えん がいそぶん、ヨン・ゲソムン)死亡後に、高句麗で後継者争いが起こります。
667年。後継者争いに敗れた淵男生(蓋蘇文の長男)が唐に助けを求め、唐は出兵しました。
668年。唐が高句麗を攻め滅ぼしました。
唐に反乱を起こす
高句麗滅亡後、高麗にいた人々は唐の各地に移住させられました。
まとまっていると反乱を起こされるからです。
乞乞仲象たちも遼西の営州に移住させられました。しかしそこでの生活は厳しかったようです。
696年。契丹の李盡忠(リ・ジンチュウ)が営州都督の趙文翽を殺害。反乱を起こしました。
乞乞仲象も李盡忠の反乱に同調して高句麗遺民を率いて脱出しました。
以後、高句麗流人のリーダーとして満州を本拠地にして活動を始めました。
唐(武周)の女帝・武則天は乞乞仲象に震國公の位と「大」の姓を靺鞨の乞四比羽に許國公の位を与えて支配下に置こうとしました。
しかし、乞乞仲象と乞四比羽は拒否して抵抗を続けました。
そこで武則天は大将軍・李偕固(リ・ヘゴ)の軍を派遣。李偕固は契丹族の反乱を鎮圧後、乞乞仲象や乞四比羽と戦いました。
李偕固との戦いで乞四比羽が戦死。
その後、乞乞仲象も死亡しました。戦死だとも病死だともいわれます。
乞乞仲象の死後。高句麗遺民たちは息子の大祚栄を中心に抵抗をつづけました。
討伐を諦めた唐は大祚栄を懐柔。大祚栄も唐の提案を受け入れて朝貢します。唐から「渤海」の国名が与えられました。
ドラマや歴史の解説では大祚栄が渤海を建国したことになっていますが。独立運動を初めたのは乞乞仲象でした。
震国の基礎を作ったのも乞乞仲象といえます。
乞乞仲象の生涯:まとめ
乞乞仲象は高句麗滅亡という悲劇の中で、民族の誇りを胸に生き抜いた人物と言えるでしょう。
靺鞨出身ながら高句麗の地で活躍。唐の支配下でも決して屈することなく抵抗し続けました。
彼の死後、息子の大祚栄が渤海国を建国。彼の意思は新たな形で生き続けることとなります。
乞乞仲象は渤海の礎を築いた人物といえるでしょう。
乞乞仲象の生涯における重要なポイント
- 高句麗人か靺鞨人か: 民族については諸説ありますが、高句麗で一定の地位を築いたことは確かです。
- 唐との対立: 高句麗滅亡後も唐に抵抗し続け、独立運動の礎を築きました。
- 渤海国の基礎作り: 震国を建国し、大祚栄の渤海建国へとつながる道を切り開きました。
テレビドラマ
三国期 KBS 1992年 演:キム・ハギュン
ヨンゲソムン SBS 2006年 演:ソン・グムシク、チェヨ・ウンギュン
大祚栄 KBS 2006年 演:イム・ヒョク
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