三法司(さんほうし)とは中華王朝で司法関係の組織をまとめた呼び方です。
古くは漢朝時代に廷尉、御史中丞、司隸校尉をまとめて三法司と呼びました。明・清朝時代には刑部、都察院、大理寺をまとめて三法司とよびました。
唐朝時代には「三法司」の呼び名は使われず。
大理寺卿、刑部尚書、御史中丞が「三司使」と呼ばれました。
漠然とした呼び方なので三法司が何なのか分かりづらいです。そこで三法司とはどういうものなのか、刑部、都察院(御史台)、大理寺とはどういう仕事をしているのか紹介します。
中華王朝の司法部門
三法司は中華王朝の司法部門の刑部、都察院(御史台)、大理寺をまとめた呼び方です。
刑部、都察院(御史台)、大理寺はどのような仕事をしているのか紹介します。
刑部
刑部は六部のひとつ。
司法を担当する部署。
長官:刑部尚書
次官:刑部侍郎
唐朝時代は権限が小さく、民間人と七品以下の役人の刑罰を担当。
明・清朝時代には刑部の範囲が拡大。裁判も担当しました。
都察院(御史台)
都察院(御史台)は役人の職務を観察する組織。
役人の不正を調べて追求。審議をしました。
漢~宋までは「御史台」。
明・清では「都察院」と呼ばれます。
左右の都御史(左右があるのは裁判する部署と刑罰の執行をする部署に分かれているから)、副都御史、監察御史などの地位ありました。
大理寺
大理寺(だいりじ)は九寺のひとつ。
「寺」は仏教の施設ではなく朝廷の組織・建物の意味。
九寺は中央政府に所属する組織。南北朝時代の北魏で六部のもとになる組織が誕生。
唐朝時代には九寺の役目は減り、多くの役割を六部が担当。九寺は縮小されました。宋以後はほぼ名前だけになってしまいます。
大理寺は刑罰・司法を担当する部署。
九寺の中では比較的後の時代まで残りました。
六部の刑部に多くの役割を譲りましたが、裁判と刑の執行は大理寺の担当。事件の審査は刑部が行いました。
唐朝時代には
長官:大理寺卿(従三品)
次官:大理寺少卿(従四品上)
その下に
大理寺正(従五品下)2人
大理寺丞(従六品上)6人
大理寺主簿(従七品上)2人
大理寺録事(従九品上)2人
がいます。
明清時代には刑部の役目が大きくなり。刑部が裁判と刑の執行。大理寺が重大事件の最終審査の担当になりました。
大理寺についてはこちらでさらに詳しく紹介しています。
三法司という役職はない
「三法司」は司法関係の重要な部署や役職をまとめて呼ぶときの呼び名。「三法司」という役職や組織はありません。
大理寺、刑部、御史台(都察院)をまとめて指揮する立場の人もいません。
ではなぜ「三法司」「三司使」と呼ぶかというと。
唐朝時代には重大事件の裁判は大理寺卿、刑部尚書・侍郎、御史中丞が共同で裁判を行いました。そのため大理寺卿、刑部尚書・侍郎、御史中丞を「三司使」と言いました。
明・清では重大事件の場合は刑部、都察院、大理寺の長官が共同で裁判を行いました。明・清では裁判の権限は主に刑部にありますが、重大事件の場合は大理寺などが賛同しないと判決は有効になりません。意見が割れた場合は皇帝が判断します。
つまり「三法司」「三司使」は「3つの部署」「3つの役職」という意味です。
「3つの部署・役職をまとめて指揮する人」ではありません。
刑部、都察院(御史台)、大理寺はそれぞれが独立した組織です。
刑部、都察院、大理寺を一人で管理すると権力の集中が起こります。中華王朝はただでさえ権力乱用の多い国ですから。司法の権限を悪用されると醜いことになるので三法司の指揮権を一つにまとめることはありませんでした。
つまり「三法司」「三司使」は3つの組織をまとめて指揮する権限があるのではなく。
独立した部署が共同で作業を行うからこのように呼んでいるだけです。
例えば「三大美人」と呼ばれる人たちはいても、一人の人物に「三大美人」の称号はつくことはないのと同じ。
漢文・漢字は文字だけを見ればどのようにでも解釈できるので難しいところです。
中国ドラマ「宮廷恋仕官」の三法司は架空の地位
中国ドラマ「宮廷恋仕官」では「三法司」という役職があって刑部、御史台、大理寺を管理しています。
でもそのような人は存在しません。
もちろんドラマでもその辺のことはわかっていて、劇中の重臣たちは「唐では開国以来、刑部、御史台、大理寺は協力し合うものなのに伝統に反する」と反発しています。ドラマの「三法司」は宣宗が宦官達の横暴に対抗するために特別に作った役職という設定です。
もちろん史実の宣宗ははそのようなことはしていません。さらに唐には「三司使」という言葉はありましたが。「三法司」と呼んだのは明・清時代なので時代設定的にもおかしい。なんとなく見ていると誤解しそうな設定ですね。
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