朝鮮王朝後期に現れた勢道政治は特定の勢力が王以上の力を持ち国政を牛耳り私物化したました。
なかでも安東金氏はその代表的な勢道家として知られています。この状態は約60年間にわたり朝鮮社会に大きな影響を与えました。
勢道政治を行ったのは安東金氏だけではありません。豊壌趙氏、驪興閔氏が国政を私物化し、汚職と民衆搾取で国家を弱体化させました。
この記事では安東金氏をはじめとする勢道政治とはどのようなものだったのか?その背景や影響、そして他の勢道家についても詳しく解説します。
勢道政治とは? 簡単に理解する朝鮮王朝の権力集中
勢道政治とはどんな政治?
勢道政治とは「国王でない者が政治の実権を握り王室を国政を私物化した状態」を意味します。本来は国王を助ける立場なのに、いつの間にか国王の権力を超える力を持つようになったのです。
多くは王の外戚(妻や母の親族)や、特別に信頼を得た臣下が力を持つことが多いです。
正祖時代に力を持った洪国栄(ホン・グギョン)が勢道政治の始まりですが。洪国栄の時代は短くすぐに修正されたのでさほど問題にはされません。そのため勢道政治といえば一般には純祖時代の安東金氏から始まる政治を言うことが多いです。
なぜ勢道政治が起こるの?
なぜこのような政治形態が生まれたのでしょうか?成宗から英祖の時代、重臣たちは派閥に別れて激しく争い、時には国の政治を混乱させ、現実の問題に対処できなくなりました。そこで英祖から正祖の時代に国王の権限が強化されました。
ところが政治力のある国王がいる間はいいのですが、国王が自分で政治を行うことができない場合は問題が起こります。
朝鮮王朝後期には幼い国王が即位することが頻繁にありました。そのためその国王の外祖父や外戚が摂政の役割を担い国王の代わりに政治を取り仕切ることが多くなったのです。さらに一時的であるはずの状態が長期間続きました。
結果として王権は形だけになり国家の運営は特定の家門の意向に大きく左右されることになったのです。
安東金氏(アンドンキムシ)が権力を握った背景
世祖の側近として信頼を得た金祖淳
安東金氏(アンドンキムシ)はもともと老論の名門でした。正祖の時代に金祖淳が信頼を得て側近として使えていました。正祖の強い要望で金祖淳の娘と当時世子だった純祖の縁組が決まります。安東金氏は勢力としては大きいものの、このころはまだ正祖を支える重臣のひとつでした。

正祖の信頼を得た金祖淳
安東金氏(アンドンキムシ)が勢道政治の中心に躍り出たのは19世紀初頭のことです。
慶州金氏との対立を制する
きっかけは純祖がわずか10歳で即位したことでした。当時の外戚であった慶州金氏の貞純王后が垂簾政治を行い国政を主導するようになりますが、純祖が15歳になると貞純王后は垂簾政治を終了。その2年後には他界しました。すると慶州金氏は力を失ってしまいます。
代わりに純祖の正妃 純元王后の一族・新安東金氏(以下安東金氏)が勢力を伸ばしました。
王妃の父(国舅)となった金祖淳はまずは敵対する慶州金氏を追放。金祖淳は人事権と軍事権を握り、空いたポストに一族や縁者、味方を配置。一族や縁者を主要な役職につけて国家の重要な決定を独断で行うようになりました。
結果として他の政治勢力は排除され、安東金氏による一党独裁体制が確立されていったのです。
勢道家は安東金氏だけではない!? 閔氏や趙氏の台頭
勢道家=勢道政治を行った家門は安東金氏だけではありませんでした。朝鮮王朝後期には安東金氏以外にも勢道政治を行った家門が存在しました。
豊壌趙氏(プンヤンチョシ)
- 純祖の息子である孝明世子の妃として豊壌趙氏の趙万永(チョ・マニョン)の娘が選ばれました(後の神貞王后)。彼女は憲宗を生んだため、豊壌趙氏も外戚として力をつけ始めました。
- 憲宗が幼くして即位すると、彼の母である神貞王后を後ろ盾に、豊壌趙氏が勢力を拡大。安東金氏と激しい権力闘争を繰り広げました。
- 安東金氏に対抗する勢力として台頭し一時期は政治の主導権を握ることもありました。しかし彼らの勢力も長くは続きませんでした。
驪興閔氏(ヨフンミンシ)高宗の王妃の一族
- 高宗の妃である明成王后(死後、明成皇后に追尊)の家門として知られます。
- 改革を進める大院君に両班が反発。閔氏が中心になって大院君を失脚させ、実権を握りました。
- 閔氏政権は興宣大院君の鎖国政策から開国へと転換。一族の要職登用、汚職や不正蓄財が蔓延して国庫の浪費も引き起こしました。巫女である真霊君との癒着なども批判の対象となりました。
- 閔氏政権と興宣大院君の対立はその後も続き、朝鮮王朝末期の政治に大きな影響を与えました。
勢道政治の深刻な弊害:国家の弱体化を招いた理由
勢道政治は大きな問題を引き起こしました。勢道家は国よりも一族の利益を優先。朝鮮王朝弱体化させた要因の一つとなったからです。次に勢道政治の何が悪いのか説明します。
国政の私物化と人材の腐敗
官職は能力や実績ではなく金銭で売買されるようになりました。これを「売官売職」と言います。優秀な人材が排除され、無能な役人が要職を占めるようになりました。このような人事の腐敗は、国家の運営能力をさらに低下させ、公正な政治が機能しない状態を作り出しました。
さらに役人たちは出世のために多額の賄賂を勢道家に贈り、その賄賂に使った資金を回収するために、民衆からさらなる搾取を行いました。
財政の破綻と民衆の困窮
勢道政治の最も痛ましい結果の一つが、財政の破綻と民衆の極度の困窮でした。その典型が「三政の紊乱(さんせいのぶんらん)」と呼ばれる、田政(土地税)、軍政(軍役)、還穀(貸付米)という三つの主要な税制における不正の横行です。
- 田政: 土地の面積をごまかして税を余分に徴収したり、死亡した者の名前で税を徴収したりする不正が行われました。
- 軍政: 死んだ者や幼い子どもにまで軍役の布を課したり、村全体に負担を押し付けたりする「白骨徴布(はっこつちょうふ)」や「黄口僉丁(こうこうせんちょう)」といった悪習が横行しました。
- 還穀: 本来は貧しい農民を救済するための貸付米制度でしたが、高利貸しのように運用されたり強制的に貸し付けたりして民衆を借金の泥沼に陥れました。
これらの過酷な搾取により民衆の生活は破壊されました。干ばつや飢饉などの自然災害が起きても国は適切な救済策を行うことができません。やがて民衆の不満は爆発。各地で民乱(民の反乱)が頻発。国は民乱を鎮圧できないほど弱体化。外国勢力の介入を許すことになります。
国家防衛能力の低下と外圧への脆弱化
勢道政治では軍の要職も家門の人間で固められ、軍事の専門知識を持つ者が排除されたり軍費が不正に流用されたりしました。これにより朝鮮の軍はさらに弱体化。外国からの侵略に備える体制が全く整っていませんでした。
後に起こる丙寅洋擾(へいいんようよう)や辛未洋擾(しんびようよう)といった西洋列強との武力衝突では軍事的な弱さが露わになり国は為す術もなく開国を迫られることになります。
これらの弊害は朝鮮の国家としての力とまとまりを失わせ、社会全体を疲弊させ国の滅亡へと向かう道を加速させていったのです。
各国王の時代と勢道政治の移り変わり
勢道政治は複数の国王の時代に形を変えながら続いていきました。
純祖時代の勢道政治:安東金氏の本格的な台頭
純祖は1800年にわずか10歳で即位しました。国王が幼いため英祖の継妃だった貞純王后が摂政となり国政を主導しました。彼女の死後、純祖の正妃・純元王后(安東金氏)の父・金祖淳が権力を握ります。
ここから本格的に安東金氏による勢道政治が始まりました。安東金氏は要職を独占して政治・軍事のあらゆる権限を自分たちに集中させました。
また勢道政治による腐敗や民衆の困窮を背景に1811年には洪景来の乱のような大規模な反乱も起きています。純祖は勢道政治の中で政治的な力を発揮できず国の混乱を食い止めることが困難でした。
豊壌趙氏の台頭
純祖は孝明世子に代理聴政を任せました。孝明世子は妃の実家・豊壌趙氏を多く採用して安東金氏に対抗させます。
しかし孝明世子の死によって豊壌趙氏は力を失い、安東金氏が勢力を盛り返します。
憲宗時代の勢道政治:安東金氏と豊壌趙氏の対立
純祖の後に即位した憲宗もまた幼い王でした。純祖の正妃・純元王后により垂簾政治が行われ、安東金氏の勢道政治が続きます。
憲宗が親政を行い始めると憲宗の生母・神貞王后が発言力を増し、豊壌趙氏の勢力が盛り返します。そのため安東金氏と神貞王后を後ろ盾とする豊壌趙氏が激しく対立します。結果として両勢力の間の権力争いがかえって国政の停滞を招くことになります。
この時代も三政の紊乱といった社会問題は解決されず民衆の不満は蓄積されていきました。
しかし趙万永(チョ・マニョン)が死亡すると徐々に豊壌趙氏の力が弱まり安東金氏の勢力が強くなります。
哲宗時代の勢道政治:安東金氏の絶頂期と国家の疲弊
憲宗の死後、哲宗(チョルジョン)が即位。哲宗は王族の中でも権力から遠い存在でしたが安東金氏の純元王后によって王位に擁立されました。安東金氏が王権を完全に支配下に置くためです。哲宗が即位した後も純元王后による垂簾聴政が続き安東金氏の勢力は絶頂期を迎えます。
哲宗自身は政治に関心があったとされますが、安東金氏の圧倒的な権力の前ではほとんど無力でした。
純元王后が死去すると安東金氏の勢いにも衰えがみえ、再び豊壌趙氏が盛り返します。
この時期国家財政の破綻である三政の紊乱はさらに激化し民衆の生活は極限まで追い詰められました。
各地で大規模な民衆の反乱が頻発、外国勢力も開国を迫ってきます。安東金氏の権力濫用は国の基盤を揺るがす深刻な事態を招いていたのです。
高宗時代の勢道政治:大院君と驪興閔氏の対立で国が滅ぶ
哲宗が後嗣を残さずに亡くなると王室では新たな王位継承問題が浮上します。
このとき安東金氏の目を欺き、豊壌趙氏と協力して高宗を王位に就けたのが興宣君 李昰応(イ・ハウン)でした。1863年に高宗(コジョン)が即位すると李昰応は興宣大院君(フンソンテウォングン)とよばれ摂政を務めました。
興宣大院君は勢道家が政治を牛耳っていた状況を変えようと強力な改革を断行しました。彼はまず外戚の政治介入を排除、腐敗した役人を粛清し官僚制度を立て直し混乱していた国家財政を立て直すための改革にも取り組みます。
しかし興宣大院君の改革に両班が反発。高宗の妃である明成王后の一族である驪興閔氏を中心にして両班が団結して大院君を失脚させました。
そして驪興閔氏が新たな勢道家として力を付けます。その後も復権を狙う興宣大院君と驪興閔氏のとの間で激しい権力争いが行われました。
その混乱の中で東学の乱が起こり、それがきっかけで日清戦争が勃発。朝鮮は外国勢力の争いの場となってしまいます。
こうした混乱に勢道家は全く対応できず、むしろ外国勢力を引き込んで自体を悪化させます。
興宣大院君は三浦梧楼らの協力を得て明成王后を殺害、これにより驪興閔氏は力を失いました。やがて長年の閔氏への恨みを晴らした興宣大院君も死亡。
取り残された高宗では外国勢力の介入に全く対抗できません。ロシア公使館に亡命した高宗は次々に国内の利権を外国に手渡し、最終的に諸外国と密約を交わした日本によって統治権を奪われ朝鮮(大韓帝国)は滅亡します。
まとめ
この記事では朝鮮王朝後期に国政を牛耳った安東金氏の勢道政治について解説しました。安東金氏は幼い国王の即位をきっかけに外戚として絶大な権力を握りました。その結果、官僚制度の腐敗や三政の紊乱といった深刻な問題が起こり、民衆は大きな苦しみを味わいました。
安東金氏だけでなく豊壌趙氏や驪興閔氏といった他の勢道家も存在。それぞれの時代に争いながら朝鮮の政治を動かしました。
最終的には大院君の登場によって長く続いた勢道政治の時代は終わります。でも、もはやその時には朝鮮は自ら外国勢力に立ち向かう力は残されていませんでした。
勢道政治は「政治家が自分たちの利権だけ考え争った結果、国や社会を衰退させる」という教訓を与えてくれます。
これは朝鮮だけの問題ではありません。似たようなことはいつの時代でもどの国でも起こる可能性があるのです。
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