北宋の仁宗 趙禎(ちょう・てい)は北宋の第4代皇帝。
3代皇帝 真宗の息子。
生母は李宸妃でしたが仁宗は李宸妃が母だとは知りませんでした。
劉太后が母だと思っていました。
趙禎は12歳で仁宗皇帝になり劉太后が垂簾聴政しました。
仁宗の在位中には西夏との争いがあって西夏にも歳弊を支払うことになりました。遼(契丹)への歳弊も増額しています。
大量の兵士と役人をかかえて宋の朝廷は財政難が始まる時代です。
史実の宋 仁宗はどんな人物だったのか紹介します。
宋 仁宗の史実
いつの時代の人?
生年月日:1010年5月30日
没年月日:1063年4月30日
享年:52
在位:1022年3月23日~1063年4月30日
姓 :趙(ちょう)
名称:受益→禎(てい)
国:宋(北宋)
地位:皇太子→皇帝
廟号:仁宗(じんそう)
父:真宗 趙恒
母:李宸妃
正室:皇后(浄妃)郭氏、温成皇后張氏、光献皇后曹氏
子供:
3男13女。多くが早世。
成人したのは福康公主、慶壽公主、寶壽公主だけ。
日本では平安時代になります。
おいたち
大中祥符3年4月14日(1010年5月30日)
幼名は受益。
父は真宗 趙恒(ちょう・こう)
母は侍女の李氏(後の李宸妃)
受益は真宗の六男です。
ところが、真宗 趙恒の側室 美人劉氏(後の章献皇后)には子がなかったので、美人劉氏(章獻皇后)の子になりました。
でも、趙受益を育てたのは美人劉氏と仲の良い嬪御楊氏(後の楊太妃)でした。
趙受益は生母が李宸妃だとは知らされずに育ちました。
大中祥符5年(1012年)。皇子を得た美人劉氏は皇后になりました。
天禧2年(1018)。真宗には6人の皇子がいましたが趙受益以外はすべて幼くして死亡していました。そこで趙受益が皇太子になり、名前を 禎(てい)に変えました。
仁宗皇帝の時代
劉太后の垂簾聴政
乾興元年(1022年)。真宗 趙恒が死去。趙禎が即位しました。仁宗 の誕生です。でも仁宗はまだ12歳。嫡母の劉太后(章献皇后)が垂簾聴政を行いました。
このときになっても仁宗は劉太后を母だと思っています。李宸妃が生母だとは知りませんでした。
劉太后は仁宗を厳しく育てました。そのため仁宗は養母の楊太妃に懐いていました。
仁宗は側室の張氏を寵愛していました。そこで張氏を皇后にしようと思ったのですが。劉太后が反対。劉太后の選んだ郭氏が皇后になりました。でも仁宗は仁宗は母の選んだ郭皇后のもとにはあまり通わず張氏を寵愛していました。
仁宗 趙禎の親政治
天聖元年(1023年)。劉太后の垂簾聴政が終了。仁宗が自ら政治を行うようになりました。
明道2年(1033年)。劉太后が死去。仁宗は「母」の死に嘆いていたところ。燕王趙元儼から本当の母は「宸妃」ですと言われ驚きました。このとき初めて生母が劉太后でないことを知りました。
仁宗は「宸妃」の墓に行ってこの親不孝をどうして償えばいいのかと嘆いたと言われます。
宋夏戦争
仁宗の在位中、宋を悩ませていたのが西方の峡谷・大夏(西夏)です。大夏はチベット系遊牧民族のタングート人が作った国です。
タングートの首長 李徳明(り・とくめい)は宋から「西平王」の称号をもらっていました。遼(契丹)からは「夏国王」の称号ももらっていす。二ヶ国に従属している国でした。
1031年。西平王 李徳明が死亡。息子の李元昊(り・げんこう)があとを継ぎました。
ところが1038年。李元昊は「大夏皇帝」を主張して独立宣言しました。
「夏」は漢民族にとっては伝説の「夏王朝」を思い出させる由緒ある名前。遊牧騎馬民族出身のタングートが「大夏」を名のるのは許せません。そこで中華王朝側は大夏を「西夏」と呼んでいます。
宋の朝廷では「李元昊を討つべき」と軍を派遣しました。ところが宋軍は夏軍になかなか勝てません。
調子に乗った李元昊は「長安に攻め込むぞ」と意気込んでいました。
遼(契丹)が歳弊の増額を要求
宋が西夏に苦戦していると遼が「領土をよこせ」と要求してきました。もちろん宋は断りますが。遼も宋が断るのは知っています。領土の代わりに「歳弊を増やせ」と要求してきました。
西夏と戦争している最中に遼に攻め込まれたらひとたまりもありません。仁宗は歳弊の増額を認めました。澶淵の盟で決まっていた「絹20匹、銀10万両」に「絹10匹、銀10万両」が追加されました。出費は痛いですがこれで遼とは平和が続きました。
西夏に歳弊を送って臣下にする
これで困ったのが李元昊です。宋と遼が戦ってくれればよかったのですが。宋は遼との平和が保たれたので西夏に全力で立ち向かうことができます。
宋は弱いとよく言われます。でも実は宋は軍事大国です。宋は50万の兵力を西夏との戦争に注ぎ込めます。国力では西夏より上なので西夏戦に兵力を集中すれば負け越すことはありません。でも宋も西夏を討てるほど強くはありません。
西夏の軍隊は強いのですが数で負けています。宋の大軍相手に戦い続けるのはきつくなります。西夏も宋との交易が止まって経済的に苦しくなってきます。
宋も西夏も苦しくなってきました。
李元昊は宋に使者を送ってきました。宋が西夏に要求したのは「西夏が宋の臣下になること」でした。でもプライドの高い李元昊はなかなか認めません。
慶暦4年(1044年)。李元昊はついに「宋の臣下」になるのを認めました。仁宗は李元昊を「夏国王」に冊封。そのかわり宋は西夏に毎年「絹13匹、銀5万両、茶2万斤」を送ることになりました。遼(契丹)に引き続き西夏にも歳弊を送ることになってしまいました。他にも年始・皇帝の誕生日には贈り物をしなければいけません。
「歳弊」とは貢物のことです。主が臣下に貢物をおくるのは変です。これではどちらが上かわかりません。でも戦い続けるよりはマシです。仁宗や宋の朝廷にとっては「西夏は宋の臣下になった」という建前だけでも得られたのは大きかったのです。
ところが西夏との戦争が終わっても国境付近の軍を引き上げることができませんでした。西夏はときどき国境付近まで迫って小競り合いをしていたので油断できないのです。
おかげで宋は数十万の兵力を常に国境に貼り付けておかないといけません。
坤寧宮事件
慶曆8年(1048年)。仁宗は坤寧宮で曹皇后と一緒に夜を過ごしていました。ところが急に騒がしくなり、炎が上がっています。曹皇后が様子を尋ねると禁衛軍士が反乱を起こして坤寧宮が放火され兵が人々を殺していることがわかりました。曹皇后の指示で消火活動が行われました。また騒ぎを聞きつけた張美人がやってきて仁宗を守りました。
やがて酔った4人の兵士たちの犯行だと分かりました。到着した兵士によって3人はその場で殺害され、1人は逃亡しました。
仁宗(じんそう)は事件の調査を命令。逃亡犯を生きたまま逮捕するよう命じましたが。宦官の楊懷敏が見つけて殺害してしまいました。楊懷敏は命令違反で降格になりました。
事件の後。犯人探しが行われました。でも事件の真相はわからずじまいでした。酔った4人の突発的な犯行として処理されました。
事件の裏には宮中の争いがあり、仁宗が穏便に収めようとしてあえて追求しなかったためともいわれます。
財政難
仁宗の時代、宋は財政難に陥りました。
宋は遼と西夏に毎年合計「絹43匹、銀25万両、茶2万斤」の歳弊を送っています。
宋の周囲には遼と西夏という大国がいるので国境には常に軍隊を置いていました。歳弊を送っているとは言え絶対安全とはいえず、西夏のように国境付近で軍を動かしている国もいたからです。宋は125万人の兵力を抱えていて、税収の7割が軍事費に消えていました。
さらに宋は大量の役人を抱えています。宋は軍閥統治をやめて文官を優遇、大量に採用したのです。さらに科挙に受からなくても恩陰(推薦)で役人になれる制度がありました。有力な家門は恩陰で一族の者を役人にしていました。こうして役人の数が増えすぎたのです。
役人の数は唐の時代の倍。役人の給料も唐の時代の倍です。大雑把に見積もっても役人に支払うコストは唐の時代の4倍です。それを唐より領土の狭い宋が維持しているのです。
「無駄な役人19万人を削減せよ」という意見も出ましたが。改善されませんでした。
しかも税を納めるはずの農民たちが減りました。税を払えない農民が土地を手放して小作人になる者が増えたのです。そうして大臣や有力官僚・地主は所有する土地を増やしました。彼らは特権階級なので税は払いません。
支出は増える。納税者は減る。その結果、税の負担は重くなり。人々の生活は苦しくなっていきます。
軍では失業者を兵士として雇いました。仁宗時代の兵力が多いのは雇用対策のいち面もあります。しかも文官が軍の司令官になっていたりします。宋軍は兵力が多い割には軍は強くありません。
これではいくら宋が経済大国と言っても保つはずがありません。
仁宗の時代には財政難はまだ始まったばかり。いくつかの政策を実行しようとしましたが。重臣たちの反対あって具体的な成果は出ませんでした。
慶暦の治
仁宗の時代は「慶暦の治」とよばれます。優秀な知識人が多く出て平和で安定した時代だと言うのす。ところが仁宗時代は具体的な成果は出てません。文官を優遇していたので文官たちが皇帝を褒めているだけ。
現実には財政難は始まっていましたがまだ深刻だと思う人は少ないです。豊かで安定した世の中だと信じていられた最後の時代でした。だから後の時代の人達から見ればいい時代に見えるのです。
嘉祐8年(1063年)。仁宗は跡継ぎがいないまま病死。従兄(いとこ)の英宗 趙曙が後を継ぎました。
テレビドラマ
開封府・北宋を包む青い天 2017年、中国 演:由姜潮
孤城閉・仁宗、その愛と大義 2020年、中国 演:王凱(ワン・カイ)
大宋宮詞 2021年、中国 演:由鄭偉
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