蕭綜(しょう・そう)は6世紀の中国南北朝時代の南朝・蕭梁の皇族。
初代皇帝・武帝の次男です。
蕭綜の母は南斉の廃帝 蕭宝卷の後宮にいました。蕭衍が反乱を起こして工程になると、蕭衍の側室になっていました。そのため蕭綜は蕭宝卷の子ではないかという噂がありました。
蕭綜はその噂を信じて北魏に亡命。蕭賛(しょう・さん)と名乗りました。
中国ドラマ「美人骨・周生如故」の蕭晏/蕭文のモデルにもなりました。
史実の蕭綜はどんな人物だったのか紹介します。
蕭綜の史実
いつの時代の人?
生年月日:502年
没年月日:531年
姓 :蕭(しょう)氏
名称:綜(そう)→賛(さん)
字:世謙→徳文
国:蕭梁→北魏
称号:(梁)豫章郡王→(魏)高平郡開國公、丹楊王
父:武帝 蕭衍(しょう・えん)
母:淑媛 呉景暉
妻:陳郡袁氏、元莒犁
子供:蕭直、蕭某
日本では古墳時代になります。
おいたち
502年。梁(蕭梁)で誕生。
蕭梁の正式な国名は「梁」ですが同じ名前の他の国と区別するために「蕭梁」とか「南朝梁」といいます。
父は蕭梁の初代皇帝 武帝 蕭衍(しょう・えん)
母は側室の淑媛 呉景暉
呉景暉はもともとは斉の廃帝 蕭宝卷の後宮にいた人物です。
501年に蕭衍が蕭宝巻を廃して皇帝になったとき。蕭衍は呉景暉を自分の側室にしました。その7が月後、蕭綜が誕生。
そのため蕭綜は廃帝 蕭宝巻の子ではないかと噂されました。でも武帝 蕭衍は自分の子だと信じていました。
蕭綜は15歳になるまで 昼も夜も呉景暉の前で裸で遊ぶことが多かった。
廃帝 蕭宝巻の子だと信じる
やがて淑媛 呉景暉は歳をとり武帝の寵愛を失いました。彼女は息子に不満を漏らし、噂は本当だと言ってしまいます。
蕭綜は密かに斉朝の皇帝たちの霊廟を作り、斉の明帝の陵墓を参拝しました。でもまだ自分が蕭宝巻の子だとは信じられません。そこで人から骨に血を垂らして染み込んだら肉親だと聞き試してみることにしました。
蕭綜は蕭宝巻の墓を暴いて遺骨を取り出し、自分の血を遺骨に滴らせ、血が骨に染み込むのを見ました。その後、生後1ヶ月の次男を殺して土に埋め。その後掘り返して骨に血を垂らしました。同じように血が染み込みました。そこで蕭綜は自分が蕭宝巻の子だと信じ、父を憎みました。
蕭綜は精神と脚を鍛えるため、家に砂を敷き詰め毎日裸足で歩きました。その結果、1日に300里(120km)歩けるようになったと言います。もちろん誇張されていますが、そのくらい身体を鍛えていたということです。
蕭綜は表向きは父に大人しく従っていました。蕭衍の他の息子たちは蕭綜を疑って排斥するよう言いましたが、蕭衍は蕭綜を非常にかわいがっていました。
517年。北中郎将軍に任命され、南徐州刺史になりました。
蕭綜は刑罰が厳しく残忍でした。 彼はまた非常に力持ちで、疾走する馬を従わせ、仔馬や子牛を殺すことができた。 彼はよく私服に着替えて密かに外出しました。夜になると道教の僧侶を招いて道教の術を研究しました。
武帝は非常に厳しい人物だったので、臣下たちは蕭綜の行いを武帝に伝えませんでした。
蕭宗は徐州から宮廷に戻ると、土地を広げるために国境に派遣してほしいと何度も願い出ましたが、武帝は派遣しませんでした。すると蕭宗は徐州の梁の木をすべて切り倒すように命じました。
521年(普通2年)。都に戻り侍中、鎮右將軍になりました。
523年(普通4年)。蕭綜は持節、南兗、兗、青、徐、冀五州諸軍事、平北将軍、南兗州刺史に任命されました。
北魏に投降
524年(普通5年)。鎮北将軍の称号が与えられました。
蕭綜は南斉の建安王 蕭宝寅が北魏にいることを知り、人を派遣して彼と密かに連絡をとり彼を叔父として認め、北魏に投降することを約束しました。
普通6年(525年)。武帝は北魏を攻め。北魏の将軍 元法僧が梁に降伏、彭城を明け渡しました。梁武帝は蕭綜に多くの兵を率いて彭城を守備するよう命じました。
しかしその後、武帝は蕭綜に軍を撤退するよう命じます。蕭綜は南に帰ると蕭宝寅と会する機会がなくなると考え、夜間に数騎を率いて魏の将軍 元延明のもとに投降しました。
それを知った武帝 蕭衍は怒り、呉淑媛を庶人に落としました。呉淑媛はまもなく病死しましたが、毒殺されたとも言われます。呉淑媛が亡くなった後、蕭衍は悲しみに打たれ、詔を下して彼女の品位を回復、敬という諡号を贈り、彼女の孫の蕭直に葬儀を執り行わせました。
北魏時代
北魏に投降した蕭綜は 司空公 の地位を授けられ、高平郡開国公、丹楊王に封じられ、食邑として七千戸を与えられ、賞金300万、布3000匹、雑彩1000匹、馬50匹、羊500頭、奴隷100人が与えられました。
蕭綜は武帝との父子関係を断ち切るために、名前を「賛」に改め蕭宝巻の祭祀を行いました。
武帝がそれ知ると彼の領地を没収。彼の家族の戸籍を廃止、息子の蕭直の姓を「悖」に変えました。しかし十日も経たないうちに、武帝は蕭直の家族籍を復活させ、彼を永新侯に封じ、食邑として千戸を与えました。
反乱に参加しようとして失敗
527年(孝昌3年)。蕭宝寅が長安で反乱を起こしました。蕭賛は洛陽を離れて反乱に加担しようとしました。
しかし北魏の法律では橋を渡る際に馬に乗ってはいけません。でも蕭賛は馬に乗って渡り、橋の役人に捕まり、洛陽の朝廷に送られました。でも蕭賛の行いは蕭宝寅の反乱とは無関係と判断され、彼は許されました。
北魏の孝荘帝の時代。
永安2年(529年)。司徒公に任命されました。11月、太尉公に昇進しました。
その後、孝荘帝の姉・壽陽長公主と結婚。駙馬都尉に任命されました。
史書には「公主は容貌が美しく、綜は彼女を非常に尊敬しました。公主と話す時、彼は常に自分を下官と称しました。」と記されています。
永安3年(530年)4月。蕭賛は使持節、齊濟西兗三州諸軍事、驃騎大将軍、開府儀同三司、齊州刺史に任命されました。
南梁の陳慶之が北魏の北海王 元顥を擁立する名目で北魏を攻め、洛陽に侵入しました。蕭賛は南への帰国の意志を表明。武帝は彼の幼少期の服を送り、親子の情に訴えかけようとしました。しかし元顥はすぐに敗れ、陳慶之は敗走。この計画は実現しませんでした。
蕭賛の最期
永安3年(530年)12月、爾朱兆と爾朱度律が洛陽を攻めて孝荘帝を暗殺。
すると斉州の趙洛周が挙兵。城を攻めて斉州刺史の蕭賛を追放しました。
壽陽長公主は洛陽に連行され、爾朱世隆は彼女を自分のものにしようとしましたが、公主は拒否して殺されました。
蕭賛は追放されて僧侶になり長白山に潜伏。
永安4年(531年)。白鹿山に移動後、陽平に向かい、そこで病死しました。享年30歳。
テレビドラマ
瑯琊榜 2015年、中国 演:黄維徳 蕭景桓のモデル。
美人骨・周生如故 2021年、中国 演:周陸啦 蕭晏/蕭文のモデル。
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