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周新(しゅう・しん)明朝時代の名奉行は死後に 神になった

明 2.3 明の臣下と人々

周新(しゅう・しん)は明朝時代の役人。

周新は正義感が強く正直な性格で事件を裁くことに長けていたため、「冷面寒鉄(鉄のように冷徹な顔)」と呼ばれていました。

按察使(あんさつし:地方の役人を監督したり、治安維持、司法を担当する役所の所長)として活躍。

浙江省での按察使時代には様々な不正をあばいたり事件を解決したりして民衆の支持を集めました。

ところが錦衣衛の指揮使 紀綱にはめられ無実の罪で処刑されます。

死後、冤罪だったことがわかり紀綱は処分されました。

史実の周新はどんな人物だったのか紹介します。

 

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周新の史実

いつの時代の人?

生年月日:不明
没年月日:1413年

姓 :周(しゅう)
名称:志新(ししん)→新(しん)
字:日新(じつしん)→志新(ししん)

国:明

父:不明
母:不明
妻:有り

子供:なし

彼はです明朝、永楽帝時代の役人です。

日本では室町時代になります。

 

おいたち

本名は志新(ししん)ですが。明の永楽帝 朱棣から「新」と呼ばれることが多かったので、「新」を名前に、「志新」を字(通称)にしました。

生年は不明。

広東広州府南海県の出身。

明ができて間もない洪武年間。

地方の役人出身。薦進で太学に入学しました。

建文元年(1399年)。大理寺評事になりました。大理寺とは刑法、司法を担当する役所のこと。古代中国では「寺」は仏教施設ではなく役所の意味でした。

就任早々、事件解決の手腕で一躍有名になった。

靖難之役の後。永楽帝が即位。「監察御史」に任命されました。

周新は相手が皇帝の親族や有力な官吏であっても、不正な行いをしていると判断したら容赦なく弾劾を起こしました。

そのため、都中の貴族はもちろん都の子供たちまで周新の怖さを知りました。親たちは「周新が来るよ」と言って子供をしつけることもありました。

周新は私利私欲を捨てて誠実に役目をこなしていたので「冷面寒鉄」と呼ばれました。

永楽元年(1403年)。周新は福建省の巡按御史を命じられました。

周新が調査すると、福建省の衛所(沿岸を守るために駐屯する部隊)の武官が地方の役人に横暴な態度を取っていることがわかりました。そこで「衛所の武官と地方の役人は対等である。敬意をもって接するべきである」と報告。その後、衛所の武官の態度は大人しくなりました。

その後、周新は北京を訪れ、永楽帝に地方の監獄制度の改革を提案。永楽帝は周新の提案を承認しました。

その後、周新は雲南省の按察使に決まりましたが就任する前に浙江省の按察使に変更になりました。当時、浙江省では不正が多く周新の活躍に期待が集まっていました。

 

浙江での実績

浙江省に来た周新は人々の期待通り役人の不正を暴いたり様々な取締をしました。

周新が初めて浙江に来た時。馬に乗っていたところ、飛びバッタの大群が飛び交っているのを見つけました。バッタのいるところをよく見ていると。茨の茂みの中に死体があって、その死体にはナイフで刺された後があり、身元を調べてみると死んだ男は布商人だとわかりました。商人は布の買付に来ましたが商品は奪われたとわかりました。調査の結果、別の布商人が強盗に返送して彼を殺し、彼の商品や財産を奪ったことがわかったので逮捕しました。

またある商人は家に帰る途中、夕方になったので強盗に金を奪われるのを恐れて寺に金を隠して家に戻りました。そして妻に金の隠し場所を話しました。後日、商人が金を取りに行ったところ金はなくなっていたので周新に調べてもらいました。すると商人の妻が浮気しているのがわかりました。愛人は商人が妻に金の隠し場所を教えたのを聞いていて金を盗んだことがわかりました。商人の妻と愛人は死刑になりました。

周新は庶民に変装して視察するのが好きでした。

あるとき周新はわざと県令(知事)に逆らって投獄されました。牢獄に入った周新は囚人に罪状と裁判の過程を詳しく聞きました。すると役人たちは腐敗していて、無実の人もいることがわかりました。そして牢獄の番人に「私は按察使」だと正体を明かして、外に出たあと県令を尋問。県令は恐る恐る自白しました。その県令は解任されました。

永楽10年(1412年)。浙西で大洪水が起こりました。ところが趙居任はそれを報告しなかったので、周新が皇帝に訴えました。夏原吉は趙居任をかばいました。皇帝は再調査を命じました。すると周新の言う通りでした。そこで皇帝は被災者の税を免除じて救済しました。

他にも周新の実績がいくつも歴史書の「明史」に記録されています。

 

冤罪で処刑

明には歴代中国王朝の中でもとくに独裁の強い国で。皇帝直属の秘密警察「錦衣衛」が存在しました。明の建国者・洪武帝 朱元璋が作った組織で。皇帝に謀反を起こす者を見張るために皇族や臣下、人々を監視しました。

永楽帝は即位すると錦衣衛の権限を強化。直接囚人を尋問する権限を持ち、もともとあった刑部(警察)や大理寺(監獄と尋問する部署)の権限が及ばないようにしました。

強すぎる錦衣衛の権限は様々な弾圧事件を起こします。

錦衣衛の司令官・紀綱(き・こう)は永楽帝に信頼されていました。

紀綱は部下を浙江省に派遣、事件を調査させていました。ところがその部下は賄賂を要求していました。それを知った周新は紀綱の部下を逮捕しようとしますが逃げられてしまいます。

やがて周新が文書を届けるため都に向かっていると、このまえの紀綱の部下がやってきて周新を捕らえてしまいます。

紀綱は周新の罪をでっちあげて永楽帝に罪人として報告。永楽帝は紀綱の報告を信じて周新の逮捕を命令しました。

周新は都に送られる間も拷問にかけられ、全身傷だらけになりました。都に連れて行かれると周新は大殿の階段の前でひざまずき「陛下、私には罪人を捉える権限があるのになぜ私が逮捕されるのですか?」と叫びました。

周新は相手が皇帝直属の部隊であっても自分には彼らを捉える権限があると思っていました。でも永楽帝は激怒。周新の言葉には耳を貸さず、周新が叫ぶのは自分に対して無礼な行為だと考え、周新の処刑を命じました。

周新は処刑される直前「私は直臣として生きた、死後は直鬼(皇帝を見守る霊)となろう!」と言って死んでいきました。

周新が処刑された後。永楽帝は深く後悔しました。知人に周新の出身地を聞き南海県の出身だと聞くと「嶺外にもこのような者がいたのか、惜しいことをした」とため息をつきました。

その後、都察院が紀綱に訴えを起こし、周新を陥れた紀綱は処刑されました。

 

死後、神になって崇拝される周新

周新の死が伝えられると人々は悲しみました。赴任先の江淅の人々は周新の慰霊碑や霊廟を建てました。出身地の広州に周新の死が伝えられると彼の生まれ育った「高第裡」を「仰忠街」と名前を変えました。

周新とその妻には子供がなく、周新の死後、妻は故郷に帰って貧しい生活を送っていました。広東巡撫の楊信民は周新の妻が貧しい生活を送っているのを気の毒に思って経済的援助をしました。周新の妻が亡くなったときは広東の役人たちが葬式に訪れました。

周新の死後。浙江の町では周新は城隍神(じょうこうじん)として祀られました。城隍神とはその町を守る神のこと。道教ではその土地にゆかりのある人が死後その地域の守り神になると信じられています。

神になった周新は不正と戦い続けているという信仰が生まれました。周新は現在でも道教の神として祀られています。

 

テレビドラマ

王朝の謀略 2018年、中国 演:姚櫓

 

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