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鉄鉉・燕王と戦い壮絶な最期をとげた忠臣とは?

明 2.3 明の臣下と人々

鉄鉉(てつ げん)は明朝の重臣。

洪武帝 朱元璋や建文帝に仕えました。

西域系の色目人を祖先に持ちます。

建文帝時代には反乱を起こした燕王朱棣に降伏せず、徹底抗戦した後に捕らえられ磔刑になりました。その戦いぶりは民衆たちから慕われ死後は各地で鉄公祠が建てられ祀られました。

史実の 鉄鉉はどんな人物だったのか紹介します。

 

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鉄鉉の史実

いつの時代の人?

生年月日:1366年
没年月日:1402年

姓:鉄(てつ)
名:鉉(げん)
字:鼎石

国:明
父:鉄仲名
母:薛氏
妻:楊氏

子供:鉄福安、福書、康安、娘2人。

日本では室町時代になります。

鉄鉉の生涯

元の至正26年(1366年)。鉄鉉は河南省鄧州(現在の鄧州市)で生まれました。

鉄鉉は色目人の家系の生まれ。
色目人とは元朝ではウイグル・テュルク・チベットや西域の人々を意味します。

若いころは国子監(役人を育てる国立学校)で学びました。鉄鉉は意思が強くて頭が良く、成績は優秀でした。

卒業後は礼部の事務官に選ばれ、後に都督府の断事(裁判官)になりました。彼は未解決の事件を審理しすぐに合理的な判決を下しました。

その才能は洪武帝 朱元璋からも認められ、朱元璋は彼に「鼎石」という字を授けました。

 

建文帝の時代

1399年(建文元年)。洪武帝が死去、建文帝が即位。

鉄鉉は建文帝からも信頼され、山東承宣布政使司参政に任命されました。

靖難の変

燕王の反乱

1399年(建文元年)。建文帝 朱允炆の叔父・燕王朱棣が北平で反乱を起こしました。

建文帝は大将軍 李景隆に討伐を命じ、当時山東の参政だった鉄鉉は物資の運搬を担当しました。このとき鉄鉉は兵糧の輸送を担当、一度も途切れることはありませんでした。

しかし李景隆は敗れ河北と山東北部の各城の守備隊は敗走しました。

済南の城を守る

建文2年(1400年)4月。朱棣は済南の城外で李景隆を打ち負かし、済南を包囲しました。

この時、済南の城内には都指揮 盛庸の部隊しかいません。少ない兵力で厳しい戦いとなりました。李景隆の北伐軍に物資を運んでいた鉄鉉は済南が危機に瀕していると聞いて急いで済南に向かい、盛庸と共に城を死守することを誓いました。

建文2年(1400年)6月8日。燕王の反乱軍が済南の城下に迫りました。

朱棣は矢で降伏を促す手紙を城内に射込みましたが、鉄鉉は逆に朱棣に皇帝を補佐するように返事を送ります。

鉄鉉を説得できなかった朱棣は城攻めを命じました。しかし鉄鉉は兵士を指揮し城を守りました。朱棣は長期間攻め続けても城を落とすことができず、包囲を続けるしかありません。

反乱軍を計略で破る

朱棣は済南を3ヶ月攻めても落とせません。そこで堤防を決壊させて水を引き込んで城を浸水させようとしました。

すると鉄鉉は千人の兵に偽の降伏をさせました。喜んだ朱棣は僅かな護衛だけをひきつれて済南城にやってきました。鉄鉉は城門に兵を配置して燕王が入ってきたら攻撃する予定でしたが、朱棣が入る前に攻撃が始まってしまいました。朱棣が乗っていた馬が死亡したものの、朱棣は別の馬に乗って逃げてしまいます。朱棣の暗殺には失敗します。

怒った朱棣は城を攻撃しましたが、3ヶ月たっても城を落とすことができません。

すると李景隆が20万の軍を率いて燕軍の補給路を断とうとしました。朱棣は仕方なく城の包囲を解いて退却します。

その後、鉄鉉は大将軍の盛庸と共に戦い徳州の各郡県を奪回しました。

鉄鉉たちの勝利を聞いた建文帝は喜び。鉄鉉は山東布政使に任命され、12月には兵部尚書に昇進しました。

戦火を免れた泉城の市民は鉄鉉を「城神」と呼ぶようになりました。

建文4年(1402年)4月。その後も、鉄鉉たちは燕軍と小河の南で交戦。一進一退が続きいます。

鉄鉉の壮絶な最期

1402年(建文4年)。燕軍は山東を攻撃。厳重に守られた済南を迂回して南に向かいました。最終的に首都を占領。建文帝の行方は不明となり、朱棣は自ら帝位を宣言。年号を永楽と改めました。

朱棣が帝位を奪取した後、北上して再び済南を攻撃。朱棣の軍は河北一帯で大量の市民を虐殺した。ついに朱棣が済南に到着。

鉄鉉は降伏を拒否しましたが、兵力の差はどうすることもできず最終的には落城。鉄鉉は捕らえました。

鉄鉉は永楽帝 朱棣に面会。鉄鉉は朱棣に背を向けて罵倒し続けました。朱棣は前を向くように命令したものの鉄鉉は聞きません。怒った朱棣によって鉄鉉を市中で磔刑に処されました。享年37。

野史での最期

鉄鉉の生き様や最期は人々の興味を掻き立てたらしく。

小説「明史演技」や「明史紀事本末」によると。

鉄鉉が都に連行され、皇帝に謁見させられました。彼は背を向け、永楽帝 朱棣を罵倒しました。永楽帝は前を向くように命じますが、彼は前を向きません。怒った永楽帝は鉄鉉の耳と鼻を切り落としましたが、彼はまだ顔を向けませんでした。

すると永楽帝は彼の肉を焼かせて口の中に入れて食べさせ

「味はどうか?」と尋ねました。

鉄鉉は「忠臣・孝行者の肉が不味いはずがないだろう」と答えました。

結局、永楽帝は鉄鉉を焼き殺しました。鉄鉉は死ぬまで罵り続けました。さらに永楽帝は大釜を持ってきて油を入れて煮詰め、鉄鉉の遺体を投げ入れるとすぐに炭になりました。そこで彼の遺体を永楽帝に向けて置こうとしましたができません。皇帝は激怒し内侍に鉄の棒を使って遺体を皇帝の方を向かせました。喜んだ永楽帝が「今、お前は私に顔を向けている」と笑いました。しかしその言葉が終わると油が沸騰して跳ね上がり、内侍たちは手が焼けて棒を放り投げ遺体は再び背を向けました。

皇帝は大変驚いて彼を埋葬するよう命じたのでした。

という凄まじい脚色が入ってます。

鉄鉉のエピソードとしてこちらが紹介されることもあります。

 

死後

鉄鉉の妻 楊氏と娘は教坊司に送られ官妓となり、息子の鉄福安は広西河池に配流された。83歳の父鉄仲名と母薛氏は海南に流されました。

 

テレビドラマ

永楽帝 2022年、中国 演:張天陽

 

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