唐粛宗 李亨(り・きょう)は唐の第10代皇帝。
玄宗皇帝の息子です。
安史の乱のとき。混乱のどさくさに紛れて父・玄宗に無断で即位。
その後は安碌山たち反乱軍から長安や洛陽を取り戻すため、ウイグルと同盟し長安と洛陽を奪回しました。
ところが都を取り戻した後は宦官や張皇后の横暴に悩まされ満足な政治ができませんでした。
史実の李亨はどんな人物だったのか紹介します。
唐粛宗 李亨の史実
プロフィール
生年月日:711年10月19日
没年月日:762年5月16日
姓:李(り)
名:嗣昇、浚、璵、亨(きょう)
廟号:粛宗(しゅくそう)
父:玄宗
母:楊貴嬪
妻:太子妃韋氏
張皇后
他、側室多数。
子供:14男、9女
代宗 李俶
越王 李係
齊王 李倓
衛王 李佖
など
彼は唐の第9代皇帝です。
日本では奈良時代になります。
聖武天皇(701~756年)、孝謙天皇(718~770年)とほぼ同じ時代の人物です。
おいたち
景雲2年9月3日(711年10月19日)。
父は唐の第9代皇帝・玄宗。
母は楊貴嬪。(楊貴妃とは別人です)
玄宗の三男でした。
兄たちが廃されて皇太子になる
李亨は生涯の間に何度も名前を変えています。即位時の名前が李亨でした。この記事では李亨と書きます。
玄宗の長男の李琮が早くに亡くなったため、
次男の李瑛が皇太子になりました。
開元25年(737年)その李瑛も廃されて李亨が皇太子になりました。
安碌山の反乱で楊一族が処刑される
天宝14年(755年)11月。安碌山が挙兵しました。
756年。長安に反乱軍が迫ってきたので玄宗とともに長安を脱出。
翌日。馬嵬(現在の陝西省咸陽市興平市)で兵士たちがストライキを起こしました。
将軍の陳玄礼が側近の李輔国を通して
「逆賊たちは楊国忠の成敗を大義名分にしている。それなら楊国忠を法の裁きにかけるべきだ」と訴えてきました。
皇太子・李亨は判断に迷いました。
すると玄宗の護衛をしていた兵たちが騒ぎ出しました。玄宗はしかたなく楊国忠と楊貴妃たち一族を処刑しました。
父・玄宗に無断で皇帝に即位
その後、玄宗は成都へ向かいました。
李亨は側近たちの勧めもあって反乱軍討伐のため北に向かいました。玄宗に従うものは少なく多くの兵たちが李亨に従いました。
このとき遣唐使で唐に来ていた阿倍仲麻呂も長安を脱出、粛宗・李亨たちの逃避行に同行していたと考えられます。
李亨は霊武に向かいました。
李亨は親王時代に節度大使を務めていました。地方の軍を管理する役職です。霊武やその周辺には李亨に従う者がいたので彼らを頼りにしようと思ったのです。
李亨は霊武に到着。
至徳元載(756年)7月。側近の李輔国たちの意見を採用して皇帝に即位しました。粛宗の誕生です。このとき粛宗は46歳。
父の玄宗には相談せずに独断で皇帝を名乗りました。クーデターと言われても仕方ありません。
父・玄宗には事後報告しました。
玄宗は霊武からの報告で李亨の即位を知りました。でも玄宗には李亨を責める気力も権力もありません。むしろ「後を任せるので頑張れ」という意味の返事を出して素直に「上皇」と名乗ってます。
帝都奪還をめざす粛宗
粛宗は首都を取り戻すための準備をはじめました。
反乱軍と戦っていた郭子儀(かく・しぎ)と李光弼(り・こうひつ)を霊武に呼び寄せ、長安奪還のために兵を集めました。
粛宗は息子の広平王 李俶(後の代宗)を大元帥に任命、討伐軍を指揮させました。
王族の李承寀を敦煌王に任命。使者をウイグル(回紇)に派遣。援軍要請をしました。葛勒可汗の娘が李承寀に嫁ぎ同盟が成立。
至徳2載(757年)2月。ウイグルの葛勒可汗は太子の葉護(ヤブグ)に軍を率いさせて、援軍を送ってきました。粛宗は広平王 李俶(後の代宗)を迎えに行かせ義兄弟にさせました。
粛宗はウイグル軍の援助を受けるため「長安を奪還したら3日間、長安の街を略奪してもよい」という条件を認めました。粛宗はその条件を受け入れてでもウイグルの協力が欲しかったのです。
この時代は、戦争で勝てば略奪は当たり前のように行われていたので。粛宗も「しかたない」と思っていたのでしょう。
このころ。安碌山が息子の安慶緒に殺害されるという報告が届きました。安慶緒には反乱軍をまとめる力はありませんでした。
唐とウイグルの同盟軍は9月までに長安を奪還しました。
ウイグルは約束通り長安を略奪しようとしましたが、さすがに李俶がウイグルの太子 葉護(ヤブク)に懇願して止めさせました。でもその代わり洛陽での略奪を認めました。
でも長安の街はすでに安碌山軍に略奪されていたのでかなり荒れ果てていたようです。
10月。粛宗は長安に戻りました。
11月。同盟軍は洛陽を奪還しました。
約束通りウイグルは略奪しようとしましたが、洛陽の長老たちが貢物を差し出したのでウイグルは略奪を止めて帰りました。
長安と洛陽の奪還に喜んだ粛宗はウイグルの太子 葉護(ヤブク)に毎年、絹2万匹を贈ると約束しました。
長安と洛陽の二つの大都市は取り戻しました。でも地方には安慶緒や史思明たちの軍がまだいました。反乱は完全に鎮圧できたわけではありません。
父・玄宗上皇を長安に迎える
長安を奪還した粛宗は蜀の成都にいる玄宗・太上皇帝に都に戻るように使者を派遣しました。
12月。玄宗上皇が長安に戻ってきました。粛宗は父と涙の対面をしました。臣下たちも喜んで上皇の帰還を迎えたといいます。
粛宗は歴代皇帝が使った大明宮で政務を行いました。
玄宗上皇は興慶宮で暮らしました。興慶宮はもともと皇子が暮らす場所ですが、玄宗はここを気に入っていたので皇帝時代にも政務を行う場所として使っていました。
粛宗は年老いた父が思い出の場所で暮らすことを認めました。
玄宗上皇は張皇后と李輔国を嫌っていたので粛宗に二人を寵愛しないように忠告しました。
張皇后と李輔国も「玄宗上皇が再び皇帝の座に戻って権力を取り戻そうとしている」と粛宗に吹き込みました。
やがて張皇后と側近の李輔国の意見に影響された粛宗は玄宗上皇の住まいを西宮甘露殿に移し、幽閉状態にしました。
玄宗に仕えていた高力士を地方に左遷しました。
皇后と宦官に牛耳られる宮廷
都を取り戻し、皇帝としての治世が始まった粛宗は塩の専売制を行い、財政の立て直しを目指しました。
ところが宮廷では宦官が大きな力を持っていました。
張皇后と宦官の李輔国が宮廷を動かしていたと言ってもいいくらいです。
756年。建寧王 李倓は彼らを批判しましたが、逆に謀反で訴えられてしまいます。
757年。粛宗は息子の李倓の自害を命じ、毒を飲ませました。
皇子の李俶と李泌は李倓が無実だと訴えました。粛宗も自害させたことを悔やみました。このころから粛宗は病で寝込むようになります。
上元元年(762年5月3日)。玄宗上皇が死去。
宝応元年(762年5月16日)。父の死から13日後に粛宗も死去しました。享年52。
テレビドラマ
麗王別姫 2017年、中国 演:李亨
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