董若萱(とう・じゃくけん)は中国ドラマ「長安賢后伝」の登場人物。
董若萱にはモデルになった人物が二人います。
一人は順治帝の側室。皇貴妃 董鄂(ドンゴ)氏。
もう一人は 董小宛(とう・しょうえん)です。
二人の経歴を合体させて一人の人物を作っています。
清朝の人物がモデルになってるのは「長安賢后伝」が「孝荘秘史」のリメイク作品だから。「孝荘秘史」は後金から清朝の時代が舞台でした。「長安賢后伝」は設定を唐の雰囲気がする中華王朝に置き換えたドラマです。
董若萱のモデルになった人はどんな人物だったのでしょうか?なぜ二人の人物が一人になってしまったのでしょうか?
ドラマ「長安賢后伝」の董若萱(とう・じゃくけん)とは?
名前:董若萱(とう・じゃくけん)
演:楊超越
少女時代:呂晨悅
声:段芸璇
新安王 董易の側室の娘。名門出身のお嬢さん。
幼いころはとは仲よしでした。陸令儀、司徒珍、春雨と一緒に入宮。蕭啓元と会ったことがあります。
親の異動で蕭啓元とは慣ればなりになりましたが。成長後、蕭啓元と再会。二人は恋に落ちました。
蕭啓元即位後は「清芷殿 貴妃」になりました。蕭啓元との間に第二皇子を出産。ところが第二皇子は幼くして死亡。
我が子の死からしばらくして董若萱も病死しました。
董若萱のモデル1 皇貴妃 董鄂氏
董若萱のモデルになった人は二人います。
第一のモデルは清朝の3代皇帝 順治帝の側室・皇貴妃 董鄂氏です。
董鄂氏の実家は満洲人の国・マンジュ国の有力な一族。
一族はヌルハチに協力して後金の建国に協力しました。
父は内大臣の鄂碩です。
1561年。董鄂(ドンゴ)氏が生まれました。
順治13年(1656年)。董鄂氏は18歳のときに皇帝に特に気に入られ側室になりました。そのあとは猛烈な勢いで出世します。
8月25日に賢妃になりました。
9月28日には皇貴妃になりました。
順治帝は、気位が高く母親が決めた孝恵章皇后が嫌いでした。
そのぶんよけいに順治帝は董鄂氏を寵愛しました。
順治帝の後宮には他にも何人もの妃嬪がいましたが、順治帝に最も愛されたのは董鄂氏でした。
董鄂皇貴妃は謙虚で自分の地位が高いからと言って傲慢になることはありませんでした。
順治14年10月(1657年)。董鄂皇貴妃が男子を出産。順治帝の第四皇子でした。順治帝は大変喜びました。順治帝は長男がうまれたかのように盛大な式典を行いました。
ところが第四皇子は100日ほどで死亡してしまいます。
董鄂皇貴妃はもともと体はあまり丈夫ではありませんでした。さらに息子の死にショックをうけて病気がちになります。
順治15年(1658年)。昭聖皇太后が病気になりました。このとき董鄂皇貴妃と順治帝は朝夕に看病しました。
このとき孝恵章皇后は看病しに来ませんでした。そこで順治帝は「親不孝者だ」という理由で孝恵章皇后を廃しようとしました。
でも董鄂皇貴妃はその話を聞くと、順治帝に「皇后を廃するなら私も生きるつもりはありません」と言って皇后になるのを拒否しました。
昭聖皇太后も順治帝を説得。廃后は中止になりました。
董鄂皇貴妃は心優しく他の側室にも親切でした。この時期は北京で天然痘が流行して宮殿でも病に倒れる人が何人もいました。董鄂皇貴妃は病で寝込む妃嬪を看病することもありました。ところが看病をしている董鄂皇貴妃も病気になってしまいました。
順治17年8月19日(1660年)。董鄂皇貴妃は承乾宮で亡くなりました。
順治帝は大変悲しみ董鄂氏を皇后の格式で埋葬しました。
その後まもなく順治帝も病死します。そして皇帝になったのが天然痘にかかりながらも生き延びた康煕帝です。
董若萱のモデル2 董小宛
もう一人のモデルは秦淮の美人・董小宛(とう・しょうえん)という説です。
董小宛の実家は商人でした。ところが親が死亡して没落。董小宛は妓生になりました。もともと美人だったうえに書道や絵画も得意でした。董小宛は江南でも評判になり。秦淮(南京付近)の八美人のひとりに数えられました。
董小宛は有名な妓生だったので様々な逸話が伝わっています。
やがて董小宛は明朝に仕える冒辟疆に身請けされ彼の妾になりました。
明末の混乱期。明は各地で反乱が起きて清とも戦争をしていました。
1644年。李自成の反乱で明は滅亡します。李自成軍は清に敗れ、清が北京を占領。
董小宛たちの暮らす南京も戦果に巻き込まれました。董小宛は冒辟疆とともに避難。
冒辟疆は董小宛が足手まといだと言って置いていこうとしましたが、冒辟疆の正妻・冒夫人や親が説得して董小宛も一緒に逃げることになりました。冒辟疆は董小宛を身請けしたもののその後はあまり寵愛していない様子です。
戦が終わり南京の家に戻りましたが一家は戦争で財産を失い貧しい生活をしていました。冒辟疆は病気になりました。董小宛は冒辟疆を看病しました。姑や冒夫人が看病を変わると言っても董小宛は冒辟疆を看病しました。
やがて冒辟疆は病気が治りました。ところが今度は董小宛が病気になりました。
1651年。董小宛が死亡。病死とされています。
董小宛が皇貴妃 董鄂氏になった
董小宛は南京では有名な妓生で様々な逸話や美談が伝わっています。董小宛は一度も清朝に仕えたことはありません。
ところがいつのまにか「董小宛は死んでいない、清朝の宮廷に連れて行かれたのだ」という物語が作られました。
ある物語では。
清軍の司令官・洪承疇は秦淮の八美人ひとり董小宛の評判を聞き自分の女にしようと思いました。そこで江南を攻略して董小宛を捕らえ自分の家に妾にしました。
ところが董小宛はいうことを聞きません。そこで洪承疇は順治2年(1645年)に董小宛を順治帝に献上したというもの。
董小宛を気に入った順治帝は側室にして董氏を皇貴妃にした。というものです。
なぜこんな話になったのかというと。董鄂氏も董小宛も姓に「董」の字が付いているから。確かに清が攻めた先には董小宛が住んでいた街がありました。でも董小宛はさらわれていませんし家族とともに暮らしたことが知られています。
中国の作家や歴史家は物語を面白くするため。そして清朝を意図的に貶めるため。面白おかしい物語を作ります。清朝にはとくに意図的に歪められた歴史が多いです。
ドラマの董若萱は重臣の娘、董小宛は妓生という違いはあるものの。董若萱の出身国は梁国(明がモデル)なので董小宛の影響がありますね。
順治帝は異母弟の妻を横取り?
董鄂(ドンゴ)氏にはさらに別の話もあります。
董鄂氏はかつてホンタイジの十一皇子・襄親王ボムボゴール(博穆博果爾)の妻だったと。それを順治帝が横取りした。という物語があります。
襄親王は実在した皇子。順治帝の異母弟です。でも襄親王の福普(正妻)は博爾濟吉特(ボルジギト)氏。董鄂(ドンゴ)氏ではありません。側福普もいません。
もちろんこの話も嘘なのですが。今でも人気があります。ドラマ化されるときはよくこの設定を使うこともあります。
「長安賢后伝」でも蕭啓栄が董若萱を好きになる場面があります。順治帝と襄親王が董氏を取り合ったという物語をヒントに作られているようです。
董鄂氏は18歳という当時としては遅い宮廷入り。その後は急激に出世して順治帝の寵愛を集めました。皇子を生んだ後、数ヶ月で死亡。自身も若くして死亡。その後、順治帝も病死。董鄂氏の生涯が物語のようなドラマチックな展開になってます。それだけに人々の妄想を掻き立てるのでしょう。
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