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チャンヒビン(禧嬪張氏)の史実・実在した朝鮮三大悪女の素顔とは?

多くのドラマに登場する張禧嬪(チャンヒビン)は朝鮮三大悪女の一人。500年続く李氏朝鮮でも良民(一般人)出身で、女官から王妃になった唯一の女性でした。

禧嬪張氏は権力欲の強い女性だと言われますが、史実の禧嬪張氏の生涯を史実に基づき解説。その出自や、南人派と西人派の激しい派閥争いの中で転落した運命をまとめました。

この記事でわかること

  • 張禧嬪の正しい呼び方である禧嬪張氏の基本情報と家族構成
  • 彼女が「賤民」ではなく良民出身であったという史実
  • 粛宗の寵愛を受けて王妃にまで昇格した経緯
  • 西人派・南人派の派閥争いにおける役割
  • 最終的に死罪に至るまでの波乱に満ちた生涯

 

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禧嬪張氏(チャンヒビン)の史実

いつの時代の人?

  • 生年月日:1659年
  • 没年月日:1701年
  • 名前:張玉貞(チャン・オクチョン)
  • 称号:禧嬪(ヒビン)
  • 父:張炯(チャン・ヒョン)
  • 母:尹氏(ユンシ)
  • 夫:粛宗(スクチョン)
  • 子供:
    • 長男・景宗(キョンジョン)
    • 次男・早世

彼女は朝鮮王朝(李氏朝鮮)の第19代王・粛宗の側室です。日本では江戸時代にあたります。

おいたち:良民出身の裕福な家

オクチョンの父は司譯院(外国語を教える官庁)の従八品の下級役人・張炯。母は後妻の尹氏です。オクチョンは末娘として育ちました。彼女が11歳のときに父が亡くなっています。

オクチョンは賤民ではなかった

母・尹氏の身分が低かったため、オクチョンは賤民だったという説がありますが、これは後の時代に捏造されたものです。尹氏は張炯の2人めの妻(側室ではなく、前妻が亡くなったための再婚相手)でした。

そのためオクチョンと前妻との間に生まれた兄姉との間には、親子ほどの歳の開きがあります。尹氏の墓は夫・張炯や前妻と並んで作られており賤民出身の側室であればこのような扱いはありえません。

オクチョンの家は両班(ヤンバン)ではありません。良民(両班と賤民の中間、いわゆる平民)の中でも裕福な中人という地位。訳官として成功した裕福な家柄でした。

それでも中人出身の王妃、女官出身の王妃はオクチョンただ一人です。それほど珍しい存在だっただけに身分にうるさい両班からは快く思われていなかったかもしれません。

宮廷に入ったのはいつ?

宮中に入った時期ははっきりとは分かっておらず、様々な説があります。11歳で父が亡くなった後に生活が苦しくなり宮中に入ったという説や、父が生きているときに、父の従兄弟の勧めで入ったという説があります。いずれにしても、オクチョンが若い時期に宮中に入っていたのは間違いないようです。

荘烈王后に仕える

オクチョンは、仁祖の2番めの正室・荘烈王后(チャンニョルワンフ)に仕える女官になりました。当時の荘烈王后は大王大妃になっており、粛宗の曾祖母にあたります。オクチョンは大王大妃に気に入られていたようです。

粛宗の寵愛と追放

1680年。粛宗の最初の王妃・仁敬王后が病気で亡くなった後、オクチョンは粛宗の寵愛を受けるようになりました。

しかし、1680年から1681年の間に宮廷から一度追い出されてしまいます。

粛宗の母で西人派明聖大妃は、南人派のオクチョンを気に入りませんでした。彼女は、西人派の重臣が担いでいる仁顕王后を脅かす存在だと考えたのでしょう。

このとき、荘烈大妃がオクチョンを自身の姪の実家に預けました。この姪は貴人チョ氏の息子・崇善寺君と結婚しており、このあたりの人間関係は複雑です。

再び宮中へ

1683年、粛宗が天然痘にかかりました。粛宗の回復後、病の願掛けで無理をした母・明聖大妃が亡くなります。

次の王妃・仁顕王后との間に、なかなか子供が生まれませんでした。明聖大妃の三回忌が終わると、再び荘烈大王大妃が動きます。

1686年。荘烈大王大妃と重臣たちは、再びオクチョンを宮中に戻し、粛宗に会わせました。病弱だった仁顕王后を尻目に、オクチョンはすぐに粛宗の寵愛を再び受けるようになります。当時27歳で側室になるには年を過ぎていましたが、粛宗はオクチョンの虜となりました。オクチョンは男を虜にする術を身につけた女性だったのかもしれません。

オクチョンは承恩尚宮(スンウンサングン、正五品)になりました。

粛宗の寵愛ぶりは仁顕王后の想像以上だったのかもしれません。危機感を持った仁顕王后は、新しい側室・金氏を側室に迎えましたが、オクチョンに対する粛宗の寵愛は変わりませんでした。

激化する派閥争い

仁顕王后を担ぐ西人派とオクチョンを担ぐ南人派の対立が激化します。粛宗は仁顕王后のいる昌徳宮ではなく、昌慶宮にオクチョンのための屋敷を建てました。

  • 1686年:淑媛(スグォン、従四品)となる。
  • 1688年:昭儀(スグィ、正ニ品)となる。

10月、長男・昀(ユン、後の景宗)を出産。

昀の元子冊封と禧嬪への昇格

1689年1月11日。粛宗は昀を元子(王の長男、世子となる資格を持つ)にすると発表。側室の子だと油断していた西人派は驚愕しました。

オクチョンは禧嬪(ヒビン、正一位)に昇格しました。

2月。宋時烈らが昀の元子冊封を取り下げるように講義しましたが、粛宗は激怒。西人派の重臣を罷免します。

粛宗は、亡くなっている禧嬪張氏の祖父にニ品の位を授けたり、伯父に官職を与えたりして張氏を優遇しました。これは、禧嬪張氏が身分の低い訳官の家柄だと陰口を叩かれないようにするためだといわれています。

己巳換局(キサファングク)と仁顕王后の廃位

権力を持った南人派は反撃を行い、宋時烈や西人派の重臣たちに罪を着せて追放してしまいます。

4月23日。粛宗は仁顕王后の誕生日のお祝いを省略せよと命令。しかし、国母の当然の権利だとして祝賀会が行われました。命令を無視された粛宗は激怒し、仁顕王后を猛烈に非難。「王妃としての資格がない」とまで言い始めます。

5月、仁顕王后は廃妃となります。さらに粛宗は、新しい王妃を選ばずに禧嬪張氏を王妃にすると宣言しました。昀は王妃の息子となり、王の後継者としての正当性を得ました。

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王妃になったオクチョン、そして転落

王妃への昇格

荘烈大王大妃の喪の期間が終わっていないため、正式に王妃になるのは10月にずれ込みました。

オクチョンの生母・尹氏は坡山府夫人の称号を得ます。既に亡くなっていた父の張炯は玉山府院君、父の最初の妻・コ氏は瀛洲府夫人の称号が贈られました。

  • 1690年6月:昀は世子になりました。
  • 1690年9月:次男・盛壽が生まれます。粛宗にとっては大君として生まれた最初の息子でしたが、盛壽はすぐに亡くなり、オクチョンはしばらく体調を崩しました。
  • 1690年10月:禧嬪張氏は王妃になりました。

こうして権力は西人派から南人派に移りましたが、今度は南人派の力が強くなりすぎてしまいます。

甲戌換局(カプスルファングク)と禧嬪への降格

1694年(粛宗20年)。西人たちが仁顕王后の復位運動を起こすと、南人派の右議政の閔黯(ミンアム)は、この機に西人派を一掃しようと大量に捕縛しました。

しかし、粛宗は一転して閔黯ら南人派の重臣を捕らえました。オクチョンの兄・張希載(チャン・ヒジェ)も捕らえられます。

粛宗は仁顕王后を王妃に戻し、オクチョンを禧嬪に格下げしました。生母・尹氏も坡山府夫人の称号を剥奪されます。チャン・ヒジェは淑嬪崔氏を毒殺しようとした疑いで流刑となりました。

最期:呪詛事件と死罪

1701年。闘病生活を送っていた仁顕王后が亡くなると、再び禧嬪を王妃にしようという意見が出ましたが、粛宗はそれを望んでいませんでした。

そんなとき、側室の淑嬪崔氏が「禧嬪が王妃を呪っていた」と訴えます。禧嬪張氏が祈祷をしていたのは事実でしたが、世子の病気回復のためだと主張しました。しかし、粛宗は淑嬪崔氏の言葉を信じます。

粛宗は、病気のために祈願していたことを知っていたかもしれません。しかし、儒教の影響の強い朝鮮では祈祷は禁止されており、祈祷をしていた事自体が犯罪となるのです。

粛宗は流刑中のチャン・ヒジェを死罪にします。そして禧嬪に死罪を命じました。小論派が禧嬪を弁護しましたが、粛宗の意志は変わりませんでした。

  • 10月7日:粛宗は「側室は王妃になれない」という規則を作りました。
  • 10月8日:粛宗は禧嬪に自害の命令を出しました。
  • 10月10日:粛宗は「禧嬪が自害した」ことを発表しました。

自害に追い込まれた禧嬪でしたが、葬式は王族にふさわしいものでした。墓も王族として葬られています。

禧嬪張氏は自殺した?

多くのドラマではオクチョンは粛宗の命令で毒を飲んで死んだことになっています。しかし、別の説として「自ら首をつって自殺した」という話もあります。本当のことは分かりません。

朝鮮実録には、オクチョンが死ぬ場面は載っていないのです。わかっているのは、粛宗が「禧嬪は自害した」と発表したことだけです。

 

まとめ:ドラマチックな生涯

禧嬪張氏は、燕山君の側室・張緑水(チャン・ノクス)、中宗の王妃文定王后に仕えた鄭蘭貞(チョン・ナンジョン)とともに三大悪女といわれます。従来のドラマでは嫉妬深く権力欲の強い女性として描かれていました。

しかし近年では、西人派と南人派の派閥争いの犠牲になったのではないかとも言われています。

いずれにしても、数々の業績を残し王としても優秀だった粛宗が、親の反対を振り切ってまで溺愛した女性がチャン・オクチョンです。普通の女性にはない何かを持っていたのかもしれません。

李氏朝鮮でも平民出身の王妃はオクチョンしかいません。低い身分から王妃になり転落したというドラマチックな人生は、現代でも人々をひきつけ、数々の作品に取り上げられています。

 

禧嬪張氏が登場する主なテレビドラマ

(放映年、放送局、主な出演者)

  • 張禧嬪(1981年、MBC)演:イ・ミスク
  • 仁顕王后(1988年、MBC)演:チョン・イナ
  • 妖婦 張禧嬪(1995年、SBS)演:チョン・ソンギョン
  • チャン・ヒビン(2002年、KBS)演:キム・ヘス
  • トンイ(2010年、MBC)演:イ・ソヨン
  • イニョン王妃の男(2012年、tvn)演:チェ・ウリ
  • チャン・オクチョン(2013年、SBS)演:キム・テヒ
  • テバク〜運命の瞬間(2016年、SBS)演:オ・ヨンア

 

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王妃・側室
この記事を書いた人

 

著者イメージ

執筆者:フミヤ(歴史ブロガー)
京都在住。2017年から韓国・中国時代劇と史実をテーマにブログを運営。これまでに1500本以上の記事を執筆。90本以上の韓国・中国歴史ドラマを視聴し、史実とドラマの違いを史料(『朝鮮王朝実録』『三国史記』『三国遺事』『二十四史』など)に基づき初心者にもわかりやすく解説しています。類似サイトが増えた今も、朝鮮半島を含めたアジアとドラマを紹介するブログの一つとして更新を続けています。

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