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山猫に取り替えられた皇子(宋仁宗)「狸猫換太子」

宋 4.1 宋の皇帝・男性皇族

「狸猫換太子」は中国の民間伝承。

狸猫=山猫の意味です。皇子が山猫と取り替えられたのでこの名前があります。

舞台になっているのは北宋の3代皇帝・真宗~4代仁宗の時代。

仁宗皇帝は真宗の側室・李氏(李宸妃)の子供です。
でも仁宗皇帝は劉皇后(劉太后)の子供として育てられ、長い間自分の生母が李宸妃だと知りませんでした。史実では仁宗皇帝が生母を知ったのは李宸妃と劉皇后の死後。

このままでも十分驚きの内容ですが。この史実をもとに様々な物語が作られました。そのひとつが「狸猫換太子」です。

「狸猫換太子」は元から明・清朝時代に作られたと言われます。演劇などで上演され。「打龍袍」「大宋奇案」「燒碧雲宮」「宋宮秘史」などの様々なバリエーションがあります。今でも京劇や小説、ドラマのネタにもなっています。

中国ドラマ「孤城閉~仁宗、その愛と大義~」や「大宋宮詞」でもこの話をもとにした部分があります。

劉太后を善人として描いている「大宗宮史」ではエピソードの一部に影響が見られる程度ですが。仁宗の立場から描いた「孤城閉」ではドラマ冒頭から親孝行と劉太后の悪事の間で悩む場面が描かれます。

この記事では物語として伝えられる「狸猫換太子」を紹介します。

 

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貍猫換太子(その1)

貍猫換太子にはいくつかのバージョンがあります。まず比較的古いと思われるお話を紹介しましょう。

李辰妃が皇子を出産

北宋の真宗皇帝の側室・李宸妃と劉徳妃が同時に妊娠しました。劉徳妃は女子を出産しましたが、娘はまもなく死亡。

李宸妃は男子を出産しました。

劉徳妃は太監(宦官)の郭槐に命令して李辰妃の産んだ皇子を山猫とこっそり取り換えさせ。取り替えた李氏の子は河で溺死させるよう命令しました。

李氏の子は劉徳妃の命令で河で溺死するはずでした。でも真宗皇帝の弟の八賢王・趙徳芳が密かに宮中から連れ出して「趙受益」と名付け我が子として育てました。

李辰妃は宮殿を追い出される

真宗皇帝は李辰妃が妖怪を生んだと信じて賜死にしようと思いましたが、さすがに殺すことはできず李辰妃を冷宮に入れました。

劉徳妃はそれでも諦めず、冷宮に放火して李氏を焼き殺そうとしました。幸いにも李氏は救出され民間で暮らしました。

真宗の養子になる

4年後。跡継ぎのいない真宗皇帝は八賢王の子・趙受益を養子にして徳妃に育てさせ。趙受益は皇太子になって「趙禎」と名を変えました。徳妃は皇后になりました。

仁宗高弟が即位

真宗皇帝が崩御。趙禎は「仁宗皇帝」に即位。劉皇后は皇太后になりました。

民間で暮らしていた李氏は自分の息子が皇帝になったのを知り、開封府の役人(江戸町奉行みたいなもの)だった包拯に自分が母だと訴え出ます。李氏は人々から狂った女だと思われ無視されていましたが、包拯は李氏が皇帝の側室だと証明する物を持っていたので彼女を信じました。

そして包拯は事件の真相を暴いて李宸妃を宮殿に戻しました。仁宗皇帝は生母と対面、李氏を皇太后にしました。

前皇太后の劉氏は賜死を言い渡され絹で首を吊りました。総管太監 郭槐は斬首になりました。

李太后は親不孝の仁宗皇帝に激怒。包拯に対して息子を杖刑にするように命令。でも包拯は皇帝を打つことができず、仁宗皇帝の着ている龍袍(皇帝の服)を脱いでもらって、龍袍を杖打って罰にしました。

 

貍猫換太子(その2)

上で紹介したものより長いバージョン。より詳しくなっています。

「三侠五義」にも似たエピソードがあります。

李辰妃が皇子を出産

北宋の真宗皇帝には息子がいませんでした。そこで真宗皇帝は皇子を生んだ物を皇后に、産まれた皇子を皇太子にすると発表しました。

10ヶ月後。李辰妃が産気づきました。

劉徳妃は動揺して自分の将来のために李辰妃を陥れようと太監の郭槐を買収。李辰妃の産んだ皇子を山猫とこっそり取り換えさせ。宮女の寇珠に命令して皇子を河で溺死させるよう命令しました。

皇子を溺死させるように言われた寇珠は太監の陳琳から八賢王 趙徳芳のもとに行くように言われ。皇子を八王府に連れて行きました。皇子を溺死させるように言われた寇珠は太監の陳琳から八賢王 趙徳芳のもとに行くように言われ。皇子を八王府に連れて行きました。

真宗皇帝は赤ん坊を見舞いに来ましたが。そこにいたのは山猫でした。

ショックを受けた真宗皇帝は李辰妃が妖怪を生んだのだと勘違い。李辰妃を廃して冷宮に入れました。

劉徳妃も皇子を出産

数日後。劉徳妃は息子を出産。劉妃は皇后になり、息子は皇太子になりました。

その後。太監 郭槐は皇子の遺体を捜索させますが見つかりません。郭槐は寇珠が命令に背いたと思い、陳琳に命令して寇珠を拷問しました。寇珠は陳琳に目で合図を送って鞭打たせて疑いを晴らしました。

3年後。劉皇后の息子は病死しました。 跡継ぎがいなくなった真宗皇帝は、八賢王の子(李辰妃の子)を養子として迎え皇太子にしました。

冷宮の李氏が火事に遭う

それからさらに3年後。7歳の皇太子はある日、遊びで偶然に冷宮に入り生みの親である李氏を見かけました。皇太子は宮中に戻り劉皇后に冷宮での不思議な出会いを報告しました。
李氏の存在を驚異に思った劉皇后は李氏の殺害を決断。
このとき後宮総管に昇進していた郭槐に命令して、冷宮に放火して李氏を焼き殺そうとしました。

幸いなことに李氏は忠義に厚い侠客によって宮殿から助け出されました。一人の兵士が自ら犠牲になって焼死体になり、誰なのか見分けがつかないほど焼けた焼死体が残りました。

李氏が死んだと思った劉皇后は不安がなくなりホッとしました。

李氏が発見される

18年後。陳州での仕事を終えて都に戻った包拯は李氏のことを知り都に連れ帰りました。そしてこの欺瞞と裏切りに満ちた事件の調査を開始したのでした。八賢王と陳琳は李氏と会って本人だと確認。時期を見計らって李氏を皇帝に会わせることにしました。

仁宗皇帝の即位後。包拯は皇帝に李氏が本当の母だと報告。でも幼い頃から八賢王と妃を実の親だと思っていた仁宗皇帝は包拯の言葉が信じられません。10年以上も親孝行してきた劉太后が自分の実母を殺そうとする敵だとは受け入れられませんでした。

しかし有能な包拯が嘘をつくとも思えず仁宗皇帝は悩みました。でもまだ信じられないので劉太后のもとを訪れ母と子の話をして劉太后の態度を確かめました。すると仁宗皇帝は劉太后の反応が怪しいことに気が付き、事件を調査させることにしました。

李氏が皇太后になる

結局、悪事がバレた劉太后は言い逃れできなくなり首を吊って自害。郭槐は斬首になりました。
仁宗皇帝は生母の李氏を宮殿に迎えて皇太后にしました。
李太后は包拯に命令して親不孝な息子を打つように命令。でも包拯は皇帝を打つことができません。仁宗皇帝の着ている龍袍(皇帝の服)を脱いでもらって、龍袍を打って罰にしました。

 

他にも様々なバージョンがあります。

「狸猫換太子」は京劇などでも上演され。小説やテレビドラマの題材にもなっています。

 

この物語に登場する主な人物は実在します。
歴史上の人物としての紹介はこちら。

・劉皇后 劉娥の詳しい説明はこちら。

・宸妃李氏の詳しい説明はこちら。

・宋 仁宗の詳しい説明はこちら。

・宋 真宗の詳しい説明はこちら。

 

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