耶律宗願(やりつそうがん)は大契丹国(遼)の皇子。
6代皇帝 聖宗 耶律文殊奴の六男です。
聖宗の息子の中でも最も年下で。7代皇帝 興宗、8代 道宗 耶律査剌の時代も生きて国を支えました。
北院大王、上京留守など重要な役職を務めています。
史実の耶律宗願はどんな人物だったのか紹介します。
耶律宗願の史実
いつの時代の人?
生年月日:1008年
没年月日:1072年
姓 :耶律(やりつ)
契丹名:侯古(こうこ)
字:訛里本
漢名:宗願(そうがん)
国:大契丹国(遼)
父:聖宗 耶律文殊奴
母:淑儀耿氏
妻:蕭氏(鄭国夫人)
子供:耶律弘用(右領衛将軍)
彼は契丹(遼)の6代 聖宗~8代 道宗の時代に生きました。
日本では平安時代になります。
おいたち
1008年に誕生(1009年ともいわれます)
父は契丹の第6代 遼聖宗 耶律文殊奴(隆緒)
母は淑儀耿氏
淑儀耿氏の父は同州節度使の耿紹忠。母は陳国太夫人 耶律氏。
耶律宗願は6男。聖宗の皇子の中では最も年下です。
開泰7年(1018年)5月。耶律宗願は左驍衛大将軍に任命されました。
このとき他の兄弟も役職についています。
その後。生涯の間に建雄軍節度使、中京留守、北院大王、上京留守を務めました。
1031年。父の聖宗が死去。兄の興宗 耶律只骨が即位。
このとき耶律宗願は23歳。
7代 興宗 耶律只骨の時代。
重熙17年(1048年)。饒楽郡王になりました。
1055年。興宗が死去。甥の道宗 耶律査剌が即位。
このとき耶律宗願は37歳。
8代 道宗 耶律査剌の時代。
咸雍年間(1065~)には徙混同郡王になりました。
咸雍8年(1072年)。上京で死去。享年65歳。
北院大王は皇族の有力者がなる地位ですし上京留守は首都の防衛担当責任者。聖宗から道宗の時代いにかけて重要な地位にいたことがわかります。とくに道宗の時代には皇族の年長者として高い地位についていたようです。
テレビドラマ
大宋宮詞 2021年、中国 演:龍柏源
ドラマの中では皇太子の趙受益が戴冠するとお祝いのために遼からやってきます。祝宴の場でみかけた真宗 趙恒の娘・寿康公主に一目惚れ。その場で結婚を申し込み。真宗 趙恒が結婚を許可してしまいます。
耶律宗願は寿康公主とともに遼に帰りました。
実際には耶律宗願は宋の公主と結婚はしていません。后族の蕭氏の娘と結婚しています。
大国同士の政略結婚は一目惚れやその場のノリで決まるようなものではありませんし。寿康公主は架空の人物です。
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