イングルダイは後金・清の将軍。
女真のタタラ氏の一族。
韓国時代劇を見た人は「ヨンゴルテ」の名前で覚えているでしょう。「ヨンゴルテ」は韓国語発音です。朝鮮の資料では「龍骨大」の名前で登場します。
皇帝直属の正白旗軍の一員でドルゴンの配下で活躍した猛将でした。
将軍のイメージが強いですが李氏朝鮮との外交を担当した将軍でした。勇猛なだけでなく交渉にも長けた人物でした。
史実のイングルダイはどのような人物だったのか紹介します。
インググルダイ(ヨンゴルテ)の史実
いつの時代の人?
生年月日:1596年
没年月日:1648年
名前:イングルダイ(Inggūldai)
漢字:英俄爾岱(中国側)、龍骨大(朝鮮側の表記)
「ヨンゴルテ」は朝鮮語読み。
姓:タララ(Tatara、他塔喇)
父:ヌオ
所属:満洲正白旗
イングルダイが生きたのは明朝末期から清朝初期。
日本では戦国時代末期~江戸時代初期になります。
精鋭部隊正白旗軍の一族
祖父・ダイトゥハリは一族50戸をひきつれてマンジュの指導者ヌルハチの配下になりました。
イングルダイの一族タタラ家は、清朝の八旗軍のひとつ正白旗軍の所属になりました。
正白旗軍はドルゴンの領地の人々から構成されています。八旗軍の中でも皇帝直属の上三旗のひとつ。白旗軍だけで2万6千の兵力を持っていました。
イングルダイは正白旗に所属する父ヌオのもとで働きました。
勇敢で若いころから様々な戦に出て昇進しました。
イングルダイはヌルハチのもとで戦いに参加してさらに手柄をあげました。
ヌルハチがアイシン国(後金)建国
1616年。ヌルハチは女真族をまとめてアイシン国(漢字表記は金国、過去に存在した金国と区別するため後金と呼びます)を建国しました。
1618年。力をつけたヌルハチはついに明に宣戦布告しました。
イングルダイはサルフの戦いで手柄をあげました。
1621年。明の遼東支配の拠点・遼陽と瀋陽を占領。イングルダイはこの戦いで大きな功績をあげて参将に昇格しました。
しかしその後、事故に巻き込まれて降格しました。
1626年。ヌルハチが死亡。ホンタイジが金国2代目国王太宗になりました。
ヌルハチの死後、朝鮮は明との関係を親密にして後金をおろそかにするようになりました。
光海君時代には朝鮮と後金の関係はうまくいっていました。しかし仁祖が即位すると後金とは疎遠になり明と親しくするようになったのです。
ホンタイジの時代
丁卯の役(丁卯戦争)
1627年。ホンタイジの従兄アミンを大将にして朝鮮に侵攻。朝鮮は降伏して、後金を兄、朝鮮を弟とすることで和睦しました。この戦いを朝鮮では「丁卯胡乱」といいます。
日本人の考える兄弟と違って大陸の人々が考える兄弟はその差は絶対です。弟は兄に逆らえません。朝鮮は後金の事実上の臣下になったのでした。
1628年。手柄をみとめられたイングルダイは参将にもどり、清の太宗皇帝ホンタイジから大きな信頼を得ました。
太宗ホンタイジの信頼を得て朝鮮との外交を担当しました。ときには穏やかに、時には強硬な姿勢で朝鮮の朝廷を動かしました。
1629年。ホンタイジは明の首都・北京に攻め込みました。イングルダイは800の騎兵を率いて戦い手柄をあげました。このころ後金は明の経済封鎖と飢饉に苦しんでいたので、何度も明に侵入して略奪を行っていました。
1631年。ホンタイジは明をお手本にした組織や官位制度を採用。イングルダイは「戸部承政」になりました。
朝鮮との外交を担当
ホンタイジは食糧不足を補うため、朝鮮に食料を出させました。イングルダイはホンタイジの国書を朝鮮に届け交渉を担当しました。
朝鮮 仁祖は毛文龍が後金の敵なので邪魔をしていると言い訳をして食料を出すのを断ろうとしました。ホンタイジは今は毛文龍の部下たちが後金にいる(このとき毛文龍はすでに明に処刑されて生きていません、その部下が後金に亡命しています)。船を護衛するから問題ないと返答。朝鮮 仁祖は食料を出すことに合意しました。
モンゴル遠征
1634年。ホンタイジはモンゴルのチャハル部を討つため遠征。大元皇帝リンダン・ハーンは後金との戦いに破れチャハル部は散り散りになりました。
ホンタイジはモンゴルの捕虜から1000世帯以上が行き場を失い困っていると聞き。イングルダイに捜索を命じました。
イングルダイはホウヘンバトゥルに会い千世帯を降伏させました。さらにタイジ・ブヤントゥの部隊と戦闘になりイングルダイは彼らを捕らえ200人以上を斬首、40人を捕らえました。
戻ったイングルダイはホンタイジから褒美を受け取りましたが。タイジ・ブヤントゥの部下達はイングルダイは降伏を認めず殺害したと主張したため、ホンタイジは怒ってイングルダイへの褒美をすべて取り上げました。
その後、イングルダイはホンタイジのもとで忠実に働き、その仕事ぶりが認められて表彰を受けました。
ホンタイジがダイチン国(大清)皇帝になる
ホンタイジは民族名をジュシェン(女直、女真)から マンジュ(満洲)にかえました。
満洲族・漢族・モンゴル族の頂点に立つ皇帝になりました。国号をダイチン(大清)と変えました。
1636年。皇帝になったホンタイジは朝鮮にイングルダイを筆頭とする使節団を派遣。朝鮮に臣下になるよう求めました。
このころになると朝鮮は再び強行派が主導権をにぎっていて、朝鮮は清の臣下になるのを拒否。さらには朝鮮朝廷の重臣たちが怒り出して国書をの受け取りを拒否、使節団の殺害を主張しだしました。
危険を感じたイングルダイは部下を全員引き連れて馬を奪って逃げました。慌てた朝鮮 仁祖は部下に国書を持たせてイングルダイを追っかけさせ、朝鮮からの返答を書いた国書を渡しました。そして朝鮮仁祖は国境を守る兵に警備を強化するよう指示しました。
さらにイングルダイは清に戻る途中、皮島を本拠地にする明の兵に行く手を阻まれましたが、撃破して鬼谷子ました。
しかし朝鮮の態度は清を怒らせます。
丙子の役(丙子戦争)
1636年12月~1637年にかけて清は朝鮮を攻撃しました。
清軍は仁祖の立てこもる南漢山城を包囲。
ホンタイジはヨンゴルテとマフタを派遣、仁祖に降伏を要求。
仁祖は最初はためらいましたが最終的に降伏。仁祖はホンタイジの前で三跪九叩頭をしました。
イングルダイは朝鮮との交渉で朝鮮の王子二人を人質にする、明との冊封体制をたつことなどを決めました。朝鮮との交渉を有利にすすめて名声を高めました。
この戦いを朝鮮では「丙子胡乱」と言います。
ホンタイジの死後、ヨンゴルテはドルゴンに仕えました。
1641年。ヨンゴルテはドルゴンとともに明の錦州を攻め。
1644年。ドルゴンとともに北京に入りました。
朝鮮に大きな影響力をもった将軍
イングルダイは清に人質として送られてきた昭顕世子とも交流を深めました。
以後、朝鮮の政治に大きな影響を与えます。
1645年。昭顕世子の死後、昭顕世子の息子たちを養子に迎えたいと考えていたといいます。しかしそれができないまま1648年。脳卒中で死亡しました。
イングルダイが長生きしていたら清と朝鮮との関係も変わっていたかも知れませんね。
イングルダイの通訳で朝鮮出身のチョン・ミンスはイングルダイの権威を利用して朝鮮国内で私腹を肥やし朝鮮国内で反発を受けることもありました。
ドルゴンの死後、順治帝はドルゴン派を粛清。イングルダイの子孫は降格になり。一族は衰退します。
テレビドラマ
南漢山城 1986年 MBC 演:ナ・ヨウンジン 役名:ヨンゴルテ
チュノ 2010年 KBS2 演:ユンドンファン 役名:ヨンゴルテ
三銃士 2014年 tvN 演:キム・ソンミン 役名:ヨンゴルテ
華政 2015年 MBC 演:キム・テハン 役名:ヨンゴルテ
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