中国ドラマ「尚食」に登場する喩(ゆ)美人にはモデルがいます。
明朝の第3代皇帝 永楽帝の側室・喩賢妃です。
あまり記録がありませんが。永楽帝が寵愛した側室だといわれます。
でも謎の死亡をとげてしまいます。
史実の喩賢妃はどんな人物だったのか紹介します。
喩賢妃の史実
いつの時代の人?
生年月日:不明
没年月日:1421年
姓 :喩(ゆ)氏
名称:不明
国:明
父:不明
母:不明
夫:永楽帝
子供:なし
日本では室町時代になります。
おいたち
生年は不明。
喩氏の生涯については不明。
喩氏が最終的に賢妃になったことくらいしか分かっていません。
永楽19年(1421年)3月22日。永楽帝の側室・喩氏が死亡。
永楽帝はその日を朝廷を休む日とし喩氏に祭祀を捧げ「昭順賢妃」の称号を与えました。
賢妃の喪葬の儀式は昭献貴妃のものと同じくらいの豪華さで行われたといいます。
その年の5月。さらに「忠敬昭順賢妃」の称号が与えられました。
賢妃の死後に起きた事件・魚呂の乱
魚呂の乱とは永楽帝の後宮で多くの妃嬪や宮女が殺害された事件です。
明朝の記録にはなく「朝鮮世宗実録」にだけ書かれています。
朝鮮の記録にある魚呂の乱
永楽20年(1420年)。永楽帝が寵愛していた王貴妃が死亡。
その翌年。永楽19年(1421年)。賈呂と宮人の魚氏が宦官と密通していることが発覚。賈呂と宮人の魚氏は自害しました。
永楽帝が賈呂を問い詰めたところ、彼女たちの侍女は永楽帝を暗殺する計画だったと言います。
永楽帝は激怒して関係者2800人を処刑。永楽帝自らが凌遅の刑を行いました。
怒った永楽帝は侍女たちを問い詰め多くの宮女が処刑され、任順妃、鄭氏も命を落としました。このとき韓麗妃も関係を疑われ、冷宮に幽閉されて食事を断たれました。
その後、永楽帝は画工に命じて賈呂と少年宦官が抱き合っている様子を描かせ、人に見せようとしましたが。魚氏を思いやるあまり、その絵は壽陵の側に埋められました。
洪熙帝が即位した後。その絵は掘り起こされて廃棄されたといいます。
ある説によると、このころ喩賢妃が死亡したことから考えて。「喩」と「魚」が同じ発音なので、朝鮮の使者が間違って「魚氏」として記録したといわれます。
また。「朝鮮世宗実録」の内容はあまりにもバカバカしく事実とは思えません。もとになった事件があったのかもしれませんが。かなり誇張しているようです。
というのもこの事件で犠牲になった喩賢妃や宮女には朝鮮から送られた貢女が多くいました。そのため、朝鮮側で永楽帝の悪逆ぶりを誇張して書いたのと思われます。
喩妃の葬儀で火災
また、ティムール朝の使者が「サハハル遣使中国記」にも同じ事件を扱った記録があります。
それによると。当時の明の宮廷では永楽帝の寵妃の葬儀が盛大に行われていました。
4月8日(5月23日)。明の朝廷は翌日に寵妃を埋葬することを宣言。
ところがその夜、紫禁城で大火災が発生。多くの人々が死亡しました。
使者の記録によれば、明朝は「葬儀の準備が整っているにもかかわらず、大火のため彼女の遺体がどうなったのかはわからなくなった」といいます。
このとき永楽帝は宮殿にいませんでした。永楽帝は寺院に行って非常に悲しみ。熱心に祈りを捧げ「天帝は私を怒って、私の宮殿を焼いた。私は悪いことをしていないが、親不孝なことも暴虐なこともしていない!」と述べました。
この事件の後、永楽帝は病に倒れて死亡。その後、息子の朱高熾が即位しました。
ティムール朝の記録では寵妃の名前や称号は書いてませんが、時期的には喩賢妃しかいません。
ティムール朝にもハレム(後宮)はあるので皇帝には何人もの妃がいて寵愛された妃が亡くなり、葬儀の準備の最中に火事が起きて大勢の犠牲者が出たことは理解できたはず。
朝鮮の記録に比べてあっさり目の記録なのは、他国で起きた他人事だったから。朝鮮の場合は、貢女で明に行った人が何人も犠牲になっているので注目度は高いですし、感情的になって誇張して書いた部分はあるでしょう。
そのためティムール朝の記録の方がまだ客観的。朝鮮の記録はかなり脚色されているようです。
この事件は「尚食」6~7話の喩美人の死亡と荘妃の幽閉の元ネタになってます。
テレビドラマ
尚食 2022年、中国 演:曾一萱 役名:喩美人
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