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徐允恭(輝祖)は最後まで建文帝のために戦い永楽帝を認めなかった武将

明 2.3 明の臣下と人々

徐允恭(じょ・いんきょう)は明朝建国の功労者・徐達の長男。
永楽帝の正室・徐皇后の弟です。

徐輝祖(じょ・きそ)ともいいます。

洪武帝や建文帝に仕え。燕王 朱棣が挙兵したときには建文帝側にたって戦いました。朝廷側に裏切りが続出するときでも、最後まで朝廷側の武将として戦い。朱棣が即位しても彼を君主と認めませんでした。皇后の弟ということで死罪は免れたものの、自宅に軟禁されやがて死亡しました。

史実の徐允恭 はどんな人物だったのか紹介します。

 

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徐允恭/輝祖の史実

いつの時代の人?

生年:1368年
没年:1407年

姓:徐(じょ)
名:允恭(いんきょう)→輝祖(きそ)

国:明
爵位:魏国公:

父:徐達
母:謝氏
姉:徐皇后(仁孝皇后)
弟:添福、膺緒、增寿
妹:徐妙錦
妻:李氏

子供:徐欽

日本では室町時代になります。

徐允恭/輝祖の生涯

1368年に誕生。

父は徐達。明の建国に最も貢献した将軍です。

母は謝氏。

徐允恭の身長は八尺五寸。本当だとすると2メートルを超える大男になってしまいますので本当かどうかは分かりません。当時としては背が高かったのでしょう。

才能に優れ、おしゃれだったといいます。

徐達が北平に遠征するときは徐允恭が留守を守り、徐家は規則に厳しくしっかり守っていたので洪武帝は徐允恭を信頼しました。

洪武17年(1384年)。左軍都督府になりました。

洪武18年(1385年)。父の魏国公 徐達が北平から戻る途中で病気が悪化。洪武帝は允恭に迎えに行かせます。でも徐達は死亡。允恭が爵位を継ぎました。

 

輝祖に改名

皇太子 朱標の死後、朱允炆が皇太孫になりました。
皇太孫 朱允炆の諱を避けるため「允」の文字が使えなくなり「輝祖」と改名しました。

輝祖は陝西、北平、山東、河南で軍務を担当。兵を訓練したり辺境の守りに就きました。

洪武26年(1393年)2月。燕王府のもと北元の武将だった阿鲁帖木児と乃児不花が怪しいと報告があります。そこで徐輝祖は洪武帝の命を受けて燕王 朱棣と共に阿鲁帖木児らを捕え南京へ護送しました。

 

建文帝の時代

建文帝に正確な助言

建文帝の即位後、太子太傅になりました。

建文元年四月。朱元璋の一周忌が近づき、燕王 朱棣は息子の朱高熾、朱高煦、朱高燧を南京に派遣しました。

燕王の子の扱いでは朝廷の意見が分かれました。齊泰は3人を拘束するように、黄子澄は全員帰すように建文帝に言います。

このとき徐輝祖は建文帝に「私の三人の甥の中で荒々しく無法者なのは高煦だけです。高煦は陛下に忠誠を尽くさないばかりか、父をも裏切るでしょう。将来必ず災いになります」と助言しました。

建文帝が徐輝祖の弟 徐増寿と駙馬 王寧に尋ねると二人とも彼らを庇ったので、建文帝は三人を帰しました。

すると朱高煦は徐輝祖の馬を盗んで逃げ、徐輝祖が人を派遣して追いかけました逃げられてしまいます。建文帝はこれを聞いて輝祖が正しかったと思ったのでした。

靖難の役

その後間もなくして朱棣が靖難の役を起こしました。

戦役の間、朱高煦は燕軍の武将として活躍。建文帝は「輝祖の言うことを聞かなかったのを悔やむ」と言いました。

建文3年4月。徐輝祖は白溝河の戦いに出陣。軍を率いて李景隆の撤退を援護。

建文4年正月。朝廷は徐輝祖に兵を率いて北上するよう命じました。その後、斉眉山で燕軍と戦って勝利。燕軍の李斌を斬りました。

暑さもあって朝廷軍は優勢に戦い、燕軍を追い詰めました。

ところが朝廷は燕軍が敗退したと錯覚。都を守るために徐輝祖を呼び戻してしまいます。すると淮北に遠征している朝廷軍は孤立して敗北しました。

燕軍が長江を渡った後も徐輝祖は燕軍を食い止めるために戦い続けました。

しかし徐輝祖の善戦もむなしく、李景隆たちの裏切りもあって朱棣が南京に入り。

次々と朝廷軍の臣下たちが降伏する中、徐輝祖は兵を引き連れて戦い続けました。その間に建文帝は宮殿に火を放ち自害しました。

 

朱棣を皇帝と認めず抵抗を続ける

朝廷軍の敗北が決定後。

輝祖は父の祠に留まり、朱棣を迎えようとしませんでした。輝祖は捕らわれて投獄されてしまいます。

朱棣は輝祖を呼び出して尋問しましたが、徐輝祖は一言も口をきかず朱棣を君主と認めませんでした。

司法部門が彼に謝罪の言葉を強制すると、徐輝祖は父が洪武帝から与えられた鉄券の言葉「開国功臣、子孫免死(建国に功績のあった臣下と子孫は死刑にならない)」だけを書きました。

朱棣は激怒。徐輝祖を殺害しようとしましたが妻の弟でもあるので中止、彼を自宅に返し俸禄と爵位を剥奪しました。

以後、徐輝祖は屋敷で謹慎生活を送ります。

永楽5年(1407年)。徐輝祖が死去。

徐輝祖の死後一ヶ月余りして朱棣は「中山王には後継ぎが必要だ」と長男 徐欽に魏国公を継がせました。

建文時代の抹殺と復権

その後、明朝では建文帝や建文の年号は存在しないことになり。徐輝祖の働きも公にすることはできませんでした。

14代 万暦帝の時代。建文帝が復権。南京に廟を設けて祭祀が行われ。徐輝祖も名誉が回復。太師を追贈され、「忠貞」の諡号が与えられました。

 

ふがいない朝廷軍を支えた徐輝祖

靖難の役では徐輝祖は姉の夫ではなく、建文帝に味方しました。私情にとらわれず、自分の役目を全うしようとしました。建文帝側には有能な人材が少なく。大きな戦力があっても有効に活かせませんでした。徐輝祖は父譲りの有能な武将で朝廷軍では数少ない貴重な人材でしたが。朝廷のトップは彼をうまく使いこなせませんでした。

 

テレビドラマ

永楽帝 2022年、中国 演:田峻丞
ドラマでは最後まで允恭の名前で登場。徐一家はユーモラスな描かれ方をしているので、允恭も徐妙雲と愉快な家族たちのひとりとして描かれます。

史実の「おしゃれで有能だが私情には流されず役目には忠実な武将」のイメージはありません。でも史実同様に朱棣の挙兵後は朝廷軍の兵を率いて燕軍と戦い。最後は幽閉されました。

 

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