唐太宗 李世民(り・せいみん)は唐の第2代皇帝。
唐の領土を最大に広げ。貞観の治とよばれる政治を行い唐の基礎を作りました。
太宗 李世民には長孫皇后の他にも多くの側室がいます。その側室の中から武則天も生まれました。
個性豊かな妃嬪たちがいたのも太宗の時代です。
そんな太宗の妃嬪たちを紹介します。
李世民の生没年は
生年:598年1月23日
没年:649年7月10日
皇帝在位: 626年-649年
享年:52(数え歳)
妃嬪たちとの年齢差もみてみると面白いかもしれませんよ。
皇后
文徳皇后 長孫氏
姓:長孫(ちょうそん)
字:観音婢(かんのんひ)
称号:文徳皇后
生年:601年
没年:636年
享年:36
埋葬地:昭陵(合葬:皇帝と並んで葬られること)
子供:
廃太子(恆山愍王)李承乾
濮恭王 李泰(魏王)
唐高宗 李治(普王)
長楽公主
城陽公主
普陽公主
新城公主
李世民の皇子時代からの正室。鮮卑の名門 長孫氏の出身。
実家の長孫家が政治に介入するのを嫌い、太宗に一族の者を贔屓しないように忠告しました。本人は政治に関わるのを嫌いましたが、太宗 李世民はよく長孫皇后にアドバイスを求めました。長孫皇后は頭がよく太宗に適切な助言をしたといいます。病のため36歳で死亡。
側室・四夫人(四妃)
四夫人は側室の中でも最高の位。
四夫人の中では貴妃が一番上。他の三夫人(淑妃・徳妃・賢妃)は地位は同等ですが、座る順番は決まっていたようです。妃にはなってもどの妃か記録に残ってないこともあります。その場合は楊妃、陰妃と「姓+妃」でよばれます。
韋貴妃
称号:貴妃、紀国太妃
姓:韋(い)
諱:珪(けい)
字:澤(たく)
生年:597年
没年:665年
享年:69
埋葬地:昭陵(陪葬:皇帝の墓の近くに葬られること)
子供:
紀王 李慎
臨川公主 李孟姜
ドラマ「武則天」では皇后のいない李世民時代の後宮で最高の権力をもち、ボスキャラ的存在として描かれます。でも歴史上はとくに目立った記録はありません。
楊貴妃
称号:楊貴妃、趙国太妃
生没年:不明
埋葬地:昭陵(陪葬)。記録には陪葬されたとありますが、発掘で確認はされていません。
趙王 李福の生母と記録されているだけでどのような人だったのかわかりません。太宗の時代には韋貴妃がいたので楊妃が貴妃になることはできなかったはず。「貴妃」は死後贈られたものかもしれません。
子供:
十三男 趙王 李福
楊妃
父:隋皇帝 煬帝
生没年:不明
埋葬地:不明
隋の煬帝の娘。隋滅亡時に捕虜になり李世民の側室になりました。四夫人の一人ですが 淑妃、徳妃、賢妃のどれだったのかはわかりません。
ドラマ「武則天」では「淑妃」の設定になっていました。ドラマでは「巣王妃楊氏」と同一人物の設定になっているときもあります。
子供:
呉王 李恪
蜀悼王 李愔
陰妃
地位:徳妃→嬪
父:陰世師
生没年:不明
埋葬地:不明
子供:
斉王 李祐。
陰妃の墓は不明とされますが昭陵に葬られている「陰嬪」が陰妃と同一人物。斉王 李祐の謀反で降格になったのだといわれます。
燕徳妃
地位:賢妃→徳妃→越国太妃
生年:609年
没年:671年
享年:63
埋葬地:陪葬昭陵
父:燕寶壽
子:敬王 李貞
隋の観王 楊雄は母方の祖父。
武則天の親戚(武則天の母方の祖父が楊雄の兄弟)。
陰妃が嬪に降格になると代わりに徳妃になり。
高宗の時代には太妃になりました。
鄭賢妃
生没年不明。
埋葬地:陪葬昭陵
父:徐孝徳
燕氏が徳妃になるとかわりに賢妃に昇格。
生前の詳しい記録はありません。
賢妃 徐恵
姓名:徐恵(じょ・けい)
生年:627年
没年:650年
享年:24
父:徐孝德
子供のころから詩が得意。その評判を聞いた太宗が召し出して才人(五品)にしました。
その後、倢伃(三品)、充容(嬪)になりました。漢詩を残し、唐で最初の女流歌人といわれます。太宗の死後、落胆した徐恵は病気で死亡。死後、賢妃に追尊。
九嬪
昭儀某氏
生年:601年
没年:682年
享年:82
埋葬地:陪葬昭陵
「某氏」とだけ書かれていて姓名や詳細は不明。
昭容 韋尼子
名前:韋尼子
生年:607年
没年:656年
埋葬地:陪葬昭陵
父:韋匡伯
元夫:王玄応
韋貴妃のいとこ。
鄭国皇帝 王世充の息子・王玄応と結婚していました。王世充が唐に敗北後。王玄応は庶人に落とされ、妻の韋尼子は秦王 李世民の側室になりました。
ドラマ「武則天」では皇后の死後、韋貴妃が姪を入宮させるエピソードがあります。その元ネタになったと思われる人物。実際には韋貴妃のいとこ。李世民が秦王の時代に側室になっています。
下嬪某氏
豫章公主の生母という以外は不明。
世婦(妃や嬪より下の側室)
多くの側室がいますが。主な人を紹介します。
楊婕妤
生没年不明。
父:楊恭道
隋の皇族。観王 楊雄 の孫娘。父の楊恭道は李淵に味方して唐の建国にも協力。太宗時代は魏王 李泰に仕えました。楊婕妤(ようしょうよ:正三品)は楊恭道の三女。燕徳妃とは祖父が同じ従姉妹。
巣王妃 楊氏や他の楊姓の妃嬪と一緒にされることもあります。
婕妤某氏
生年:不明
没年:665年
埋葬地:陪葬昭陵
姓名や詳しいことは不明。
蕭美人
生没年不明。
父:蕭鑠
武才人(武則天)
姓名:武曌(ぶ・しょう)
生年:624年
没年:705年
享年:82
中国史上唯一の女帝。
李世民の時代は最高で才人(五品)。母方の親戚が燕徳妃。意外と血筋がよく、母方は隋の煬帝とも血筋がつながっています。太宗から「媚娘」の名をもらいましたが、その後はあまり寵愛を受けていません。皇太子 李治と親しくなった可能性があります。
ドラマで描かれるように何もない底辺から上り詰めたわけでもなければ、太宗 李世民の寵愛を受けていたわけではありません。李世民の死後。高宗 李治の側室になり後に皇后。皇帝になりました。
崔才人
生没年不明。
父:崔宏道
蕭才人
生没年不明。
父:蕭鏗
その他
巣王妃 楊氏
もとは隋の皇族。隋滅亡後、斉王 李元吉の妻になりました。
玄武門の変で秦王 李世民が斉王 李元吉を討ち、李世民が皇帝に即位。李元吉の妻や側室は捕虜になって後宮に入れられました。
太宗の時代、李元吉は「巣王」と呼ばれたので楊氏は「巣王妃」と呼ばれることもあります。巣王妃は太宗の寵愛をうけ曹王 李明が誕生。長孫皇后の死後、太宗は巣王妃楊氏を皇后にしようとしました。でも重臣たちが反対して実現しませんでした。
正式に太宗の側室に冊封されたかどうかはわかりません。太宗の後宮にはいたようです。
子供:曹王 李明
テレビドラマや小説では「楊妃」と同一人物にされることが多いです。
ドラマ「風起花抄」で曹王 李明の生母・楊妃に皇后の噂があるのは巣王妃 楊氏のエピソードを採用しているから。
コメント