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ダワチ(達瓦齊) 清朝に敗れたジュンガル帝国最後の君主

ジュンガル 9 その他の国や民族

ダワチはジュンガル帝国の最後の君主。

ジュンガルの最後の君主になったのがダワチです。

ダワチはジュンガルの内部争いを勝ち抜いてホンタイジ(君主)になりました。ところが自分に味方していたアムルサナーと争うようになります。

アムルサナーは清朝に助けをもとめて、乾隆帝はジュンガルの討伐を決定。

ジュンガルは清朝との戦いに破れダワチは降伏しました。

ジュンガル帝国(ハン国)のあとは、遊牧騎馬民族が作った大規模な帝国が出現しなかったので最後の遊牧民帝国ともいわれます。

史実のダワチはどんな人物だったのか紹介します。

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ダワチ(達瓦齊)の史実

いつの時代の人?

生年月日:不明
没年月日:1759年

姓 :チョロース氏
名称:ダワチ(達瓦齊)

国:ジュンガル→大清
地位:ジュンガルハン国ハン(王)→ 大清帝国蒙古準噶爾部親王
称号:綽羅斯和碩親王

父:センゲ
母:不明
妻:嫡福普 愛新覚羅氏

子供:

彼女はです

日本では江戸時代になります。

 

ダワチはオイラト部族連合の名門チョロース氏の出身。

曽祖父はジュンガル部をオイラトの盟主にしたバートル・ホンタイジ。ホンタイジとは「君主」の意味です。

父はジュンガルの部族長センゲでしたが殺害されました。
その後、叔父のガルダンがあとをつぎジュンガルにの最盛期を築きました。

ガルダン・ハーンは康煕帝率いる清との戦いの最中に甥のツェワンラブタンに反乱を起こされ失意の中で死亡。

その後、ツェワンラブタンの子・ガルダンツェリンがジュンガルのホンタイジ(君主)になりました。

1745年。ガルダンツェリンが死亡。ガルダンツェリンの息子が亜を嫁ぎましたが後継者を巡って争いが起こりました。

その間、ダワチは名門出身でしたがジュンガルの支配権は他の家に奪われ。タルバガタイ地方に牧草地をもつものの。権力争いでは目立たない存在になっていました。

ラマ・ドルジがガルダンツェリンの息子を殺害してジュンガルの支配者になりました。ラマ・ドルジはコイト部出身で血統は高くありません。

ラマ・ドルジの即位に反対したのが血すじのよいダワチでした。

ところがダワチに味方するものは少なく、ホイト部長のアムルサナーとともにラマ・ドルジと戦いましたが敗北。ダワチはアムルサナーたち12人の仲間とともにカザフ・ハン国に逃げこみました。

その後、アムルサナーがホイト部と合流。1000人の仲間を集めました。

1752年。ダワチはアムルサナーの集めた兵とともに挙兵。

1752年12月。ダワチとアムルサナーはラマ・ドルジを倒し。ダワチがジュンガルのタイシ(宰相)になりました。

ダワチはバートル・ホンタイジの子孫で血すじがよかったのでジュンガルの人々に影響力がありました。

血すじの低いアムルサナーはダワチの権威を利用していました。でもやがて力をつけたアムルサナーはダワチに対してジュンガルの土地の半分をよこせと要求。ダワチはアムルサナーの要求を拒否。

1754年。ダワチはアムルサナーを攻撃。戦いに勝ちました。アムルサナーは大清国に逃亡して乾隆帝に助けを求めました。

乾隆帝はジュンガルの内乱を利用してジュンガル征服を計画します。

ところがダワチの評判はよくなく。オイラト・ホシュート部の大半はアムルサナーを追って清に投降しました。

ダワチの支配が及ぶのはジュンガル部だけになってしまいました。

清との戦い

乾隆20年(1755年)春。乾隆帝はをジュンガル攻撃を命令。20万の兵を動員しました。満洲軍とモンゴル軍の連合軍で、多くはモンゴル軍でした。乾隆帝はアムルサナーにも兵を与え北部ルートの左翼の副将を任せました。

3月。連合軍はモンゴルのウリヤスタイを出発。

6月にはボルタラ(現在の新疆ウイグル自治区北西部にあるボルタラ・モンゴル自治州)に到着。

清の大軍が接近し、その中にアムルサナーがいるのを知ったジュンガル人々の中には投降するものが続出。

戦いを続けることができないと判断したダワチは息子を北京に派遣して降伏を伝えさせました。しかし乾隆帝は降伏を拒否。戦闘は続きました。

イリ川沿いで何度かの小競り合いと小規模な戦闘が行われ。趙輝率いる清軍はイリに接近。

ダワチは南西のゲデン山脈に撤退。そこでダワチは残った10,000人の兵士と最後の抵抗をこころみました。ダワチ軍は敗北。ダワチは清軍に捕まってしまいます。

捕虜になって北京に送られたダワチでしたが。乾隆帝はダワチを許して「親王」の称号を与え清の王族・原理親王弘皙の娘と結婚させました。弘皙は廃太子・胤礽の息子。胤礽は廃されましたがその子は親王家として続いていました。

ダワチは晩年はカルガン(中国河北省張家口市)で暮らしました。

 

テレビドラマ

直接ダワチがテレビドラマに登場することはありません。

中国ドラマの乾隆帝時代を描いた清朝ドラマ「如懿伝」などでは。ジュンガルとダワチの名前が登場します。

「如懿伝」では乾隆帝の妹の恆娖(端淑長公主)がダワチと結婚したことになってますが。ダワチと乾隆帝の妹は結婚していません。恆娖(端淑長公主)も架空の存在です。

 

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