王欽若(おう きんじゃく)は10世紀末から11世紀初期の北宋の大臣。
2代 太宗、3代 真宗、4代 仁宗に仕えました。
寇準とは対立。見栄っ張りで宗教に凝っていた真宗のために封禅や道教の儀式を行いました。そのため莫大な予算を浪費したと批判されています。そのため歴史書や小説・ドラマでも悪い人物として描かれていることが多い人物。
人の言葉を読んで相手の好きなことを言うのが得意な人物でした。
史実の王欽若はどんな人物だったのか紹介します。
王欽若の史実
いつの時代の人?
生年月日:962年
没年月日:1025年12月22日
姓 :王(おう)氏
名称:欽若(きんじゃく)
字 :定国
国:宋(北宋)
父:王仲華
子供:
彼は2代 太宗、3代 真宗、4代 仁宗時代の人物です
日本では平安時代になります。
おいたち
臨江軍新喩県(江西省新餘県)の出身。
父の王仲華は鄂州の役人でした。長江の反乱で移住。その後、王欽若が生まれました。
王欽若が若いころに王仲華が死亡。
太宗が北漢の太原を攻めたときは、王欽若はまだ18歲でした。王欽若は「平普賦論」を書いて太宗の行営(遠征先の司令部)に献上したことがあります。
淳化3年(992年)。王欽若は科挙の進士甲科に合格。亳州防禦推官(軍の司令)に任命されました。
997年。2代皇帝 太宗が死去。3代皇帝 真宗 趙恒が即位しました。
真宗の時代
真宗 趙恒は皇子時代から親しくしていた者たちを昇進させました。その仲のひとりが王欽若でした。
王欽若は秘書省秘書郎、廬州の税制を監督することになりました。
減税
宋が中原を統一してしばらくは経済力が低く人々は重い税に苦しんでいました。
王欽若は先輩の役人から「世の中の民は五代の昔から今まで多くの税を払いきれていない。それでも過去の滞納分を払い続けている。重い税のため飢えに苦しんでいるのだ。滞納分を回収することはできないだろう。税を減らしてほしいと陛下に言おうと思う」と話しているのを聞きました。
王欽若さっそく部下に命じて過去の税額を調査。翌日、真宗の所に行って進言しました。
真宗は驚いて「先帝はこのことをご存じなかったのだろうか?」と言うと。
王欽若は「もちろん知っていたでしょう。陛下が民の心を掴むために残していたのではないでしょうか?」と言いました。
真宗は王欽若の進言を聞いて過去の滞納分を免除。捕らえていた人々も釈放しました。
こうして真宗は出費をせずに民からの評判を上げ。王欽若も真宗からの信頼を得ました。
その後、蜀で反乱が鎮圧された後。王欽若が西川安撫使に任命されました。王欽若は着任すると現地の囚人をあらためて尋問。死刑を言い渡されていた人たちや不当に重い罰を受けた人たちの刑罰を減らしました。王欽若は国のためになると思ったことはどんどん実行しました。
朝廷に戻ると左諫議大夫を務めた後。咸平4年(1001年)に参知政事(副宰相)になりました。
寇準との対立
景徳初年(1004年)。契丹が攻めてきました。
真宗は重臣たちを集めて対応を話し合いました。王欽若は金陵(現在の南京)への遷都を提案します。
しかし寇準は遷都はせず真宗が遠征すると主張。寇準は遷都を主張する王欽若たちを殺すと脅します。
真宗は寇準の意見を採用して遠征することになりました。
真宗が澶淵に遠征すると、王欽若も希望して遠征に同行、工部侍郎、参知政事判天雄軍、提舉河北轉運司を務めました。
戦いの後。「澶淵の盟」が結ばれました。毎年、絹20万疋と銀10万両を遼に渡すことになりました。真宗は和平が成立して大喜び。寇準を功労者と褒めています。
王欽若はそれが気に入りません。
1006年。王欽若は宋真宗に「寇準のやり方は博打と同じです。博徒は負けそうになると全財産を使って大勝負に出ます。寇準のやり方は危険すぎる賭けでした。」「澶淵の盟は春秋にある城下の盟です。これほどの屈辱は他にありません」と言いました。
(城下の盟:城を攻められて降伏したあと。城壁の下で結ぶ最も屈辱的な盟約の意味。春秋左氏伝という儒教の書物にある言葉)
虚栄心の強い宋真宗は王欽若の言葉を聞いて「なるほど」と思い寇準を降格させました。
封禅の儀
契丹との戦争は終わったものの。中華王朝のメンツとプライドは大きく傷つきました。真宗は皇帝の威信を取り戻したいと思い「神人が泰山で天に捧げよと言ってる夢を見た」と王欽若に言いました。
真宗の願望を理解した王欽若はある演出をします。
大中祥符元年(1008年)。王欽若は「天書」が発見されたと報告。天書とは天の神からのお告げを書いた命令書です。もちろん王欽若が作らせた物です。王欽若は天書を宦官に運ばせて真宗に献上しました。喜んだ真宗は宝前の儀式に向けた準備を命令。王欽若は丞相の王旦を説得。それでも心配な真宗は王旦に宝物を渡して従わせました。
王欽若は封禅の準備の責任者に任命されました。
「封禅」は皇帝が実際に泰山に行って儀式をするという盛大なイベントです。天下を統一した天子(=皇帝)しかできないとされ。歴代中華王朝でも一部の皇帝しか封禅は行っていません。実のところ宋は中原のすべてを支配しているのではありません。燕雲十六州は契丹のもの。貢物を送って安全を保証してもらっている立場です。
それでも真宗は封禅をしたいので契丹皇帝 聖宗の許可を得て行いました(国家をあげたプロジェクトでも契丹の顔色を見ながらしないといけないのが今の宋の現状です)。
とにかく辛い現実から目を背けるためも真宗は封禅にすがります。だから真宗の虚栄心を満たすためのイベントでした。王欽若はそんな真宗の心にうまくつけ込み、真宗を満足させる儀式を成功させました。
それだけではありません。真宗は道教に凝っていました。王欽若は真宗の望む施設を作ったり儀式を行いました。そのため費用を浪費したなどと批判されています。
この年。真宗は「冊府元亀」の編纂を命令。王欽若が中心になってプロジェクトを進め全1000巻が大中祥符6年(1013年)に完成しました。
天禧元年(1017年)。同平章事(宰相)になりました。
天禧3年(1019年)。太子太保(皇太子の師)になりました。
その後、南道節度使に任命されました。王欽若は病気のため都に戻って治療を受けたいと申請しましたが、宰相の丁謂に無視されました。
王欽若は息子の王従益にかわって貰い都に戻ってきました。すると丁謂が勝手に持ち場を離れたと批判。司農卿に降格され南京に異動になりました。
仁宗の時代
1022年。仁宗が即位。
王欽若は秘書監になり。太常卿、濠州知州、刑部尚書知江寧府に昇進しました。
天聖元年(1023年)。馮拯が病気になったので劉太后は王欽若を次の宰相にしようと思いました。仁宗は劉太后の意見を採用して王欽若を宰相に任命しました。
天聖3年(1025年)。病気のため死亡。
享年64歳。
重北人軽南人
宋は出身地の南北格差があった
王欽若や丁謂的は悪い重臣の代表だと言われ評判が悪いです。実際よりもさらに悪く叩かれがちです。
というのも宋では黄河流域の北方の人(北人)は長江流域の南方の人(南人)を差別していたからです。
宋は黄河周辺を本拠地にしていた後周から誕生。後周は後唐から続く沙陀軍閥から誕生した国です。いずれも黄河流域の北部を領土に持つ国でした。
宋は後蜀、南唐、南漢など南部の国を征服しました。そのため長江周辺の征服された地域の人たちは「二等臣民」扱いされていました。
宋の建国者・太祖 趙匡胤は「南人を取り立てるものは我が子孫ではない」と言い残しました。太宗も兄の方針は守っています。
でも真宗は皇子時代から王欽若と親しくしていました。真宗の寵愛する劉皇后が蜀(南部を代表する地域です)出身だったからという理由もあるかもしれません。
南部出身者で最初に最初になったのが王欽若です。
南北対立と重臣の派閥争い
こうしてみると王欽若たちが南に遷都を主張しりたのも別の意味があったことがわかります。
国の首都を自分たちの本拠地の南部に移したい。北部の土地など異民族にくれてやればいい。そうすれば北部の者たちの領地が失われ力を失い、自分たちの地位があがる。というわけです。
逆に北人の寇準が強硬に南への遷都に反対したのは北部を失えば自分たちの領地がなくなるから。寇準たち北人にとっては南部への移動は国の滅亡と同じです。
寇準 対 王欽若・丁謂的の対立は北人と南人の対立でもあったのです。
地位の上がる南派と反発する北派
宋が中華を統一したとき南部の人口はすでに北部の2倍になっていました。 南部の経済力が高まるにつれ宋の支配者は南人の政治的進出に抵抗できなくなりました。
そして南の知識人達たちが政界でも活躍するようになります。南人の政治家が増えると宋の政界では派閥争いが激しくなりました。
宋には北人による南人への差別があり、南人たちは出世ができにくかった。だから王欽若は何ふりかまわず真宗や劉皇后に取り入りました。そして北人の差別の壁を破ったのが王欽若と丁謂的だったわけです。
テレビドラマ
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