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コケジン・ハトゥン(コカチン姫) マルコポーロと旅したモンゴルの姫

モンゴル 3 元・モンゴル

コケジン(闊闊真)ハトゥンはイルハン国(フレグウルス)の7代君主ガザン・ハンの妃。
コカチンともいいます。

大元帝国(モンゴル帝国)からイルハン国のガザン・ハンに嫁ぎました。

東方見聞録にも名前の出てくる人物です。「東方見聞録」にはコケジンを送り届けた船にマルコポーロ一行が乗船していたことが書かれています。

モンゴル語の発音ではコケジン(Kökeǰin)ですが。他にもコカチン(Kokochin),クカチン( Kukachin),クカジン( Kukajin)、コガトラなどの呼び方があります。東方見聞録には写本が多く、本によって微妙に綴りが違います。

ハトゥン(カトン)は遊牧民王朝では「王妃」を意味する称号です。後に「ハトゥン」はトルコ系民族で「貴婦人」を意味する敬称になります。

NHKのアニメ紀行「マルコポーロ」では「コカチン姫」の名前で登場します。

 

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名前

名前:コケジン( Kökeǰin)
(闊闊真)

地位:イルハン国正妃 
称号:トクズ・ハトゥン(正妃)
出身:モンゴル・バヤウト部

生年:不明
没年:1296年

コケジンの出身バヤウト部

モンゴル高原のバヤウト部の出身。

バヤウト部族はモンゴル高原で暮らす遊牧民。テムジン(後のチンギス・ハン)の率いるモンゴル部族に味方した部族の一つ。(モンゴルはもともと部族の名前ですが。モンゴル出身のテムジンが国を作ったので、国・地域・民族の名前になりました)

モンゴル帝国を作ったチンギス・ハンはバヤウト部の功績を高く評価してバヤウト部を譜代の臣下としてとりたてました。バヤウト部からは重臣や妃を採用。チンギスハンの家系(ボルジギト家)に妃をだす后族として知られています。クビライの妃・バヤウジンもバヤウト部の出身です。

コケジンもそのバヤウト部で生まれ育ちました。

 

当時のモンゴル帝国

13世紀。第5代モンゴル皇帝 クビライの時代。モンゴル帝国(イェケ・モンゴル・ウルス)はいくつかのウルス(国)の連合体になっていました。

主な構成国は次の通り。

大元(モンゴル語ではダイオン・ウルス):モンゴル・中国方面。モンゴル帝国の盟主。中国史でいう「元朝」の部分。元=モンゴル帝国ではありません。モンゴル帝国の中でもクビライとその後継者が支配する地域、モンゴルと中国の部分を大元といいます)
イルハン国(フレグ・ウルス):イランを中心にした西アジア方面。
チャガタイハン国(チャガタイ・ウルス):カザフスタンを中心にした中央アジア方面。
キプチャクハン国(ジョチ・ウルス):ウクライナ・南ロシア方面。

大元を統治するクビライ・ハーンがモンゴル帝国全体の皇帝(大ハーン)です。

 

イルハン国から妃の要請

モンゴル帝国で中東方面を統治するイルハン国(フレグ・ウルス)では。

4代君主 アルグン・ハンの妃ブルガン・ハトゥンが死去。

ブルガン・ハトゥンは亡くなる前に、次の妃もブルガン・ハトゥンと同じバヤウト部出身の女性を選んで欲しいと希望しました。

そこでアルグン・ハンはウラタイ・アビシュカ・ホージャたちを使者として大元ウルスのクビライ・ハーンに使者に送り、バヤウト部から妃を出してほしいと申し出ました。

クビライ・ハーンはアルグン・ハンの申し出を認め。さっそくバヤウト部から妃を選びました。そこで選ばれたのが当時17歳だったバヤウト部のコケジンでした。コケジンは美女でした。アルグンの使者もコケジンを歓迎しました。

コケジンの旅

1288年ごろ。コケジンと使者は大元の首都・大都を出発。イルハン国のあるイランを目指しました。ところがモンゴルの皇族カイドゥの反乱の影響で旅を続けることができなくなり。大都に戻ってきました。

そのころ大都にはインド方面の航海から戻っていたマルコ・ポーロ一行が滞在していました。マルコ・ポーロはバチカンの使者としてクビライを訪問した父ニコロ・ポーロに同行。クビライ・ハーンに気に入られて使者として東南アジアやインド方面を訪れクビライに報告する任務を与えられていたといいます。

イルハン国の使者はマルコ・ポーロがインド方面の海や地理に詳しいと聞いて、一行とともに海路でイランに戻りたいと申し出ました。マルコ・ポーロを気に入っていたクビライ・ハーンは嫌がりましたが、仕方なく認めました。

マルコ・ポーロ一行をコケジンとイルハン国の使者に同行させ。クビライ・ハーンはマルコ・ポーロたちにローマ教皇にあてた手紙をもたせ。それを届けることを最後の任務にしました。

コケジンとマルコ・ポーロ一行は14隻の船団で大元を出向。東南アジアからインド方面を回って約18ヶ月かかって1291年にイルハン国に到着。

旅は非常に困難なもので、到着したときには多くの者が失われていました。使者のホージャとコケジンは無事到着しました。

 

イルハン国に到着

コケジンがイルハン国に到着するとすでにアルグン・ハンが亡くなっていました。
あとを継いだ5代君主 キハト・ハン(ゲイハトゥとも、アルグンの異母弟)は、コケジンをアルグン・ハンの息子ガザンに嫁がせるよう命令。

コケジン一行は、ガザンのいるホラーサーン地方(イラン東部)に向けて出発。コケジンはガザンの元に到着しました。コケジンの到着を見届けた後、マルコ・ポーロ一行はコケジンと分かれてヴェネツィアを目指しました。

コケジンは正妃「トクズ・ハトゥン」の地位を与えられました。

1296年6月。ガザン・ハンはイルハン国7代君主に即位。

しかしこの年、コケジン・ハトゥンは若くして亡くなってしまいました。

 

マルコ・ポーロと本当に一緒だったの?

「東方見聞録」は信憑性の怪しい部分も多いです。大元の記録にマルコ・ポーロが登場しないなど、マルコ・ポーロが本当にクビライに仕えたのか問題にする意見や、ひどい場合にはマルコポーロ本人は大元には行っていないという人もいます。

「東方見聞録」は誇張されていたり、伝聞も載せているので怪しい所はあります。でも大元の首都・大都や宮廷の様子が詳しく書かれていて、他の記録と比べても矛盾のない部分もあり。誰かがクビライの近くに行って見たり聞いたりしていたのは間違いありません。

さらに大元やイルハン国の記録からコケジン一行がこの時期に海路で大元からイルハン国に行ったのは事実です。

東方見聞録には誇張もありますがコケジン一行の部分は大きな違いはありません。もしかするとマルコ・ポーロはそんなに高い地位ではなかったかもしれませんが。コケジン一行にマルコ・ポーロたちも同行したのでしょう。

 

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