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楊禮壽(ヤンイェス)の生涯、許浚(ホジュン)の上司は明宗・宣祖の御医

朝鮮の人々 6 李氏朝鮮の人々

楊禮壽(ヤン・イェス)は李氏朝鮮時代の医者。

ドラマでは許浚(ホ・ジュン)の上司として出てくることが多いです。

明宗、宣祖の信頼も厚く御医をつとめました。

許浚の著作として有名な「東医宝鑑」は最初は楊禮壽を中心としたプロジェクトチームで作られはじめたものです。

史実の楊禮壽はどんな人物だったのか紹介します。

 

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楊禮壽(ヤン・イェス)の史実

いつの時代の人?

生年月日:不明
没年月日:1597年

名前:楊禮壽(ヤン・イェス)
本貫:河陰
父:不明
母:不明
妻:不明

彼が活躍したのは主に朝鮮王朝(李氏朝鮮)の13代明宗~14代宣祖の時代です。

日本では戦国時代の人になります。

おいたち

生年・出身地共に不明。

13代明宗の時代には医官となり王族の治療を行っていました。

内医院の主簿

1563年(明宗18年)。順懷世子の治療を行いました。しかし順懷世子が死亡したため、重臣たちの追求にあって責任を取らされて投獄されました。

しかし明宗の信頼は厚かったようです。その年のうちに復帰しました。

1564年(明宗19年)。禮賓寺判官に抜擢されました。

御医になる

1565年(明宗20年)。楊礼寿は御医(オイ)になりました。
御医とは王やその家族を治療する最高位の医官です。

1567年(明宗22年)。明宗が死去すると、再び重臣たちから責任を追求され他の医官とともに投獄されました。しかしすぐに復帰しました。王族が死亡した特に医官が責任を追求されるのは朝鮮の伝統のようです。

14代宣祖時代も内医院では中心的な地位にいました。

1587年(宣祖11年)。病気になった宣祖を治療しました。許浚(ホ・ジュン)の功績のようにいわれますが、このときの責任者は楊禮壽です。

王を治療した功績が認められ治療にあたった内医院の関係者は表彰されました。このとき楊禮壽は、許浚、安徳秀(アン・ドクス)と一緒に褒美として鹿革を受け取りました。

1595年(宣祖28年)。同志中枢社になりました。

 

医学書の編纂

楊禮壽は長い生涯のなかで2度医学書の編纂に関わっています。

 

医林撮要の編纂

楊礼寿は医学書の編纂にも関わっています。

「医林撮要」は最初に医官の正先撰が執筆。その後、楊礼寿は朴世舉、孫士銘とともに「医林撮要」の校正を行いました。宣祖時代に発行されました。

全13巻。1~6巻は内科、7~8巻は顔面疾患、血液症候群、黄疸など、9~10巻は外科疾患、11~13巻は婦人科・小児疾患に分かれています。多くの処方が載っている実用的な医学書といわれます。

東医宝鑑の編纂時にも参考資料として使われました。

 

東医宝鑑の編纂に関わるも戦争で中断

1596年(宣祖29年)。宣祖の命令で医学書の編纂にとりかかります。内医院にプロジェクトチームが作られ、で楊禮壽は許浚・楊礼寿・李命源・鄭碏・金応鐸・鄭礼男らとともに医学書の編纂にとりかかりました。

しかし日本との戦争が始まり中断しました。

後に許浚が編纂を再開させ完成させます。それが「東医宝鑑」です。

この時代に宣祖が医学書の編纂を命じたのは理由があります。当時の朝鮮では明の医学が輸入されていました。薬までも明からの輸入に頼っていました。

ところが、後金や日本との戦争もあり、薬の輸入が難しくなり薬が足りなくなります。そこで古くからある朝鮮の薬を復活させようということになりました。

そのとりくみの一つとして医学書の編纂も命じたのです。

「東医宝鑑」といえば許浚(ホ・ジュン)が完成させた医学書として有名ですが、最初のころは楊礼寿たち宮中の医官も関わっていました。

楊礼寿が書いた「医林撮要」も参考資料として使われました。

 

1600年(宣祖33年)。内医院で最高の地位にあった楊禮壽が死亡。

その後、許浚が内医院の最高位につきました。

 

テレビドラマ

許浚・宮廷医官への道 MBC 1999年 演:チョ・ギョンファン
許浚・伝説の心医 MBC 2013年 演:チェ・ジョンファン

 

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