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嫻妃(継皇后)輝発那拉(烏拉那拉)氏 :乾隆帝の怒りをかって地位を奪われた悲劇の皇后

清王妃側室 1.2 清の皇后妃嬪皇太后

 

嫻妃(かんひ)輝発那拉(ホイファナラ)氏は清の皇帝・乾隆帝の妃です。

烏拉那拉(ウラナラ)氏という説もあります。

文献では「那拉氏」とだけ書かれていることも多いので混乱のもとになったようです。

はじめは乾隆帝の側室。嫻妃(かんひ)とよばれました。皇后富察氏が死亡したあと皇后になりました。16年皇后の地位にいましたが突然皇后の座を奪われてしまいます。

正式には廃されてはいませんが、側室並みの扱いをうけ皇后としての称号もありません。「継皇后」といわれます。

皇后の地位を奪われた理由はよくわかっていません。

そのため悲劇の皇后と言われます。

史実の輝発那拉(ホイファナラ)はどんな人物だったのか紹介します。

 

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嫻妃 輝発那拉 氏の史実

いつの時代の人?

生年月日:1718年
没年月日:1766年

姓:輝発那拉(中国語:ホイファナラ、日本語:きはつなら)
別名:烏拉那拉(ウラナラ)、那拉(ナラ)
地位:継皇后、嫻妃(かんひ)
父:那爾布
母:郎佳氏
夫:乾隆帝(けんりゅうてい)

子供:
永璂(第12皇子)
娘(第5皇女)
永璟(第13皇子)

輝発那拉(ホイファナラ)氏は清王朝の第6代皇帝・乾隆帝(けんりゅうてい)の側室、後に皇后になりました。

日本では江戸時代になります。

嫻妃の姓は輝發那拉?烏拉那拉?

嫻妃の姓については諸説あって「輝發那拉」と「烏拉那拉」の2種類があります。

「烏拉那拉」説について

烏拉那拉(ウラナラ)という姓は 清朝滅亡後に中華民国が作った歴史書「清史稿」に登場します。

雍正帝の皇后(孝敬憲皇后)が「烏拉那拉」のため、勘違いしたのかもしれません。

「清史稿」は短い期間で作られたので間違いも多く歴史的な価値は低いと考えられています。でも中国では長く「烏拉那拉」だと信じられていました。

「如懿傳」などいくつかのドラマでは間違ったまま使用しています。

「輝發那拉」説について

清朝時代に作られた「欽定八旗滿洲通志」「八旗滿洲氏族通譜」に登場する名前。王朝時代に書かれた記録に名前があるので現代では「輝發那拉」が正しいとされます。

「那拉」説について

「烏拉」や「輝發」は地名。

だから
「烏拉那拉」を「烏拉」に住んでる「那拉」氏。
「輝発那拉」を「輝発」に住んでる「那拉」氏。

と考え、姓は「那拉」だけだとする説もあります。

輝發那拉 氏とは

輝發ホイファ」はキタイ(契丹)の言葉で「自由な移動」の意味です。

大契丹国(遼)は渤海を滅ぼしたあと反乱を防ぐため部族の移動を制限しました。現在の輝発川に住んでいた人々は契丹人と親しかったため移動の自由を認められました。そのため「自由な移動」を意味する「輝發ホイファ」と名付けられました。

16世紀になって哈達ハダ氏のよびかけでいくつかの部族が同盟を結びフルン国を作りました。フルン国は輝發ホイファ哈達ハダ烏拉ウラ葉赫イェハの部族が集まった国です。小国の王族は姓に「那拉ナラ」がついていました。「那拉ナラ」とはモンゴル語で「太陽」の意味です。

ヌルハチが女直族を統一しようとしたとき、フルン国の人々は抵抗しました。最終的にヌルハチのマンジュ国に服従します。しかしフルンの王族はマンジュでも名門とされたので、清朝建国後は皇后が多くでました。

 

輝発那拉氏の 生涯

父・那爾布(ナルブ)は満洲氏族の一つ輝発那拉氏の人。

姓の輝発那拉とはもとは輝発 地域に住む一族。那拉同盟にくわわり「輝発那拉」と名乗りました。ヌルハチに抵抗したため清朝建国後に地位が低下した一族でした。

雍正帝の時代

乾隆帝が親王時代に副福普(側室)になりました。このとき14歳でした。

1735年(雍正13年)。雍正帝が死去。乾隆帝が即位しました。

乾隆帝の時代

1737年(乾隆2年)。嫻妃になりました。

1745年(乾隆10年)。嫻貴妃になりました。

1748年(乾隆13年)。皇后富察氏が死亡。

乾隆帝は皇后富察氏のことが忘れられません。そこで新しい皇后は必要ないと考えていました。

でも、乾隆帝の母・崇慶皇太后は皇后の座が空いているのを心配していました。崇慶皇太后の権限で輝発那拉氏を次の皇后に決めました。

輝発那拉氏は皇貴妃になりました。

皇貴妃とは皇后内定者を意味する称号です。

皇后になる

皇后富察氏の喪があけた1750年(乾隆15年)に輝発那拉氏は皇后になりました。

皇后の役目を勤め、皇帝とともに儀式や行幸に付き従いました。

皇后になって3人の子供を出産します。

 

没落

1765年(乾隆30年)。南部(江南)への行幸に同行しました。旅の途中、乾隆帝は輝発那拉氏の48歳の誕生日を祝いました。旅の途中までは順調でした。

2月18日。乾隆帝は朝食に肉料理を提供しました。乾隆帝は側室達に肉を分け与えました。

ところがその日の夕食時に皇帝と一緒に食事したのは3人の側室(令貴妃魏氏慶妃陸氏容妃和卓氏)だけでした。輝発那拉氏は同席しなかったのです。その日から輝発那拉氏は人前に姿を見せませんでした。

2月28日以降。乾隆帝は輝発那拉氏を都に戻るように命じます。娘婿の福隆安を護衛としてつけました。輝発那拉氏は水路を通り北京に戻ってきました。

輝発那拉氏がなぜ乾隆帝の怒りをかったのは謎です。

ある説によると輝発那拉氏が髪を切ったとも言われます。

満州の習慣では皇后が髪を切るのは皇帝や皇太后が死亡して100日後とされました。乾隆帝と崇慶皇太后は生きています。輝発那拉氏が髪を切れば乾隆帝と崇慶皇太后に対する「侮辱」や「呪い」と受け止められるのです。

しかし輝発那拉氏は満州人です。長年紫禁城で暮らしています。そのような習慣はわかっているはずです。

宮殿に戻った乾隆帝は令貴妃魏氏に皇貴妃の称号を与えました。

輝発那拉氏に付き従う侍女は5人いましたが、2人に減らされました。そして1年後。

1766年6月(乾隆31年)。輝発那拉氏は重病になりました。しかし乾隆帝は行幸のスケジュールを変えずに予定通りに出発しました。輝発那拉氏への気遣いはなくなっていたようです。

1766年7月(乾隆31年)。輝発那拉氏は死亡しました。正確な日付はわかりません。記録がないからです。

 

死後も嫌われる輝発那拉氏

輝発那拉(ホイファナラ)氏が死亡したとき、乾隆帝は狩りをしていました。連絡を聞いてもすぐに紫禁城に帰ろうとはしませんでした。代わりに息子を帰らせました。

乾隆帝は輝発那拉氏の葬儀は皇室の一員として行いました。ところが葬儀の規模は皇后の葬儀にしては小さく、出席者の数は少なかったのです。

皇室の葬儀がある日には高官は仕事が中止になり葬儀に出席しなければいけません。ところはその日は普段どおりに業務が行われていました。

出席者の数は少なく、とても皇后の葬式とはいえない有様でした。しかも埋葬は貴族に仕える使用人と同じような墓でした。

みかねた家臣が皇后にふさわしい形で埋葬するように訴えました。ところが、乾隆帝は激怒してその家臣を処刑しました。

輝発那拉氏の記録は少ないです。

いったい何がそこまで乾隆帝を怒らせたのかはわかりません。

ドラマでももともと愛されていなかったとか、悲劇の皇后として扱われることもあります。

作品によって様々な描かれ方をされています。

TVドラマの嫻妃

 

瓔珞〜紫禁城に燃ゆる逆襲の王妃〜 2018、中国
 役名:嫻妃 輝發那拉‧淑慎、演:余詩曼(カーメイン・シェー)

 

如懿傳〜紫禁城に散る宿命の王妃~ 2018、中国
 役名:嫻妃 烏拉那拉‧如懿(青櫻)、演:周迅(ジョウ・シュン)
 如懿傳ではヒロインの如懿として登場。

 

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