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豫妃 博爾濟吉特(ボルジギト)氏・20代後半で遅い入宮のわけ

清王妃側室 1.2 清の皇后妃嬪皇太后

豫妃 博爾濟吉特(ボルジギト)氏は清朝の第6代皇帝・乾隆帝けんりゅうていの側室。

モンゴル系遊牧民族出身です。一族が清に服従することになったので入宮しました。

20代後半から30歳手前で入宮しました。

当時としても側室になったのは遅い方です。でも乾隆帝からの評判はよく寵愛を受けました。

「如懿傳」では 豫嬪 として登場します。

史実の豫妃 はどんな人物だったのか紹介します。

 

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豫妃 の史実

いつの時代の人?

生年月日:1730年2月12日
没年月日:1774年1月31日

姓:博爾濟吉特(ボルジギト)氏
称号:豫妃
地位: 貴人→豫嬪→豫妃
父:根敦(ゲンドゥン)
母:不明
夫:乾隆帝(けんりゅうてい)

子供 なし

清王朝の第6代皇帝・乾隆帝の時代です。

日本では江戸時代になります。

おいたち

1730年(雍正7年)。生まれました。モンゴル系遊牧民出身です。

豫妃の姓はボルジギン氏。チンギス・ハンの子孫です。清では博爾濟吉特(ボルジギト)氏とよばれます。元朝滅亡後、チンギス・ハンの子孫は散り散りになって各地で暮らしていました。

有力だったのはモンゴル・ホルチン部のボルジギト氏。ホンタイジの正室になったブムブタイもホルチン部出身です。

でも豫妃はブムブタイの一族とは関係ありません。ジュンガル帝国の国境近くに住んでいる一族でした。

豫妃の父はゲンドゥン(根敦)。部族集団をまとめる族長でした。

1755年から清とジュンガルの間に戦争がおきました。清がジュンガルに攻め込むとジュンガル側にいた部族が次々に清に寝返りました。ボルジギト氏が清に来たのものこのころです。

‎1756年(乾隆‎‎21年)。ボルジギト氏の住んでる地域は頻繁に遊牧民のウリャンハイ(烏梁海)に略奪されるようになりました。

6月5日。族長のゲンドゥン(根敦)は90以上の家族を率いて清に服従する代わりに助けを求めました。

乾隆帝はゲンドゥン(根敦)に佐領(部族単位のリーダー)の位を与え、部族の者と一緒に暮らすことを許可しました。

当時、遊牧民の間では天然痘が流行っていたので都に来なくていいことにしたともいわれます。

20代後半で宮廷入り

その後。ゲンドゥン(根敦)の娘ボルジギト氏は入宮したようです。ボルジギト氏の年齢は20代後半から30歳手前だったでしょう。当時は10代後半で後宮に入ることが多かったので、ボルジギト氏の入厩は年齢が高い方です。部族の安泰と引き換えに入宮した人質のようなものです。

似たような境遇の妃嬪にはウイグル出身の容妃がいます。乾隆帝時代の後宮に妃嬪が多いのは清に服従した民族から人質としてやってきた女性がいたから。というのも理由のひとつです。

‎1757‎年(乾隆‎‎22年)ごろまでにはボルジギト氏は入宮しました。選秀で選ばれていないので妃嬪ではなく宮女の身分でした。

6月。ボルジギト氏には「多貴人」の地位が与えられました。

ボルジギト氏の家族は内務府上三旗の包衣になったようです。上三旗の包衣は皇帝直属の奉公人です。

‎乾隆‎‎23年。多貴人に珊瑚や真珠で飾り付けた皿が与えられました。その後も、多貴人には何度も贈り物が与えられました。

‎乾隆‎‎24年。多貴人は懐妊しましたが流産しました。

その年の12月。多貴人は豫嬪になりました。

乾隆26年から36年の間。豫嬪は乾隆帝の鹿狩りや避暑山荘のある熱河への行幸や南巡に同行しました。

ボルジギト氏は宮中内での生活も評判もよく乾隆帝の寵愛を受けていました。

1765年(乾隆27年)。豫嬪のもとに新常在(下級の側室)が配属になりました。新常在もモンゴル出身です。若い宮女はベテランの妃嬪のもとで宮中のしきたりを学ぶことがありました。

1764年(乾隆28年) 豫嬪は 豫妃 になりました。「豫」は満洲語の発音で“erke”といい「勇壮」を意味していました。一見すると妃嬪らしくない名前のように思えるかもしれません。草原育ちで遊牧民出身の豫妃は他の妃嬪たちより逞しさがあったのかもしれません。

1773年(乾隆38年)。乾隆帝は熱河の避暑山荘に行幸しました。豫妃もついて行きましたが病気になりました。乾隆帝は豫妃を北京に戻しました。

乾隆帝から連絡を受けた第七皇女・固倫和静公主(母・令皇貴妃 魏氏)と十七皇子 永璘(母・令皇貴妃 魏氏)は、先に北京で待機して豫妃を出迎えました。

しかし豫妃の病状は良くなりません。

12月。豫妃は死去。享年45

 

豫妃の葬儀はたいへん

ところが内務府ではどのような葬儀をすればいいのか戸惑いました。

豫妃は乾隆帝時代になって「妃」の身分で死去した最初の妃嬪でした。皇后や貴妃で死去した人はいましたが、40年近くのあいだ「妃」が死亡したことはなかったのです。葬儀の形は身分によって決まっています。前例を経験している人がいないので検討がおこなわれ最後は乾隆帝の指示で葬儀が行われました。

葬儀では第七皇女・固倫和静公主(母・令皇貴妃 魏氏)とその夫・拉旺多爾濟(ラバンドルジ)が喪服を着て拝礼しました。すでに結婚している固倫公主が妃嬪のために喪服を着て葬儀に出席するのは他にはありません。

「固倫公主」は皇后の娘に与えられる称号です。でも側室の娘でもモンゴルの王族と結婚させるために「固倫公主」を名乗る事はありました。でも固倫和静公主は清の王室では側室の娘の扱いのままだったことになります。

逆に言うと乾隆帝にとって豫妃の葬儀はそれだけ大事だったのでしょう。

 

乾隆帝からの評判はよかった

当時の記録によると。豫妃は非常に頭のいい女性でした。宮廷で翻訳官が訳した文章を読むことができました。豫妃はモンゴル出身なので日常的にはモンゴル語を使います。宮廷の官僚は漢語(役人が主に使っていたのは北京官話という官僚たちの公用語)。北京官話は現在の中国で使われている北京語(普通語)の元になった言葉です。つまり豫妃は漢語が読めたのです。

ちなみに乾隆帝は満洲語・漢語・モンゴル語・チベット語ができました。乾隆帝は多彩な出身地の妃嬪達とのコミュニケーションも問題なかったのです。

またモンゴルの草原で育ったにも関わらず、宮中の生活に馴染みました。刺繍や裁縫も得意でした。豫妃の働きは宮中でも評判でした。乾隆帝は豫妃が亡くなったあと、宮殿内での献身的な働きぶりを懐かしみました。

一族の安泰と引き換えに当時としては高齢で入宮した豫妃でしたが、宮中ではうまく馴染んで生き延びたようです。

テレビドラマ

如懿傳〜紫禁城に散る宿命の王妃~ 2018、中国 
 役名:博爾濟吉特·厄音珠 演:趙珂

ドラマではモンゴル貴族の出身。30歳近くで入宮したので様々な手段を使って皇帝の気をひこうとします。ドラマ終盤の如懿の敵。如懿の子・十二皇子の暗殺を計画したりしますが、最後は炩妃に暗殺されます。

 

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