和嬪(ファビン) 尹(ユン)氏は李氏朝鮮の22代国王・正祖 イ・サンの側室。
正祖には子がいなかったので跡継ぎを期待されて側室になりました。
側室になってまもなく子供を身ごもったことがわかり出産のための準備が進められました。ところが1年以上たっても子供は産まれませんでした。
さらに子供を産んだ宜嬪·成氏を呪ったと言います。
史実の和嬪 尹氏はどんな人物だったのか紹介します。
和嬪(ファビン) 尹氏 の史実
和嬪(ファビン)のプロフィール
生年月日:1765年4月11日
没年月日:1824年1月14日
姓:尹氏
父:尹昌胤(ユン・チャンユン)
母:碧珍 李氏
夫:正祖
子供
彼女は朝鮮王朝(李氏朝鮮)の主に22代正祖の時代です。
日本では江戸時代の人になります。
和嬪(ファビン)のおいたち
ファビンは1765年(英祖41年)に生まれました。
父は判官 尹昌胤(ユン·チャンユン)。
母は碧珍 李氏。
イサンの側室になるまでの経緯
側室選びの背景
正祖 イ・サンは25歳で即位しました。
正祖の正室・孝懿王后 金氏には子供がなく。
最初の側室 元嬪 洪氏も側室になって1年足らずで急に亡くなってしまいました。
元嬪の死後は側室はいません。
このころ正祖 イ・サンは28歳になっています。でも正祖に子供はいません。当時としては子供ができるのが遅いです。
そういったわけもあって跡継ぎの誕生が望まれていました。
貞純大妃の思惑
1780年(正祖4年)2月21日。貞純大妃(チョンスンワンフ) 金氏は正祖イ・サンの側室を選ぶことにしました。
このころ後宮で力をもっていたのが英祖の継妃 貞純大妃(チョンスンワンフ) 金氏でした。
正祖時代は大人しくしていたと思われがちですが。意外と後宮の中では大きな力を持っています。正祖の生母 恵慶宮を押しのけて後宮の最高権力者になっていました。
このままでは跡継ぎ誕生の期待は薄いと思った貞純大妃は側室選びを始めることにしたのです。
貞純大妃は後宮内での発言力を維持するためにも、自分が主導して側室選びを行おうとしたのです。
揀択(カンテク)に勝ち残る
側室を決めるため揀択(カンテク:妃選び)が行われました。
最初は側室になる条件は16歳から18歳でした。ところが対象者が非常に少なかったので、15歳から19歳に広げてふたたび揀択が行われました。
揀択は次のスケジュールで行われました。
- 初揀択:2月26日~2月28日。
- 再揀択:2月30日。
- 三揀択:2月30日~3月9日。
2週間ほどで最終決定。急いでいたことが分かります。
最終的に尹氏が残りました。
側室選びを主導したのは貞純大妃です。
南原尹氏は過去に何人か重臣を出したことのある名門の一族ですが、王妃や議政クラスの大臣はいません。名門とはいえ、実際にはそれほど力は強くない一族です。
貞純大妃としては大して脅威にならない一族を選んだのでしょう。
1780年(正祖4年)3月10日。尹氏は16歳の若さで側室に選ばれました。
いきなり嬪(正一品)に格付け
このとき正祖は「嬪(正一品)」にするよう命令を出します。側室になったばかりなのにいきなり「嬪」は異例です。それだけ王室や朝廷の期待が大きかったのでしょう。
尹氏は「和嬪(ファビン)」の称号と、住居の「慶寿宮」を与えられました。
お世継ぎ誕生のプレッシャーの中で
そうした事情もあり。和嬪には最初から「お世継ぎ誕生」のプレッシャーがかかっていました。
ひどい言い方をすれば最初から跡継ぎを産むのが求められて「嬪」になっているのです。
和嬪の受けるプレッシャーは相当なものがあったに違いありません。
想像妊娠?
1780年(正祖4年)旧暦12月8日の黄胤錫の記録には。継のように書かれています。
尹嬪當於正月 就舘設産室 則二月分娩之期明矣 或言 內人中又有受胎者 亦已多月
和訳:和嬪·尹氏が妊娠した。明るく微笑んでいる。1月に産室庁が設置される予定。2月に赤ちゃんに会える予定だ。
黄胤錫「頤齋亂藁」
おなじ時期に内人(宮中の位の高い人に仕える侍女・後の宜嬪·成氏と思われます)が妊娠中だったことがわかります。
年があけて、1781年(正祖5年)旧暦1月17日。予定通り産室庁が設置されました。
王妃や高位の側室が出産するときに臨時で設置される部署。懐妊が分かると設置され、出産後5日で解散になるのが普通。
出産予定は2月でしたが、2月を過ぎても出産の記録はありません。
1781年(正祖5年)旧暦11月2日。和嬪·尹氏の産室庁は解散しました。和嬪·尹氏が出産したという記録はありません。流産したという記録もありません。
ライバル宜嬪·成氏が男児を出産
1782年(正祖6年)旧暦9月7日。宜嬪·成氏が男子(文孝世子)を出産。
このとき正祖は「初めて父と呼ばれるようになった。」と書かれているので。和嬪·尹氏は子供を産んでいないようです。
和嬪(ファビン)が側室になった時、宜嬪(ウイビン)はまだ内人(宮女)でした。ところが宜嬪は解任して側室になり、一気に宜嬪まで昇格します。
和嬪は悔しい思いをしたことでしょう。
ついに和嬪(ファビン)に子は誕生しなかった
正祖は生涯の間で2男2女の子がいました。でもその中には和嬪·尹氏の子はいません。
和嬪·尹氏は想像妊娠したと考えられています。
1787年(正祖11年)に、孝懿王后が想像妊娠した時も1年以上産室庁が設けられましたあと、解散しました。出産予定日が過ぎても何ヶ月も産室庁があるときは想像妊娠の可能性が高そうです。
正祖は、和嬪の親戚の 趙思偉 と 李文徳 を流刑にしました。
産室庁設置のルールを変えてしまう
王妃が出産間近になると産室庁が設置されます。出産をサポートするためのチームが編成されるのです。
側室の場合は規模は小さいですが似たような出産体制が編成されます。
和嬪は側室ですが、跡継ぎを期待されて名家から側室になったので特別に王妃と同じ待遇の出産のためのサポートチームが編成されました。
ところが和嬪の場合は産室庁が編成されて30ヶ月たっても子供が生まれなかったので正祖は非常に失望したようです。
その後、側室が懐妊した場合「出産が確実」と思える日になるまで産室庁は設置しませんでした。出産当日になってやっと出産体制が整えられることもありました。
王妃や側室には跡継ぎを産むという期待やプレッシャーが大きいせいか。李氏朝鮮では想像妊娠になる妃嬪が何人もいます。
王妃に嫉妬して、宜嬪·成氏を呪った?
朝鮮の公式記録ではありませんが、「頤斎乱稿」という記録には次のような内容が書かれています。
「頤斎乱稿」は正祖時代の文官・黃胤錫 (ファン・ユンソク)が書いた日記や集めた資料をまとめたものです。
「尹昌胤の娘が側室になった。昨年の洪嬪のときには 大明集の皇貴妃の例を真似て行った。今回は朝鮮の規則に従って「内命婦一品嬪」の礼法で任命が行われた。」
「和嬪尹氏の産室は30ヶ月たっても子供が産まれなかった。」
ここまでは公式記録と内容は同じ。
この後が問題です。
「和嬪尹氏は中宮(王妃)に過剰に嫉妬し、宜嬪·成氏を大声で叫んで呪いをかけた。こういうことがあったので人々は相談して宮殿に閉じ込めた。」
と書かれています。
どうやら王子を産んだ宜嬪·成氏を恨んでいたようです。
期待されている自分が産めないのに、もともと侍女だった成氏が男子を産んだのでよけいに悔しかったのでしょう。
その後も宮中で暮らしたようです。
慶壽宮 和嬪尹氏は自分に合うときの礼儀作法をまとめた本を書いています。
身分の高い家の出身らしく礼儀作法にはうるさかったようです。
1824年(純祖24年)。旧暦1月14日 和嬪尹氏はなくなりました。享年60。
テレビドラマのファビン
「イ・サン」のファビン
イ・サン 2016年、MBC
演:ユ・ヨンジ
大臣ユン・チャンユンの娘。
ソンヨンの素質に早くから気づいていました。でも自分よりも優秀なソンヨン(宜嬪)を快く思っていません。
ソンヨンが男子を出産したのと同じ日に女子を出産。でもはしかで亡くしてしまいます。
「イ・サン」では想像妊娠のエピソードはヒョイ王妃のみ。ファビンの子は生まれて間もなく病死したという設定です。
「赤い袖先」のファビン
2021年、MBC 演:イ・ソ
サンの側室。揀択(カンテク)で選ばれて側室入り。
サンが気にかけるドギム(宜嬪)に嫉妬。嫌がらせをしたり陥れようとしますが失敗。
その後はいつの間にか出てこなくなります。
「赤い袖先」では出産や懐妊の描写はありません。宜嬪に敵対する側室としてだけ登場します。
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