還郷女(フニャンニョ)とは俗説によると李氏朝鮮時代に使われだした言葉とされます。
清は朝鮮との戦争に勝って大勢の捕虜を連れ去りました。その後、釈放されて朝鮮に戻ってきた人たちがいます。
ところが朝鮮に戻ってきた女性たちは差別を受けました。差別される女性たちを還郷女(フニャンニョ)とよんだというのです。
現代の韓国でも「ファニャンニョン」という女性を侮辱する言葉として残っています。
還郷女とはいったいどういう人達なのか紹介します。
還郷女(フニャンニョ)誕生のいきさつ
戦争で捕虜
朝鮮半島の国々は古代から周辺国に攻められ、その度に捕虜をとられていました。
特に戦利品として捕虜を連れ帰ることが多かったのが遊牧民です。
漢人は土地が欲しいので不要な現地人は虐殺します。
でも遊牧民は人口が少ないし、農作業は得意ではありません。労働力として人を必要としているので無意味な虐殺はあまり行わず、できるだけ連れて帰ろうとします。ただし抵抗する者には容赦ありません。
そこで連れて行かれた人たちを連れ戻そうとお金を払って連れ戻そうという動きがありました。そうして身代金を払って戻ってきた人たちを購還(ソファン)といいます。
帰還した人たちが問題になることはあまりなかったのですが。李氏朝鮮時代に社会問題になったことがあります。それが仁祖の時代におきた清との戦争で捕虜になった人たちです。
清との戦いで大量の捕虜が発生
1616年。女真人のヌルハチが後金を建国。
明に独立戦争を挑みました。
1627年。様々な事情があり後金のホンタイジは朝鮮に攻めてきました。このときは和睦しました。
1636年。後金は大清と名前を変え、後金のハン(王)ホンタイジは皇帝に即位。でも野蛮人と見下していた満洲人(女真)に頭を下げるのが嫌な仁祖と重臣たちは清への臣従を拒否。
怒った清は朝鮮に攻めてきて仁祖は降伏。仁祖は真冬に皇帝ホンタイジの前で三跪九叩頭(3回跪き、9回頭を地面に打ち付ける)して清の皇帝に服従を誓わされました。
この戦いで数十万人の朝鮮人が捕虜になって清に連れて行かれました。その数は50万人とされますが。そのうち半分以上は女性だったといわれます。中国側では朝鮮人女性(特に北部)は美人だというので人気が高かったようです。
購還
その後、連行された人を連れ戻そうと交渉が行われ、釈放された人たちがいました。個別の家で交渉することもありますし、国が交渉して身代金を払ったこともあります。そうして帰ってきた人たちを購還(ソファン)といいます。身代金を払って買い戻されることが多かったからです。
男は戻ってくると歓迎されるのですが、女はそうではありませんでした。
帰ってからも酷かった
運良く国に帰ることができても彼女たちに平和な暮らしは戻ってきませんでした。
現代では彼女たちのことを「還郷女(フニャンニョ)」と呼びますが。これは大韓民国時代にできた言葉。朝鮮時代に還郷女の言葉が使われた記録はありません。当時は清から戻ってきた女性は購還(ソファン)と呼ばれていました。
後に購還は淫らな女を意味する「ファニャンニョン」と呼ばれるようになります。
言葉はともかく。彼女たちはせっかく帰ってきたのに暖かく迎え入れてくれるどころか、差別を受けたのです。
一族からは見捨てられ。世間からは批判を受け、罵倒されました。結婚していた場合は離婚させられ。未婚の場合は結婚ができませんでした。
朝廷にも左議政の崔明吉(チェ・ミョンギル)たちのように清から戻った女性への不当な差別をなくすように主張する人はいましたし、庶民の中には彼女たちを匿う人もいました。
仁祖も崔明吉の意見には同意しました。でもそういう意見は両班社会では一部です。庶民の中にも差別する人はいます。
多くの両班は崔明吉を「歪んだ考えの持ち主で誤りが激しい」と批判。
「貞節を失った婦人が再び両親に仕え、祖先の宗祀を行い子孫を産み家を継がせるのは道理に反する」と批判しました。
こういう意見をみると当時の儒教社会で生きる両班が狂った考えの持ち主なのがわかるでしょう。でもそれが当たり前の社会でした。
いちおう仁祖が崔明吉らの意見を認めて「清から戻ってきた婦女たちを見捨てるな」と命令を出しました。でも形だけです。すでに権威の落ちた仁祖の命令を聞く臣下はあまりいませんし。女性への差別は消えませんでした。士大夫(両班や儒学を学んだ富裕層・知識人)たちは国が連れ戻した妻や娘を離縁させ、一族とは無縁の者としました。
「清に連れ去られた」という理由を使わなくても、儒教社会では「貞節がない」「孝行が足りない」「男子を産まない」という理由だけで女性を離婚させたり、女性を侮辱することはできたからです。
結局、清から戻ってきた女性たちへの差別は消えませんでした。
ちなみに差別の廃止を訴えた崔明吉(チェ・ミョンギル)は韓国ドラマ「華政(ファジョン)」でイム・ホが演じ、貞明公主の味方になった重臣です。
なぜ差別が酷かったの?
清との戦争以前にも捕虜になって帰還した人はいます。でも仁祖の時代ほど問題になったことはありません。
このとき問題になったのは主に2つの理由があります。
・満洲人への差別意識
満洲人はかつて女真とよばれていました。朝鮮では女真を野人(オランケ)と呼んで侮辱していました。
朝鮮が国教にしている生理学は日本では朱子学といいます。儒教にはいくつか流派がありますが、朱子学はとくに差別意識が強いです。朝鮮は女真を単純に野蛮人と見下していただけでなく獣のような存在だと思い強い差別意識を持っていました。
その野人の国に負け、野人と思ってる人たちに服従させられたのが悔しかったのです。
国を守ることができなかったのは王や支配者層の責任。捕虜は被害者のはず。でも清は強くて抵抗できません。支配者層は自分たちの過ちを認めたくありません。怒りや不満は弱いところに向けられます。捕虜は無理やり連れて行かれたのに裏切り者扱いされ、清への怒りは清から戻ってきた人に向けられたのです。
・儒教の教え
儒教社会では異常なほど貞節が求められ、女性は親や夫に「仕える」ことが求められます。二人以上の男と関係を持てば貞節がないと批判されます。中国ドラマでよく出てくる「女の名節」も同じ意味です。
李氏朝鮮は儒学者が中心になって作った国。両班の女性は法律で再婚が禁止されています。両班はガチガチの儒教の信者ですし、朝鮮も後半になると庶民にも儒教が普及しました。
清に連行された人は現地で酷い扱いを受けたかもしれませんが。そうでなかったとしても清に連行されたといういうだけで「貞節を失った」と言われ、差別を受けたのです。
差別用語のファニャンニョン
現代の韓国には「ファニャンニョン」という言葉があり。「穢れた女、淫らな女」という意味で使われます。
俗説では「ファニャンニョン」の語源は清朝から帰国した「還郷女」だといいますが。実際には朝鮮の初期からあった言葉です。始まったのがいつなのか正確な時期はわかりません。すでに9代 成宗の時代には花娘(ファニャン)は淫らで道徳を乱す女性の意味で記録されています。
有力な説としては
宋、明朝時代にあった娼婦を意味する「花娘(ファニャン)」が朝鮮に伝わり。侮辱を意味する「ニョン」という言葉が語尾に付いて変化したと言われます。
清朝から帰国した還郷女(ファニャンニョ)がフニャンニョンの語源というのは大韓民国の建国後に知識人が勝手に言い出した俗説のようです。還郷女が語源というのはこじつけなのです。
朝鮮後半にはすでに語源が忘れられ、様々な説が出ていました。中には「花郎(ファラン)」が語源だという意見もありりました。花郎は新羅滅亡後、同性愛者集団と思われていたからです。もちろん根拠はありません。
でも語源が何かに関係なく、朝鮮時代から「ファニャンニョン」という女性を侮辱する言葉がありました。
現代の韓国でも「淫らな女」の意味で使われます。そのため現代を舞台にした韓国ドラマでも女性を非難するときに「ファニャンニョン」という言葉が出てくることがあります。字幕ではうまく処理されてあたりさわりのない言葉になっていますが。実際には差別的な意味なのです。
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