朝鮮王朝の歴史ドラマを見ていると「勲旧派(くんきゅうは、フングパ)」という言葉をよく耳にしますよね。
彼らは一体どんな人たちだったのでしょうか?なぜ絶大な権力を持ち、なぜ歴史の舞台から消えていったのでしょうか。
この記事では李氏朝鮮の初期から中期にかけて王朝を動かした特権的な政治勢力勲旧派の全てを分かりやすく解説します。
彼らが力を得た背景や士林派との壮絶な権力闘争。彼らの衰退の理由までこの記事を読めば勲旧派の全体像が分かり、歴史ドラマがさらに深く楽しめますよ。
勲旧派とはどんな人たち?
勲旧派は李氏朝鮮初期に力を持った特権層です
勲旧派(くんきゅうは、フングパ)は李氏朝鮮初期から中期にかけて絶大な権力を握っていた勢力でした。
彼らは大地主の両班が多く、特に1455年の世祖の擁立に功のあった勲臣とその子孫たちが中心でした。
勲旧派はひとつのまとまった派閥や思想集団はではなく、建国や王位継承に功績があった家門やその子孫たちによる既得権益層です。
彼らは後に台頭してきた士林派(しりんは、サリムパ)と激しく対立することになります。
「勲旧派」という言葉は、もともとは「勲旧功臣」「勲旧大臣」のように長年の功績のある人たちを意味する一般的な言葉でした。
成宗のころより台頭した士林派と区別するため、古くからある勢力を意味する歴史用語として使われるようになりました。
歴史に残る勲旧派の主要人物
勲旧派は特定の団体や個人ではなく既得権をもつ人たちです。そのため時代によって様々な人物がいました。ここでは勲旧派と呼ばれる人たちの中から朝鮮の歴史やドラマに登場する人たちを紹介します。
- 韓明澮(ハン・ミョンフェ)
世祖の即位に貢献。王位継承にも影響を与えました。 - 申叔舟(シン・スクチュ)
世宗時代の訓民正音の作成にも参加した学者ですが、世祖に協力。 - 徐居正(ソ・ゴジョン)
経国大典の作成にも関わった学者 - 朴元宗(パク・ウォンジョン)、柳順汀(ユ・スンジョン)
燕山君へのクーデターを成功させ中宗を王にしました。
勲旧派はなぜ力を持てた?
勲旧派が朝鮮王朝の初期にこれほどまでに大きな影響力を持てたのはなぜでしょうか。そこには彼らの「成り立ち」と「国家との関係」に深く関わる理由がありました。
王朝建国や王位簒奪への貢献
勲旧派の力の源は何よりもその「功績」にありました。
- 王朝建国への貢献: 朝鮮王朝を創始した太祖・李成桂(イ・ソンゲ)を支えた「開国功臣」です。この功績は彼らに絶対的な正統性と権威を与えました。
- 王権への貢献と正統性: 特に世祖の王位簒奪を成功させた「佐命功臣」です。彼らの存在は王権の安定に不可欠でしたから世祖は彼らを厚く遇したのですね。
莫大な経済力と広大な土地の掌握
政治的な地位だけでなく勲旧派は圧倒的な経済力も持っていました。
- 国家からの莫大な褒賞: 功績に対する褒賞として国王から広大な「功臣田」や私有奴婢が与えられました。彼らは巨大な資産を築いたのです。
- 経済的基盤: これらの土地から上がる収益で富を蓄えました。地方経済にも影響力を持ち政治的発言力を支えました。
- 商業・工業への関与: 貿易に関わったり公物(貢納品)の放納(事前納税請負)を通じて経済的利益を得たりもしていました。商売は卑しいと考える士林ほどには儒教に染まっていないので商売にも手を出す人はいました。
中央官僚機構の独占と人事への影響力
勲旧派は国の運営そのものの中枢を握っていました。
- 要職の独占: 議政府や六曹三司といった中枢機関の要職を独占していました。家柄や血縁が重視される傾向がありました。
- 人事権への強い影響力: 下級官僚の任命や昇進にも強い影響力を持っていました。強固なネットワークを築き上げていたのです。
王室との婚姻による密接な結びつき
勲旧派が強かったもう一つの理由は王権との間に築かれた特別な関係です。
- 王室との婚姻関係: 王室と婚姻関係を結び外戚としてさらに強い発言力を持つようになりました。
- 王権安定のための必要性: 王位が不安定な時には勲旧派の強大な力が王権を支えるために不可欠でした。王たちは彼らの力を借りて統治を行ったのです。
これらの要因が複雑に絡み合い勲旧派は朝鮮王朝の初期から中期にかけて政治経済社会のあらゆる面で圧倒的な力を持ち歴史の主役として君臨することになったのです。
歴代王と勲旧派
勲旧派と士林派との対立が激しかった時代を中心に関連する歴代王と当時の状況を紹介します。
第7代 世祖(セジョ) (在位: 1455年 – 1468年)
首陽大君は文宗の子・端宗から王位を奪い即位(世祖)、強権的な中央集権体制を築きました。この世祖を擁立した功臣たちが、後の勲旧派の土台となりました。世祖は側近を優遇し、儒教勢力を牽制するために仏教優遇政策も取りました。
この時代を代表する人物に韓明澮(ハン・ミョンフェ)などがいます。彼は世祖の側近として王位簒奪に貢献、勲旧派の重鎮として権勢を振るいました。
第9代 成宗 (在位: 1469年 – 1494年)
成宗(ソンジョン)の時代には勲旧派を抑えるために、朱子学を修めた官僚である士林派が積極的に登用され始めます。そのため勲旧派と士林派の対立が起こり始めます。
第10代 燕山君 (在位: 1494年 – 1506年)
燕山君(ヨンサングン)の時代には勲旧派と士林派との対立が激しくなり、何度か士禍が起こりました。
主な士禍:
戊午士禍(ぼごしか)、甲子士禍(こうししか)
第11代 中宗 (在位: 1506年 – 1544年)
中宗(チュンジョン)は燕山君の暴政に反発した朴元宗(パク・ウォンジョン)、柳順汀(ユ・スンジョン)らによるクーデター(中宗反正)によって王位につけられました。
中宗は即位当初は功臣たちを抑えるため士林派の趙光祖(チョ・グァンジョ)を採用。理想的な儒教政治を目指しましたが、趙光祖の性急な改革が勲旧派の反発を招きました。
主な士禍:
・己卯士禍(きぼうしか)
第13代 明宗(ミョンジョン) (在位: 1545年 – 1567年)
明宗(ミョンジョン)の外戚を中心にした大尹派が力を持っていた時代。勲旧派と士林派の対立よりも大尹派と小尹派の争いが激しく、その争いで勲旧派と士林派も被害を受けます。
文定大妃の弟・尹元衡の失脚後、士林派が徐々に力を付け。次の宣祖の時代には朝鮮王朝の政界を主導していくことになります。
主な士禍:
・乙巳士禍(いっししか)
勲旧派と士林派の激しい対立:血塗られた四大士禍
圧倒的な力を持っていた勲旧派ですが、彼らの前に立ちはだかったのが「士林派」です。この両者の激しい対立は「士禍(しか)」と呼ばれる粛清事件として歴史に刻まれました。
なぜ対立したのでしょう? 権力と理想の衝突
勲旧派と士林派は「水と油」のような存在でした。
特徴 | 勲旧派 | 士林派 |
---|---|---|
基盤 | 既得権益の維持実利重視中央政界の要職独占 | 地方で朱子学を学び儒教的理想を掲げる |
目指すもの | 自分たちの地位と富を守り現状を維持すること | 道徳に基づいた理想国家の実現と勲旧派の刷新 |
両者は持っている基盤も目指す政治の形も真逆でした。特に士林派が唱える「不正に得た特権の排除」は勲旧派の存在そのものを否定するものでした。
この根本的な対立は世祖の王位簒奪への見解の相違から生じました。
- 勲旧派:世祖の即位を正当化。
- 士林派:世祖の即位は大逆罪である。
この対立がやがて悲劇的な事件を引き起こします。それが朝鮮王朝中期に集中して発生した「四大士禍」です。
四大士禍:歴史を揺るがした粛清事件の概要
「士禍」とは士林派の人物が勲旧派や王の思惑によって政治的に弾圧・粛清された事件の総称です。特に有名な以下の四つの事件は朝鮮王朝の歴史を大きく揺るがしました。
- 戊午士禍(ぼごしか 1498年): 燕山君(ヨンサングン)の時代に起きた事件です。士林派の金宗直(キム・ジョンジク)が書いた「弔義帝文」が世祖の王位簒奪を批判していると解釈されました。多くの士林派が弾圧されたのです。史官が被害を受けたため「史禍」とも呼ばれます。
- 甲子士禍(こうししか 1504年): 燕山君の生母の復讐に端を発した事件です。勲旧派・士林派双方に被害が及んだ無差別的な粛清でした。
- 己卯士禍(きぼしか 1519年): 中宗(チュンジョン)に重用された士林派の趙光祖(チョ・グァンジョ)が急進的な改革を推し進めた事件です。勲旧派の反発を招き趙光祖が弾圧されました。
- 乙巳士禍(いっししか 1545年): 明宗(ミョンジョン)の時代に起きた事件です。外戚同士の権力争いに士林派が巻き込まれ犠牲者を出しました。
これらの士禍によって勲旧派は既得権益を守るために士林を弾圧しました。しかし士禍が繰り返される中で勲旧派自身の力も、少しずつ削がれていったのです。
勲旧派が力を失った理由
あれほど強大な力を持っていた勲旧派はなぜ歴史の表舞台から姿を消したのでしょうか?その衰退の理由は時代の流れと彼ら自身の限界が重なった結果でした。
士林派の粘り強い成長と社会の支持
勲旧派が士禍で士林派をいくら弾圧しても士林派の思想は滅びませんでした。
- 地方での根強い支持基盤: 士林派は地方の書院(私塾)や郷約(郷村自治の規約)を通じて儒教を広めました。着実に勢力を拡大していったのです。彼らの清廉な姿勢は地方住民から尊敬と支持を集めました。
- 道徳的な優位性: 勲旧派の腐敗が露呈するにつれて士林派が掲げる「道徳に基づいた政治」の理念が輝きを増しました。民衆や改革を求める人々の期待を集めたのです。
- 科挙を通じた中央進出: 厳しい科挙(官僚登用試験)を突破した優秀な士林派の人材が徐々に中央の要職を占めるようになりました。
勲旧派自身の内部分裂と腐敗
外部からの圧力だけでなく勲旧派自身も衰退の要因を抱えていました。
- 血縁・利害関係の希薄化: 功績が過去のものとなるにつれて子孫たちの間の結束力が失われました。勲旧派同士の権力争いが頻発したのです。
- 特権への安住と時代の変化への不適応: 功臣としての特権に安住し社会の変化や改革への対応が遅れました。旧態依然とした体制にしがみつこうとしたことが弱みとなったのです。
- 士禍による疲弊: 士禍で士林派を弾圧する一方で王の気分や宮廷内の権力争いに巻き込まれました。無益な粛清によって多くの人材を失い力を消耗したのです。
王の思惑と新たな人材への期待
王権側の思惑も勲旧派の衰退に影響を与えました。
- 改革志向の王の登場: 暴君・燕山君の後、中宗、成宗のような改革を目指す王が即位すると勲旧派の既得権益は邪魔なものと見なされるようになりました。
- 王権への脅威: あまりに強大な勲旧派の力は時には王権そのものへの脅威ともなりかねません。王たちは勲旧派の力を削ぎ士林派を意図的に活用しました。
これらの要因が複合的に作用し16世紀後半の宣祖(ソンジョ)の時代になると士林派は中央政界の主導権を完全に確立しました。これをもって勲旧派は事実上政治の舞台から姿を消すことになります。残存する一部の勲旧派は後に西人(ソイン)派に加わっていったのです。
勲旧派はどうなった?
勲旧派が政治の舞台から姿を消したからといって、その子孫たちが全滅したわけではありません。彼らは別の形で朝鮮王朝社会に残りました。
士林派への転身
勲旧派の家門の中には、士林派の主張を受け入れ派閥に入る者も現れました。
士林派はやがて東人、西人といった党派に分裂、士林同士で激しい党争を繰り広げるようになります。この党争の最中にかつての勲旧派の家系がどれかの党派に所属して政界に復帰することもありました。
とくに西人には旧勲旧勢力が参加したようです。しかし彼らが「勲旧」とよばれることはありませんでした。
地方で生き残る
勲旧派の多くは大地主です。広大な土地とそこから得られる富を持っていました。中央政界での影響力を失っても、地方では経済力と名声は維持され、地域社会の有力者として存続しました。
彼らの子孫は地方の両班として地域の自治や教育に影響を与え続けることができました。
婚姻を通じた再編
朝鮮王朝の両班社会では婚姻を通じて家門間の関係を築くことがありました。勲旧派の家門も士林派の有力家門や、あるいは新たな有力者との婚姻関係を結ぶことで、自分たちの地位を維持しようとする場合もあります。
没落と消滅
当然ですが士禍やその後の政変で完全に没落、中央政界から完全に排除された家門も存在します。また経済的な基盤を失い、両班の地位を維持できなくなる者もいました。
要するに「勲旧派」という勢力としては消滅しましたが、その構成員だった家門やその子孫が完全に消滅したわけではありません。
彼らは士林派になったり、地方の名士となり朝鮮王朝社会の一部として残ったのです。
まとめ
勲旧派は李氏朝鮮の土台を築き強大な権力と富を享受した特権勢力でした。彼らの時代は安定と発展をもたらしましたね。その一方で既得権益にしがみつく腐敗も生んだのです。
結果として清廉な儒教思想を掲げる士林派との激しい対立が起こりました。血塗られた四大士禍を経て勲旧派は衰退していったのです。
この歴史はいかに強大な勢力であっても時代の変化に適応できなければ滅びるという普遍的な歴史の教訓を私たちに伝えています。今回の記事を通じて勲旧派の歴史的意義と朝鮮王朝の奥深さを感じていただけたなら幸いです。
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