太宗 李芳遠(イ・バンウォン)は14~15世紀に実在した人物。李氏朝鮮の第3代国王です。
王子時代の称号は靖安君(チョンアングン)。
父・李成桂(イ・ソンゲ)を助け、李氏朝鮮王朝の建国に貢献。その後、重臣や兄弟と対立そて多くの者を処刑や追放。
李芳遠は多くの血を流して3代目国王・太宗となりました。
ドラマのイバンウォンは英雄的だったり暴君的な扱われ方をしているので、実在したのかと疑いたくなるような活躍?ぶりです。
でも史実の李芳遠(イ・バンウォン)もドラマに負けず劣らず様々なことをやらかした人物です。
残虐な暴君との評価もある一方で、約500年続いた朝鮮王朝の基礎を作った名君との評価もあります。
実在した太宗 李芳遠(イ・バンウォン)はどんな人物だったのか、どのような生涯をおくったのか紹介します。
太宗 李芳遠(イ・バンウォン)の家系図も紹介します。
太宗 イバンウォン(李芳遠)の史実
プロフィール
生没年
生年月日:1367年6月13日
没年月日:1422年5月30日
在位期間: 1400年11月29日~1418年9月9日
彼が生きたのは1367年~1422年。高麗末期から朝鮮王朝(李氏朝鮮)の初期の人物。
日本では室町時代になります。
名前
姓:李(イ:り)
名:芳遠(バンウォン:ほうえん)
廟号:太宗(テジョン:たいそう)
王子時代の称号:靖安君(チョンアングン)
家族
父:太祖 李成桂
母:神懿王后 韓氏
妻:元敬王后 閔氏
側室多数
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子供:
譲寧大君、孝寧大君、忠寧大君(世宗)
他、男子9人、女子17人
李芳遠(イバンウォン)の家系図
太宗 李芳遠(イ・バンウォン)の親兄弟、嫡子。全州李氏の始祖を含めた祖先の家系図は以下のようになります。
○数字は国王に即位した順番です。
実際には夭折した子供や娘・庶子もいますが。複雑になるので省略しました。
李芳遠(イバンウォン)の生涯
出生とおいたち
1367年6月13日(恭愍王16年)。李芳遠(イ・バンウォン)が生まれました。
父は高麗王朝の武官だった李成桂(イ・ソンゲ)。
母は韓氏。
地方の役人の娘。李成桂と結婚後も子供を育てながら咸州(現在の北朝鮮 咸鏡南道)で暮らしました。
芳遠は5男として生まれました。
文系男子だったバンウォン
李成桂の息子たちはほとんどが武人になりましたが、李芳遠は幼い頃から武芸よりは学問が好きでした。
ドラマや多くの粛清をした史実からバンウォンは力強い武人のイメージがあるかもしれません。でも、武芸よりも学問に優れていたといわれます。
科挙に合格、両親は大喜び
1383年(禹王9年)。高麗の進士試に合格。
1384年(禹王10年)。科挙の分科に合格。文官になります。
李成桂と韓氏は非常に喜びました。
父が反乱を起こす(威化島回軍)
1388年(禹王15年)。このころ。高麗の禹王は李成桂(イ・ソンゲ)に遼東征伐を命令。ソンゲは途中で命令を無視して撤退しました(威化島回軍)。
李芳遠(イ・バンウォン)は文官だったので李成桂の遠征には参加していません。
父が王命を無視して撤退したと聞くと家族とともに東北面に避難。父が戻ってくると合流しました。
使者として明に派遣された後。帰国後は父を助けて高麗勢力の排除に協力します。
1390年(恭譲王2年)。密直使代言に任命されました。
母・韓氏の死亡
1391年(恭譲王3年)。母親の韓氏が死亡。
李芳遠は開城郡上道里で墓守をして暮らしました。
儒学者は両親が死亡すると3年間墓守をして喪に服すのは親孝行とされていたからです。
鄭夢周(チョン・モンジュ)殺害
李成桂とともに改革に参加した鄭夢周(チョン・モンジュ)は李成桂と対立するようになっていました。新しい国を作りたい李成桂と、高麗王朝を残したまま改善したい鄭夢周は意見が合わなくなったのです。
1392年。李成桂が落馬して休養に入りました。
鄭夢周は李成桂のいない間に李成桂派を追放し、急激な改革を中断させようとします。
第二夫人の康氏(神徳王后)は芳遠(バンウォン)に墓守を中断させ開京に呼び戻しました。
李芳遠は父に鄭夢周を殺害するよう進言しました。しかし李成桂から「鄭夢周を説得して仲間にするように」と言われてしまいます。
芳遠(バンウォン)は鄭夢周を家に招いて話をしました。話し合いの結果、説得は無理と判断。
趙英茂(チョ・ヨンム)に命じてモンジュを殺害しました。
李氏朝鮮建国
靖安君(チョンアングン)の時代
1392年。イ・ソンゲは高麗王・恭譲王に無理やり譲位させ王になりました。
国名も高麗から朝鮮に変わりました。
父が王になったのでバンウォンは王子となり。
バンウォンには靖安君(チョンアングン)の称号が与えられました。
世子を巡る戦い
父ソンゲは八男の李芳碩を世子(後継者)にしました。鄭道伝(チョン・ドジョン)ら重臣たちも李芳碩が世子になることに賛成していました。
チョン・ドジョンは選ばれた有能な者が話し合って治める国を目指していました。独裁的な強すぎる王は望んでなかったのです。
バンウォンは母の違う弟が後継者に選ばれたことに怒ります。また、バンウォンは鄭道伝(チョン・ドジョン)と政治的に対立していました。
チョン・ドジョンは私兵を解体して国の軍隊に再編成しようとしていました。ソンゲは自分の兵が奪われることには反対でした。
第一次王子の乱
1398年。神徳王后の死後、バンウォンは他の兄弟とともに反乱を起こしました。チョン・ドジョンら重臣を殺害し、世子の李芳碩(イ・バンソク)や李芳蕃(イ・バンボン)を殺害しました。
事件後、父・ソンゲは王位を退きました。
反乱を起こした首謀者はバンウォンでした。でも周囲の反発を警戒して王にはならず、次兄の李芳果(イ・バンカ)を王にしました。イ・バンカには正妻との間に子供はいなかったので都合が良かったのです。
イ・バンウォンが起こした反乱でしたが、朝鮮では「鄭道伝の乱」と言います。後にバンウォンが王になったので反乱を起こしたことにすると印象がよくないからです。
次兄バンカが2代目国王・定宗となり、バンウォンは丞相となりました。しかし実権はバンウォンが握っていたので定宗は形だけの王でした。
バンカは有能な武将でしたが、政治は得意ではありません。自分が中心になって国を動かしたいという野心もありません。弟達にまつりあげられて王になってしまったのです。
実権を握ったバンウォンは王の権力を高めるため、私兵の廃止を進めます。私兵の廃止はチョン・ドジョンが考えていたことです。でもドジョンが目指していたのは重臣の合議制で治める国でした。でもバンウォンが目指していたのは国王の権力を高めることでした。やってることは似ていても目的が違うのです。
第二次王子の乱
王族の私兵廃止にバンウォンのすぐ上の兄・李芳幹(イ・バンガン)が反対しました。バンガンは第一次王子の乱で成果をあげたのに見返りが無いことを不満に思っていました。
朴苞はバンウォンがバンガンの殺害を計画していると密告。バンガンは開京に進軍。町の中で激しい戦いになりました。バンウォンはバンガンを鎮圧。バンガンを流刑にしました。密告した朴苞を処刑にしました。
朝鮮では「朴苞の乱」とも言います。
この戦いでバンウォンに抵抗できるものは誰もいなくなり。定宗は身の危険を感じてバンウォンに譲位しました。
朝鮮 太宗 の時代
太宗になった芳遠
1400年。バンウォンは即位。3代国王・太宗になります。
その後も親族、重臣関係なく抵抗する勢力や邪魔になりそうな者を処刑したり追放しました。朝鮮王朝建国に功績のあった者も排除されました。太宗は国王の権力を強めるため、邪魔になりそうな者は徹底的に排除しました。
1402年には北部で趙思義(チョサイ)の乱が起こりました。太宗が派遣した討伐軍は最初は敗れましたが、太宗が遠征して鎮圧しています。
こうして1415年ごろには太宗に抵抗できるものはいなくなりました。
朝鮮史上初の正式な国王
ところで太宗は朝鮮史上初めて明から冊封を受けた王です。つまり初めて明に認めてもらった国王です。大国から王の承認を受けた君主のいる国を冊封国といいます。
朝貢国と冊封国は似ているようですが違う部分もあります。国王が皇帝の承認をもらう国は冊封国(朝鮮など)。朝貢国でも使節を送るだけで国王の承認を必要としない国もあります(隋・唐時代の日本など)。こちらは冊封国とはいいません。
意外なようですが初代国王・太祖(イ・ソンゲ)は明の承認が得られないまま引退しました。
太祖が明から与えられた肩書は「權知高麗國事」。”高麗国を仮に治めている人”。高麗国王代理です。
朝鮮の王は明や清から王として認められないと正式な国王とはいえません。
現実には権力を持っていれば政治はできます。王に力がある間はそれでいいのですが。いつ反乱が起きるかわかりません。冊封国の王にとって宗主国に認められるか否かは正当性にかかわる大きな問題です。
ところが太宗までの王は明未公認の自称国王でした。国内で権力争いの激しかった朝鮮中期以降ならいつ反乱を起こされてもおかしくない危ない状態です。
逆にいうと大国のお墨付きがなくても王座を維持できた太祖は偉大な人だったのでしょう。(息子に反乱をおこされましたが)
朝鮮王朝の基礎を作る
太宗は国内の制度を改めて国王の命令で国中を動かせるようにしました。太宗の時代。朝鮮は中央集権化が進んでいきます。王朝を維持するためには国王の権力を高める必要があると考えていたからです。
全国の寺から領地を没収、国の領地にしました。このため1413年には数百石の穀物が備蓄できるようになりました。
儒教を国教にしました。都市には寺を作らせず、僧侶を賤民にして仏教の弾圧を行います。
私兵を廃止。兵力は全て国王のものになりました。バンウォンは自分自身が私兵のおかげで権力を握ることができたため。王以外の者が私兵を持つ危険性をよく知っていました。
太宗が国王の権力を高めた結果、朝鮮王朝が安定した国になったといえるかもしれません。
義母の墓を貶める
太宗は既に亡くなっていた神徳王后の墓を粗末なものに作り変えました。神徳王后は太祖(イ・ソンゲ)の二人目の妻。太宗の継母です。神徳王后は自分の子を王にしようとしていました。そのため太宗は神徳王后を快く思っていなかったのです。神徳王后は朝鮮最初の王妃として最高の格式で墓が作られていました。
でも父・太祖の死後。太宗は神徳王后墓の格式を下げてみすぼらしいものに作り変えてしまいます。祭壇を破壊し、神徳王后を祀る祭祀も廃止しました。庶民以下のみすぼらしい墓は放置されてしまいます。大人げないやり方ですが太宗の恨みは強かったのです。
イ・バンウォンの野望・対馬征服(応永の外寇)
1418年(太宗18年)。倭寇(日本の海賊)が朝鮮の海岸の村を襲撃しました。倭寇は明に遠征に向かう途中で朝鮮に立ち寄ったのです。庇仁と海州の沿岸が被害にあいました。
このころ国王は世宗に変わり、太宗は上王になりました。しかし軍事は太宗が握っていました。
太宗は倭寇は対馬から来たと考えました。そこで対馬に軍隊を送って倭寇退治をするか、明を襲って帰ってくる途中を攻撃するか検討した結果。本拠地の対馬を襲うことにしました。
太宗は対馬に1万7千の朝鮮軍を派遣しました。
しかし攻撃目標は倭寇の本拠地だけでありませんでした。朝鮮軍は対馬の奥深くまで攻め込み。対馬の大名・宗貞盛との戦いになりました。
現実には倭寇討伐を口実にした対馬侵略です。
戦いは7月まで続きました。しかし大軍を送ったにもかかわらず対馬を守る少ない兵に苦戦。膠着状態になりました。
台風シーズンが近づいていつまでも対馬にいたくない朝鮮側。そして、早く対馬から出ていってもらいたい宗貞盛の思惑が一致。9月には和睦しました。
ところが太宗(イ・バンウォン)はこの結果に納得いかなかったようです。2回めの対馬遠征を計画しました。でもなかなか兵が集まりません。そうしている間に太宗は死去します。
この第三次対馬征伐(一次と二次の対馬遠征は高麗時代。日本でいう元寇ですが、対馬に攻めてきたのは高麗軍です)は世宗の時代になって行われたので世宗の功績として語られることもあります。でも軍事については太宗に権限があったので実際には太宗が決定したことなのです。
この戦いは日本では「応永の外寇」といいます。
後継者問題
太宗は長男の譲寧大君を世子にしました。ところが譲寧大君が勉強をせずに遊んでばかりいました。
1418年。譲寧大君から世子の座を剥奪。三男の忠寧大君を世子にしました。その2ヶ月後、忠寧大君に譲位して4代国王世宗が誕生しました。
最期
しかし太宗は上王として実権を握り続けました。軍隊を動かす権限は死ぬまで渡しませんでした。軍事力を自分以外の者が持つことの恐ろしさをよく知っていたからなのでしょう。
1422年。死亡。死因は病。享年55。
次の王は世宗
太宗の次に王になったのは息子の世宗です。
犠牲の上に朝鮮王朝の基礎を作った
ドラマのイ・バンウォンは恐い王様、独裁者のイメージがあります。実際にもかつての仲間や兄弟すらも殺害したり追放して権力を手にしました。
バンウォンは朝鮮王朝を長続きさせるために王に権力を集めなければいけないと考えていました。国の制度も高麗時代よりも中央の権力が強い仕組みにしました。朝鮮王朝が500年も続いたのはバンウォンが基礎を作ったからだという意見もあります。
権力欲の強い野心家と王朝を作った功労者、2つの顔があるのがイ・バンウォンなのかもしれませんね。
テレビドラマのイ・バンウォン
世宗大王 KBS 1973年、演: ナム・ソンオ
黄喜政丞 KBS 1976年、演: ナム・ソンウ
開国 KBS 1983年、演: イム・ヒョクチュ
朝鮮王朝五百年 太宗大王 MBC 1983年、演: イ・ジョンギル
朝鮮王朝五百年 根の深い木 MBC 1983年、演: イ・ジョンギル
龍の涙 KBS 1996、演: ユ・ドングン
大王世宗 KBS 2008年、演: キム・ヨンチョル
根の深い木 SBS 2011年、演: ペク・ユンシク
大風水 SBS 2012年、演: チェ・テジュン
鄭道伝 KBS 2014年、演: アン・ジェモ
イニョプの道 JTBC 2014年、演: アン・ネサン
六龍が飛ぶ SBS 2015年、演: ユ・アイン
チャン・ヨンシル KBS 2016年、演: キム・ヨンチョル
私の国 KBS 2019年、演: チャン・ヒョク
太宗イ・バンウォン KBS 2021年 演:チュ・サンウク
イ・バンウォンは朝鮮でも有名な人物なので何度も映像化されています。でも意外と主人公になったことはあまりありません。歴史上は彼の業績は大きいのですが、ドラマの題材としてはふさわしくないということなのでしょうか。バンウォンを描くと身内を殺める場面が何度か来てしまうので主人公にしづらいという事情はあると思います。
朝鮮王朝の始まりを映像化したドラマではイ・ソンゲの息子。
世宗時代を描いたドラマでは世宗の父親として登場。
どうしても主人公をサポートしたり引き立て役にまわってしまって、バンウォンが中心的な存在になるドラマはあまりありませんでした。
「六龍が飛ぶ」では事実上の主人公として描かれています。ユ・アインが演じた若き日のイ・バンウォンが印象に残るという人も多いのではないでしょうか。
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