金自點(キム・ジャジョム)は実在する李氏朝鮮王朝の重臣。
韓国ドラマ「花の戦い宮廷残酷史」「華政」に悪役として登場します。
仁祖のクーデターに参加し、重臣として取り立てられました。
親族の貴人趙氏とともに昭顕世子一家に罪をなすりつけ殺害しました。
虎のようだと恐れられながらも仁祖のもとでは権力を振るったギム・ジャジョム。史実のキム・ジャジョムはどんな人物だったのか紹介します。
金自點(キム・ジャジョム)の史実
どんな人?
本貫:旧安東金氏
生年月日:1588年
没年月日:1651年12月17日
彼が生きたのは1588年~1551年。朝鮮王朝(李氏朝鮮)の主に15代光海君~17代孝宗の時代です。
日本では江戸時代の人になります。
家族
母:ユ氏
子供:
キム・イク
キム・シク
キム・ジャジョムの生涯
1588年。全羅道 楽安で生まれます。
幼いころより記憶力がよく暗記が得意。士林派の儒学者成渾(ソンホン)の門下生となりました。
科挙ではなく蔭補(推薦)で朝廷の役人となり、兵曹佐郎に任命されました。
仁穆大妃の廃妃に反対
光海君の時代、仁穆大妃(インモクテビ)の廃妃に反対して光海君の支持勢力・大北派(テブクパ)に立ち向かいます。
しかし1618年に大北派との争いに負けて追放されました。
仁祖反正
反乱計画
金自點(キム・ジャジョム)は崔鳴吉(チェ・ミョンギル)、沈器遠と共に反乱を計画し、自分とは姻戚関係にある李貴(イ・グィ)などを引き込み、李貴を中心にして反乱を話し合っていまいた。
1622年(光海君14年)。金瑬(キム・リュ)、申景禛(シン・ギョンジン)なども仲間にしました。
その他にも同じ西人の党員である尹邦などを参加させ、仁穆大妃の廃妃と幽閉を不当に思っていた李曙、沈器遠、李基 などを説得。引き込むことに成功します。
1622年。李貴・金柳・崔鳴吉、李괄などと共に光海君を排除し、宣祖の庶孫である綾陽君(ヌンヤングン)を担ぐことで意見がまとまります。
1623年(光海君15年)には工曹正郎になった。
明と親しく後金と対抗しようとする西人派は明と後金に対して中立を保とうとする光海君に対して不満を持っていました。仁穆王后の廃妃とその息子・永昌大君の殺害したことも口実となりました。
クーデター決行
1623年4月11日(光海君15年)。綾陽君を中心にした西人派の勢力はクーデターを起こしました。
- クーデターの始まり: 西人派は、2000人の兵士を率いて王宮に攻め込みました。事前に味方につけた訓練隊長が宮殿の門を開けたため、王宮を簡単に占領することができました。
- 光海君の失脚: 光海君は王位を追われます。
- 大規模な粛清: クーデターを支持しなかった李爾瞻など40人以上が処刑され200人以上が処罰されるという、朝鮮王朝史上でも類を見ない大規模な粛清が行われました。
- 仁祖の即位: 綾陽君は仁祖として即位しました。
キム・ジャジョムはこのクーデターで重要な役割を果たし、護衛隊長となった申敬鎮の配下の従事官に任命されました。その後さらに都元帥に昇進しました。
李适(イ・グァル)の反乱
1624年(仁祖2)。反乱に参加して手柄をたてたものの待遇に不満をもっていた李适(イ・グァル)が平安道で反乱を起こし漢城(ソウル)を占領しました。
キム・ジャジョムは仁祖と共に漢城から逃げました。このときジャジョムは万が一にそなえて監獄にいた40人の囚人を処刑しました。
その後、李适の反乱が鎮圧されると、キム・ジャジョムは仁祖と一緒に漢城に戻り、朝廷の重要な役職である承旨に任命されました。
世子嬪で仁祖の怒りをかう
1625年。世子嬪に尹毅立(ユン・ウイリプ)が選ばれるとジャジョムは反対します。ユン・ウイリプがイ・グァルの親戚だという理由でした。しかし世子嬪に選びに口を出したことで仁祖の怒りをかって一時的に降格されましたが、後に右議政になりました。
丁卯の役:後金との戦争
なぜ戦争が始まったのか?
キム・ジャジョムたち西人派は国際情勢にあまり詳しくなく、当時勢力を伸ばしていた後金(後の清)を敵視、明王朝との関係を重視していました。
なぜ西人派は後金を敵視したのか?
- 明への忠誠心: 西人派は伝統的に明王朝に忠誠を誓っていました。
- 後金の脅威: 後金が勢力を拡大し朝鮮に圧力をかけてきたため脅威を感じていました。
明との関係が悪化する結果に
西人派は明の軍隊を朝鮮に駐留させました。しかしこの行動は後金を怒らせる結果となりました。
後金の侵攻
後金は朝鮮と明に挟み撃ちにされることを恐れました。また、李适の乱で生き残った人々が後金に助けを求めてきたことも、朝鮮への攻撃の理由の一つとなりました。
1627年1月。後金は3万の大軍で朝鮮に侵攻。仁祖は漢城から江華島に逃れることになりました。キム・ジャジョムはこの時、仁祖の脱出を助けました。
和平と兄弟関係
その後、後金と朝鮮は和平条約を結ぶことになりました。
1633年。朝鮮軍都元帥(都元帥・軍の最高司令官)となり、他にも幾つもの役職を兼務していました。
1633年7月。激務が続いたため、一部の役職を解任するように訴えましたが受け入れられませんでした。
丙子の役:清との戦い
1636年。後金は国号を清と改め、朝鮮に臣従を要求してきました。
朝鮮は清への臣従を拒否。清の侵攻が予想されたので備えなければなりませんでした。キム・ジャジョムは北方の防備を固めるために平安道に派遣されました。
しかし、清のホンタイジは10万の大軍を率いて朝鮮に侵攻してきました。朝鮮側は兵力の差から長期戦を計画し、清軍の侵攻を遅らせる作戦をとりました。
兎山の戦いでの敗北と失脚
キム・ジャジョムは兎山の戦いで清軍と激突しましたが、大敗。
この敗戦の責任を問われ、キム・ジャジョムは官職を解任されてしまいました。
丙子の役での敗戦後、金自点は朝廷の重臣や儒学者から激しい非難を受けました。敗戦の責任を問われ、島流しという厳しい処分を受けてしまいます。
1639年、仁祖によって赦免され島流しから解放されましたが、政治には復帰できませんでした。
故郷に戻る
故郷に戻ったキム・ジャジョムは地元の治水工事を行い人工湖を造るなど、地域の発展に貢献しました。この人工湖は後世まで利用され干ばつ時の被害を軽減する上で大きな役割を果たしました。
金自点の政治復帰
1640年。キム・ジャジョムは政治の舞台に復帰しました。周りの反対の声もありましたが、仁祖の強い意志により再び政界の中心人物となります。
その後、孫のキム・セリョンを貴人趙氏の娘・ヒョンミョン翁主と結婚させ宮中での発言力を高めていきます。
政治における対立と変遷
キム・ジャジョムはキム・リュと手を組み政治を行いましたが、次第に他の勢力との対立が深まっていきました。
特に元斗杓(ウォン・ヅピョ)、崔鳴吉(チェ・ミョンギル)、李時白(イ・シベク)といった人物との間で激しい政治闘争を繰り広げます。
また清の通訳官である鄭命壽(チョン・ミョンス)と結託し、政治的な力を強化しようとしました。
昭顕世子の帰国
1645年、昭顕世子が清から帰国しました。この出来事は、朝鮮の政治に新たな動きをもたらすことになります。
昭顕世子への陰謀と殺害
昭顕世子は仁祖の息子で将来の王位継承者ですが、仁祖は昭顕世子を快く思っておらず、彼を排除しようと画策していました。
この陰謀には、キム・ジャジョムも深く関わっていたと考えられています。
キム・ジャジョムは貴人趙氏と共に、昭顕世子とその妻である嬪宮姜氏を陥れようとしました。
さらに仁祖が嬪宮姜氏を快く思ってないことを知り。仁祖の食前に毒を入れ、その罪を嬪宮姜氏の侍女にかぶせました。
それを口実に嬪宮姜氏を処刑、世子の息子3人を済州島に流します。嬪宮姜氏の兄弟も処刑しました。
キム・リュとの対立と金自点の栄転
この残虐な行為に反対したのはキム・リュでした。しかし仁祖の怒りを買いキム・リュは領議政の座を追われました。
その結果、キム・ジャジョムは領議政の座に就くことになりました。
林慶業の暗殺
1646年。清で捕虜になっていた林慶業(イム・ギョンオプ)が帰国しました。
キム・ジャジョムは、イム・ギョンオプを拷問にかけて死亡させます。ジャジョムはかつて清への援軍として派遣されたイム・ギョンオプが明に投降するのを助けました。それを口外されるのを恐れたためと言われます。
仁祖の死と孝宗の即位
1646年。仁祖が亡くなり鳳林大君が孝宗として即位しました。
孝宗時代
孝宗の即位と金自点への非難
孝宗が王位につくと、キム・ジャジョムが昭顕世子一家を殺害したという疑惑が再燃。司憲府や司諫院から激しい非難の声が上がりました。孝宗自身もキム・ジャジョムが嬪宮姜氏の罪をでっち上げたことを確信しており、彼を遠ざけます。
北伐問題と金自点の孤立
さらに孝宗が清への報復として北伐を計画した際、キム・ジャジョムはこれに反対しました。このことが彼をさらに孤立させる結果となります。
流刑と内通
1650年。キム・ジャジョムは全ての官職を剥奪され、江原道洪川に流刑となりました。その後、清に内通して朝鮮の北伐計画を漏らしたことが発覚。全羅南道光陽に再び流刑となりました。
家族の悲劇と最期
キム・ジャジョムの息子であるキム・シクが謀反を企てたことが発覚。キム・ジャジョム親子は処刑されました。
また、キム・ジャジョムと協力関係にあった貴人趙氏も、孝宗と荘烈王后を呪詛した罪により処刑され、孫娘のヒョンミョン翁主も島流しとなりました。
まとめ
キム・ジャジョムは、頭が良く野心的な人物とでした。その一方で短気でせっかち、そして完璧主義という一面も持ち合わせており、「虎のよう」と評されるほど激しい気性を持っていたと言われています。
仁祖の信頼と権力の乱用
キム・ジャジョムの才能を高く評価していた仁祖は、重要な役職を任せていました。しかしキム・ジャジョムはその権力を利用して私的な利益を追求したり、反対勢力を排除したりするなど権力の乱用が目立つこともありました。
現実主義者としての側面
キム・ジャジョムは現実主義的な一面も持ち合わせていました。強大な清王朝に対しては抵抗は不可能で従わざるを得ないと考えていました。そのため清に抵抗を主張する勢力からは疎まれ、裏切り者呼ばわりされることもありました。
仁祖の死と没落
仁祖の死後、キム・ジャジョムはその庇護を失い政治的な立場が危うくなりました。それまで抑圧されていた勢力から激しい攻撃を受け、最終的には政界から追放され、悲惨な最期を迎えることになります。
金自点という人物の複雑さ
キム・ジャジョムは才能ある人物でありながら、その短気な性格や権力への執着が彼を悲劇へと導いたと言えます。
テレビドラマ
大明 KBS、1981年〜1981年、俳優:ギムスンチョル
南漢山城 MBC、1986年〜1987年、俳優:バクジョングァン
ハローイルジメ MBC、1995年、俳優:ベイルジプ
帰ってきたイルジメ MBC、2009年、俳優:パク・グニョン
馬医 MBC、2012年、演:グォンテウォン
宮廷残酷史-花たちの戦い JTBC、2013年、演:チョン・ソンモ
三銃士 tvN、2014年、演:パク・ヨンギュ
華政 MBC、2015年、演:チョ・ミンギ
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