陰麗華(いん・れいか)光烈皇后 は後漢の皇帝・光武帝の皇后。
光武帝・劉秀が皇帝になる前からの妻でした。ところが戦乱の中で離れ離れになりました。
その後、劉秀と再会したときには劉秀には別の妻・郭氏と子がいました。
劉秀は皇帝になりましたが、皇后になったのは郭氏でした。
やがて陰麗華は皇后になります。皇后になってからも質素な生活を続け、親族を政治に参加させないように気をくばったりしました。
唐・太宗の長孫皇后、後漢・明帝の馬皇后とともに中国史上でも特に優れた皇后とされます。
史実の光烈皇后はどんな人物だったのか紹介します。
光烈皇后の史実
いつの時代の人?
生年月日:元始5年(西暦5年)
没年月日:永平7年1月20日(西暦64年2月26日)
姓 :陰(いん)
名称:麗華(れいか)
国:後漢
地位:貴人→皇后→皇太后
称号:光烈皇后(こうれつこうごう)
父: 陰陸(宣恩哀侯)
母: 鄧氏
夫:光武帝(劉秀)
子供:
明帝 劉荘
東平憲王 劉蒼
広陵思王 劉荊
臨淮懐公 劉衡
琅邪孝王 劉京
彼女は後漢の初代皇帝・光武帝の正室です。
日本では弥生時代になります。
おいたち
陰家は南陽郡新野県でも名家として栄え、広大な領地を持つ豪族でした。その豊かさは「他のどの国の諸侯よりも多くの馬と人を持っている」と言われるほどでした。
陰家は前漢・朝廷の有力一族・鄧氏とは代々付き合いをしていました。陰麗華の妹は鄧讓の妻でした。陰麗華の母も鄧氏出身です。
前漢時代の元始5年(西暦5年)。陰麗華が生まれました。
陰麗華は地元でも評判の美女でした。しかも地域の大領主の娘です。挙兵前の劉秀(光武帝)も「結婚するなら陰麗華だ」とあこがれていました。
西暦8年。漢滅亡。新が建国。
新朝末期より各地で反乱が起こり戦乱の時代になりました。
西暦22年。劉縯・劉秀兄弟が挙兵しました。
更始元年(23年)。劉秀の兄・劉縯が更始帝に殺害されました。
結婚直後の別居生活
同じ年の6月。陰麗華と劉秀は結婚しました。
陰麗華は19歳。劉秀は29歳でした。
9月。劉秀に更始帝から北方の賊を討つように命令が出ました。河北を鎮圧できる者が他にいなかったのです。
劉秀は陰麗華を新野の実家に送り返しました。
結婚して3ヶ月で別居生活になります。
更始2年(24年)。劉秀は邯鄲を攻めるため、兵を集めていました。
劉秀は前漢の王族の子孫ですが家は裕福ではなかったので大きな軍隊は持っていません。地域の有力者に味方になってもらうしかなかったのです。
劉秀は河北で30万の兵をもつ真定王・劉楊を味方にしたいと思いました。
そこで劉楊の姪・郭聖通を正妻として娶りました。政略結婚で劉楊を味方にしたのです。
別居生活中の陰麗華は事実上の側室になりました。
陰麗華は劉秀と別れたあと、実家に戻り兄・陰識と一緒に暮らしていました。
夫の劉秀が皇帝(光武帝)になる・後漢の建国
更始3年(25年)。劉秀は皇帝になりました。劉秀は「光武帝」と呼ばれます。
光武帝は国号を「漢」にしました。
歴史上は劉邦が建国した漢(前漢)と区別するため「後漢」といいます。
光武帝は元号を「建武」にしました。郭聖通は二人共「貴人」になりました。
劉秀は使者を送って新野にいる陰麗華を迎えに行かせました。
2年ぶりに会った劉秀には自分以外の妻がいてすでに子供も生まれていました。
このとき陰麗華がどう思ったかはわかりません。
陰麗華は「貴人」になりました。
兄・陰識も一緒に呼ばれ、陰郷侯の称号が与えられました。
光武帝は陰麗華の実家の者には郭聖通の実家の者より高い地位を与えました。
建武2年(26年)。郭聖通の伯父・劉楊が反乱を計画。光武帝は軍を派遣して劉楊を討ちました。
皇后を辞退
建武2年(26年)。光武帝は皇后を決めるのを先延ばしにしていましたが。ようやく皇后を決めることになりました。
劉秀は陰麗華を皇后にしようとしました。
でも陰麗華は皇后になるのを拒否しました。
陰麗華には子がなく、郭聖通が先に男子を産んでいることが理由でした。
陰麗華が皇后を辞退。
郭聖通が皇后に、郭聖通の子・劉疆が皇太子になりました。
とこれだけ聞けば美談です。
そうしないといけない事情もあります。
皇后辞退の裏事情
郭聖通の後ろ盾だった劉楊は謀反の罪で光武帝に討たれました。陰麗華が有利になるはずでしたが。
郭家が謀反に加担していた証拠はありません。
劉秀の息子を産んでいるのが郭聖通なのは事実でした。跡継ぎがいれば臣下も安心します。
光武帝・劉秀と一緒に戦って彼を皇帝にしたのは劉楊とその仲間たちです。劉楊は処刑されましたが、いまだに光武帝に反抗的な諸侯もいました。
陰麗華は光武帝・劉秀と同郷で光武帝が好きな女性ですが。
家柄、跡継ぎ、朝廷内での貢献度からいえば郭聖通や劉楊たちの方が圧倒的に上でした。
陰麗華と陰家の者は光武帝の即位に何の貢献もしていません。
いくら光武帝が陰麗華を皇后にしたいと言ってもまわりの者が納得しません。
ここで陰麗華が皇后になれば別の反乱が起こるかもしれません。
聡明な陰麗華はそのへんの事情がわかっていたのでしょう。
光武帝も陰麗華を皇后にするのは諦めるしかありませんでした。
陰麗華の寵愛が深まる
建武4年(28年)。陰麗華は劉陽(後の明帝・劉荘)を出産しました。
光武帝は陰麗華の出産を大変喜びました。
その後も、4人の息子を出産しました。
後漢が建国して間もないころは王室も貧しく。質素な生活をしていました。国内のあちらこちらに賊が出没、強奪や強盗が多発していました。王族ですら誘拐されて身代金を要求される事件も起きています。そのくらい朝廷の力は弱かったのです。
裕福な陰家の者も盗賊の犠牲になりました。陰麗華の母と兄弟は盗賊に襲われて死亡してしまいます。
光武帝は陰麗華を慰めました。
光武帝はますます陰麗華を寵愛するようになります。
建武9年(33年)。郭皇后が即位して7年後。光武帝は「皇后には『母の美』を持つ陰麗華が最適だった」「郭が皇后になったのは、高貴な陰麗華が『辞退』したからだ」と発言しました。これは郭皇后にとってはプライドを傷つけられる発言です。
建武12年(36年)。光武帝は公孫述を滅ぼし全国統一しました。
建武14年(38年)。このころ、郭皇后は光武帝の寵愛が薄れたと文句を言うようになっていました。
建武15年(39年)。光武帝は陰氏の家族と光武帝の母方の親族・樊氏の家族に爵位を与えました。郭皇后の親族には与えませんでした。
陰一族の地位が上がるにつれて郭皇后は不機嫌になり、郭一族も光武帝に不信感をもつようになります。
建武17年(41年)。全国統一から時がすぎて世の中が安定してきたころ。
光武帝はついに郭皇后を廃しました。光武帝は郭氏に「中山王太后」の称号を与え、郭家の者に爵位を与え褒美も与えて反発を抑えようとしました。
皇后になる
陰麗華は皇后になりました。
皇太子・劉疆は母が廃后になったのにその息子の自分が皇太子のままなのはおかしいと思っていましたが。光武帝は劉疆は可愛かったので皇太子のままにしました。
陰麗華の息子・劉陽は王族として政治に参加。着実に成果を出して評判をあげていきました。
一方で、陰麗華の生活は皇后になってからも質素でした。
実家の陰一族には政治に関わらせないようにしました。歴史上、外戚が力を持って横暴になることがあったので陰一族にはそうなってほしくないと思ったようです。
建武19年(43年)。劉疆は太子の地位にいることが辛くなりました。皇太子を退位したいと光武帝に進言。光武帝はそれを許しました。
陰麗華の息子・劉陽を皇太子にして劉荘と名を変えさせました。
建武中元2年(57年)。光武帝が死去。息子の劉荘が即位しました。
陰麗華は皇太后になりました。
永平7年(64年)2月26日。陰太后が死去。享年60歲
「光烈皇后」の諡号(おくりな)が贈られました。
テレビドラマ
秀麗伝〜美しき賢后と帝の紡ぐ愛〜 2016年、中国 演:ルビー・リン(林心如)
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