正祖 李祘(イ・サン)は李氏朝鮮王朝の22代国王。
正祖イ・サンにはもちろん王妃と側室がいました。ではイサンの側室は何人いたのでしょうか?
実はイサンには側室は4人しかいません。王には側室がたくさんいるイメージですよね。でもイサンは歴代の王の中でも特に少ないのです。
ドラマチックな生涯を送った正祖イ・サンは様々なドラマや映画に登場。その中には王妃や個性的な側室たちが登場します。
この記事では正祖 イサンの正室と全ての側室の生涯・彼女たちの系図を紹介します。
正祖 イサンとは
李祘(イ・サン)は李氏朝鮮王朝の第22代国王
朝鮮 正祖 李祘の彫像画
21代国王 英祖の孫。父は悲劇的な最期をとげた思悼世子(サドセジャ)。
即位後は父の復讐をする一方で、様々な改革を行いました。
ところが彼の死後に改革は中断。正祖の後に即位したのは幼い王や無能な王ばかりで朝鮮は暗黒の時代になります。
熱意を持って自分で政治を行った最後の国王といえるかもしれません。
次に、正祖 イサンの側室たちを紹介しましょう。
正祖 イサンの側室たちと系図
イサンの側室は4人だけ
正祖イ・サンは側室の少ない国王です。イ・サンが生涯で側室にしたのは4人。
その4人とは以下の人たち。
側室になった順番に並べるとこうなります。
- 元嬪 洪氏(ウォンビン ホンシ)
- 和嬪 尹氏(ファビン ユンシ)
- 宜嬪 成氏(ウィビン ソンシ)
- 綏嬪 朴氏(スビン パクシ)
イサン側室の系図
イサンの側室四人の系図は次のようになります。
元嬪 洪氏は正祖の側近・洪国栄の娘。洪兄妹の祖先は宣祖の娘・貞明公主(チョンミョンコンジュ)と洪桂元(ホンジュオン)の三男・洪萬衝(ホン・マンヒョン)。
正祖の母方の祖先が貞明公主の次男・洪萬容(ホン・マンヨン)なので、正祖とは遠い親戚。
純祖を産んだ綏嬪 朴氏の母方の祖先は淑敬公主。綏嬪 朴氏の父方は英祖の娘・和平翁主の婿・朴明源の親戚。綏嬪 朴氏もなかなかの良血です。
宜嬪の父は正祖の母方の家で執事をしていました。
こうしてみると正祖の側室たちは良血だったりどこかで正祖の家族とつながりのある人が多いです。
イサンが選んだのは宜嬪だけ
この中で宜嬪 成氏(ウィビン)だけが正祖が直接選んだ側室。他は政略的なものだったり、跡継ぎを残すため王室の事情で選ばれた人たちです。
それでは4人の側室たちを詳しく紹介します。
このリストと同じ、側室になった順番に見ていきましょう。
元嬪 洪氏(ウォンビン ホンシ)
政争の材料になって若くして死亡
没年 1679年(正祖3年)
享年 14歳
洪国栄(ホングギョン)の妹。
正祖の生母・恵慶宮洪氏と同じ 豊山洪氏出身。遠い親戚。 貞明公主の子孫。豊山洪氏とはいえ主流からは外れた傍流の家系です。
側室になったいきさつ
兄の洪国栄(ホングギョン)は正祖から大変信頼されていました。正祖が即位した翌年には洪国栄は都承旨兼宿衛所になります。
正祖が即位したばかりのころは正室の孝懿王后金氏がいるだけ。側室はいません。
恵慶宮の「恨中録」によると洪国栄の主導で側室選びが行われたと書かれています。選ばれたのは洪国栄の妹・洪氏でした。洪国栄は自分の妹を正祖の側室にするために、自ら側室選びを主導したのでしょう。
しかもまだ幼い側室にいきなり「元嬪」の称号が与えられました。何もかもが異例ずくめです。
そのため正祖から絶大な信頼を集める洪国栄の権力によって側室になったといわれています。
恵慶宮の協力があった?なかった?
元嬪の入宮には朝鮮王朝実録では恵慶宮の協力があったとされています。
でも恵慶宮は「恨中録」の中で元嬪の入宮には反対だったと書いており。主張が食い違っています。
どちらを信じるかでドラマの演出も変わってきそうです。
元嬪と正祖との関係
元嬪はまだ12歳です。子供を産める年齢ではありません。
洪国栄の妹・洪氏ですから正祖も元嬪をおろそかにあつかったりはしないでしょう。
洪国栄は権力を持ちすぎたため後に批判を浴びますが、そのときにも元嬪 洪氏本人が批判を受けたことはありません。元嬪は偉そうにすることはなく。人から批判を受けるようなこともしないおとなしい人だったのかもしれません。
元嬪の最後
でも元嬪は1年で病死しました。わずか14歳の若さでした。幼くしていきなり王の側室になり気苦労もあったのかもしれません。
あまりにも若いので洪国栄は元嬪の死因は王妃が毒殺したからだ、と疑ったといいます。こうした洪国栄の自己中止的な言動が批判を浴びて洪国栄失脚の原因になります。
「イ・サン」
親戚の恵慶宮の勧めで入宮。「イ・サン」では洪国栄は妹の入宮には最初は乗り気ではありません。でもやがて洪国栄は権力に取り憑かれます。元嬪の年齢は史実よりも高めの設定。兄の権力をいいことに偉そうにする両班らしい傲慢な娘として描かれています。それでいて重度のブラコン。
「赤い袖先」演:パク・ソギョン
役名:ホン・ダン。ホン・ドンロ(ホン・グギョンの通称)の妹。
史実通りの幼い年齢設定。洪国栄の意思により入宮。本人も華やかな宮廷生活にあこがれていますが、横暴なところはありません。こちらの方が史実に近いかも。
元嬪の詳しい紹介はこちらを御覧ください↓
和嬪 尹氏(ファビン ユンシ)
想像妊娠に誹謗中傷、お騒がせな側室
没年 1824年(純祖24年)
享年 60歳
側室になったいきさつ
1780年。跡継ぎを望む王大妃の命令で側室になりました。入宮していきなり嬪に昇格。
最初から跡継ぎ誕生を期待されて側室になっています。
入宮してまもなく妊娠したと診断され出産をサポートする産室庁までつくられましたが。出産や流産した記録はありません。想像妊娠だったといわれます。
男子を出産した宜嬪 成氏を妬んで大声で呪いの言葉を口にしたといいます。そのせいで宮殿に押し込められたこともありました。
でも正祖の側室では一番長生きしました。
「イ・サン」演:ユ・ヨンジ
大臣ユン・チャンユンの娘。ソンヨン(宜嬪)が側室にふさわしいと認めるものの。内心では嫉妬しています。ドラマでは想像妊娠はありません。
「赤い袖先」 演:イ・ソ
史実同様、揀択で入宮。すでにサンから好かれているドギム(宜嬪)に嫉妬します。
宜嬪成氏(ウィビン ソンシ)
子供の頃から知っていた?正祖が最も愛した側室
名前:成徳任(ソン・ドギム)
地位:宮女→尚儀→昭容→宜嬪
生年 1753年(英祖29年)
没年 1786年(正祖10年)
享年 34歳
朝鮮の女性では珍しく本名がわかっている人物。ドラマ「イ・サン」の公開後に史料が解読され本名が分かりました。そのため「イ・サン」の後に公開された「赤い袖先」では本名が使われています。
父は洪鳳漢(ホン・ボンハン)の使用人。その縁で10歳で宮女になり、恵慶宮洪氏の侍女をしていました。
正祖のひとつ年下。恵慶宮洪氏は正祖李祘の母なので李祘は若い頃から母に仕えていた成氏を見ていたはずです。同じ年頃の成氏を見て気に入ったのでしょう。
ドラマ「イサン」の設定に近い境遇だったかもしれません。ドラマと違い史実では恵慶宮洪氏は最初から味方です。洪家との関係だけなら「赤い袖先」の方が史実に近いかも知れません。
側室になったいきさつ
恵慶宮洪氏の侍女をしていました。母のもとにやってくる世孫 李祘(イ・サン)の目にとまりました。
でもイ・サンが側室にしたいと願っても何度か拒みます。イ・サンの執着ぶりに比べるとドギムはそれほどサンのことが好きではなかったのかもしれません。
朝鮮王室では王子であっても目上の人に仕える侍女に勝手に手を付けてはいけません。ドギムはサンの母に仕える立場ですから。ドギムも立場上「はい」とは言えません。
主人である恵慶宮が認めれば側室にすることは可能なので、サンが母を説得したのでしょう。
孝懿(ヒョイ)王后 金氏とは同い年。30歳で尚儀になったので当時としてはかなり高齢の側室入り。
正祖との関係
正祖が唯一自ら望んで側室にしただけに、正祖からは非常に好かれていたようです。
時々病気になっている記録があるのであまり体は丈夫ではなかったようです。
男子を出産、世子になりましたが幼くして病死。
その後、妊娠中に病死しました。当時としては診断の難しい病気だったらしく、死因には毒殺などの憶測も流れました。
イサン最愛の人なのでドラマのヒロインにもなってます。
「イ・サン」
役名:ソン・ソンヨン。演:ハン・ジミン
幼いころから宮女だったという設定。幼幼い世孫と出会い、友情から恋愛に発展。後に側室になります。ドラマがイ・サンの生涯にスポットを当てたため恋愛要素はやや少なめ。
「赤い袖先」
役名:ソン・ドギム。演:イ・セヨン
宮女の設定。ソンヨンとは対象的に自分の意思をはっきり主張する現代風の女性として設定されています。
宜嬪成氏の子供
庶長子 文孝世子 1782~1786年
庶長女 翁主 1784年~1784年
不明 妊娠中に死亡。
3人の子がいますが、いずれも幼い頃に死亡。
綏嬪朴氏(スビン パクシ)
国王の生母なのに存在感が薄い
地位:綏嬪→嘉順宮
生年 1770年(英祖46年)
没年 1822年(純祖22年)
享年 53歳
イサン 最終回の王子の生母です。
宜嬪 成氏が死去した翌年の1787年(正祖11年)に王大妃の命令で側室になりました。
入宮していきなり嬪に昇格。でも最初から跡継ぎを期待されプレッシャーにさらされます。
王子の李玜を出産。跡継ぎの誕生に正祖は大変喜んだといいます。李玜は後に23代国王純祖になりました。
純祖即位後は「嘉順宮」と呼ばれました。
当時の後宮には大王大妃(貞純王后)や王大妃(孝懿王后)がいたので後宮での存在感はいまひとつ。それでも一族が重臣に取り立てられ、朴一族は出世しました。
朝鮮王朝の側室では唯一、生きている間に子供が王になる喜びを体験しています。
英祖など生母が側室だった王は何人かいますが、全て生母の死後王になっているからです。
綏嬪の子供
- 庶二子 純祖 1790~1834年
- 庶二女 淑善翁主 1793~1836年
正祖は側室が少なかった
正祖は歴代の朝鮮王でも側室が少ないです。
側室全員が「嬪」なのも珍しいです。
正室は祖父 英祖が決めました。
宜嬪 成氏以外の側室も大妃や周囲の人が決めた人。
唯一自分で選んだ女性が宜嬪 成氏です。
地位が不安定で暗殺を恐れていたというので、誰の味方かわからない女性を身近におきたくなかったのかもしれません。
もしかすると正祖は王には珍しく一途な性格なのかもしれませんね。
側室が話題になる正祖イ・サンですがもちろん正室もいます。それも朝鮮王室でもとくに優れた評判の王妃でした。
次に正祖イ・サンの正室を紹介しましょう。
正祖 イサンの正室
孝懿王后 金氏(ヒョイワンフ キムシ)
賢く親孝行な模範的な王妃
孝懿王后 金氏は世孫時代からの正室。イサンにとって生涯でただ一人の正妻。
親戚には粛宗の生母・明聖王后 金氏がいます。
孝懿王后 金氏
地位:世孫嬪→王妃
生年 1753年(英祖29年)
没年 1821年(純祖21年)
享年 69歳
若い頃に天然痘を患い、世孫嬪になるのは中止かと思われましたが「ぜひ清風 金氏から世孫嬪の正室を」という英祖の強い願いで実現しました。
世孫嬪時代は和緩翁主から虐められていたようですが、世孫嬪 金氏は耐えました。
高い知性をもち、親孝行だったので王妃としての宮中での評判は高かったようです。
でも子供には恵まれません。重臣や大妃からも跡継ぎ誕生を望まれつらい立場だったようです。
「赤い袖先」では一度も登場しませんでした。会話などから王妃が存在しているのは分かるのですが。本人が画面に映らないままドラマが進んでしまいます。
コメント
韓国時代劇ドラマ「イ·サン」を見ていますが、英祖が亡くなったあと新たな王として即位しましたが、在位期間はわずか4年という短い生涯を終えました。死因は定かではありませんが、死因を知りたいです。誰かご存じの方がいれば教えて下さい。
こんにちは。正祖のことですよね?在位期間4年は何かの間違いではないでしょうか?
正祖の在位期間は24年。享年49歳ですから当時の人としては短命とはいえないと思います。
正祖は病死でした。顔や背中に腫れ物ができて血膿が出るほどだったといいます。病名はわかりませんが、腫れ物ができたのは敗血症だという説もあります。
当時から毒殺説もありしたがが証拠はありません。もともと睡眠時間が短く不規則な生活をしていたようなので健康だったとはいえません。免疫力が低下しているところに傷口からウィルスや最近が感染して重症化したのでしょう。