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英祖(ヨンジョ)の史実と家系図|トンイの息子・イサンの祖父は名君か冷酷な王か

朝鮮 英祖(ヨンジョ)李昑は 李氏朝鮮王朝の題21代国王。

英祖はドラマ『トンイ』では主人公トンイの息子クム、『イ・サン』『赤い袖先』では厳しい祖父。『ヘチ』では主人公として登場します。

史実の英祖は在位52年と朝鮮史上最長の長期政権を担い、税制改革や身分制の緩和など多くの政策を実行しました。その一方で息子の思悼世子を米びつに閉じ込めて死なせたことでも知られます。

この記事では英祖(ヨンジョ)の家系図や生涯、派閥争いとの関わり、評価が分かれる理由をわかりやすく紹介します。

この記事で分かること

  • 英祖(ヨンジョ)がどんな生涯を送った国王なのか
  • 英祖・トンイ・思悼世子・正祖イ・サンの家系図と関係
  • 李麟佐の乱や思悼世子事件の史実での経緯
  • 英祖の主な業績(税制改革・身分制の見直しなど)
  • 英祖が登場する韓国ドラマと、史実とのつながり

 

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英祖(ヨンジョ)とは?

英祖(ヨンジョ)の本名は李昑(イ・グム)。1694年に朝鮮王朝19代王・粛宗と側室・淑嬪崔氏とのあいだに生まれました。

在位期間は1724年から1776年までの52年。朝鮮王朝の中でも特に長く国を治めた王です。

ドラマ『トンイ』ではトンイと粛宗の間に生まれた「延礽君(ヨニングン)」として描かれ、後に波乱の末に王位につく存在として印象づけられています。

『イ・サン』や『秘密の花園』では息子・思悼世子に厳しく接し孫のイ・サン(正祖)と複雑な関係を結ぶ老人の王として登場します。

『ヘチ』では若き日の英祖が主人公として登場しました。

日本でいうと英祖の治世は江戸時代中期の8代将軍徳川吉宗〜9代家重の頃に相当します。中国では清の雍正帝・乾隆帝の「康雍乾の盛世」と呼ばれる安定期にあたります。

東アジア全体が大きな戦乱が減り内政の整備や文化の発展が進んだ時期でした。この時期に英祖もまた朝鮮王朝の立て直しと改革を進めていきました。

 

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朝鮮 英祖 (ヨンジョ)の史実

英祖 (ヨンジョ)の肖像画

朝鮮王朝第21代国王 英祖(ヨンジョ)の肖像画

朝鮮 英祖の肖像画

出典:wikipedia 英祖 (朝鮮王)

英祖 (ヨンジョ)のプロフィール

名前 李昑(イ・グム)
廟号 英祖(ヨンジョ、えいそ)
即位前 延礽君(ヨニングン)
清式諡号 荘順王
生年月日 1694年10月31日
没年月日 1776年4月22日
享年 83(数え歳)
在位 1724〜1776年

(年月日は新暦表示)

日本では江戸時代。8代将軍 徳川吉宗~9代 家重の時代。
清朝では5代 雍正帝~6代 乾隆帝の時代。

家族

英祖の妻や側室、王子・王女たちについては「英祖の王妃(妻)と側室」でまとめていますのでご覧ください。

 

英祖の家系図と家族

家系図

以下の家系図では上から「粛宗世代 → 景宗・英祖兄弟 → 思悼世子 → 正祖(イ・サン)」という流れで朝鮮王朝中後期の中心人物たちの関係を示しました。

英祖(ヨンジョ)の家系図。粛宗と淑嬪崔氏の子として生まれ、景宗・思悼世子・正祖イサンへ続く血筋を示した図

英祖(ヨンジョ)と景宗・思悼世子・正祖イ・サンの親子関係をまとめた家系図。

韓国ドラマでおなじみの淑嬪崔氏(トンイ)・思悼世子・正祖 イサンの親子関係がどのようにつながっているのかが一目で分かります。

 

粛宗と三人の后妃:仁顕王后・張禧嬪・淑嬪崔氏

家系図のいちばん上にいるのが19代王・粛宗です。
粛宗の周りには主要な后妃として「仁顕王后」「仁元王后」「張禧嬪」「淑嬪崔氏(トンイ)」を配置。

仁顕王后:粛宗の正室の王妃。張禧嬪との対立をめぐる党争の「象徴」となった人物で、廃妃と復位を経験した。

仁元王后:粛宗の後の王妃で景宗・延礽君の義母にあたる。延礽君(のちの英祖)をたびたび庇い、のちの英祖からも恩人として記憶された王妃。

禧嬪張氏:粛宗の寵姫として知られ、中殿に昇格するものの政争の末に処刑される。

淑嬪崔氏:もともとは宮女の出身。粛宗の側室となり「淑嬪」の位を授けられました。ドラマ『トンイ』の主人公にあたる人物。

兄・景宗と弟・英祖:王位を継いだのは側室の子

家系図の二段目には粛宗の息子として「景宗」と「英祖」が並んでいます。

兄の景宗は張禧嬪の息子。世子になり父の死後に第20代王として即位しました。

一方、弟の英祖は淑嬪崔氏の息子。若いころは「延礽君(ヨニングン)」と呼ばれていました。

身分の低い側室の出身のため王位継承の本命ではありませんでした。粛宗晩年の政争と派閥争いの中で立場を固め、景宗の死後に第21代王として即位します。

ドラマ『トンイ』『ヘチ』などでは「側室の子が兄の次に王になる」というドラマチックな展開が描かれます。

 

思悼世子と正祖(イ・サン)へつながる血筋

英祖の世代では家系図の左右に王妃・側室と子どもたちが広がっています。
英祖には複数の王妃・側室がいましたが、ドラマや歴史上重要な人物として押さえておきたいのは暎嬪李氏です。

  • 暎嬪李氏 → 次男・荘献世子(思悼世子)

暎嬪李氏が生まれた孝章世子は幼くして亡くなり、弟の李愃(のちの荘献世子/思悼世子)が世子となりました。

思悼世子はのちに英祖によって米びつに閉じ込められて命を落とす人物。『大王への道』『秘密の扉』などで大きく取り上げられる存在です。

その下の世代の代表が22代王・正祖(イ・サン)です。
思悼世子と恵慶宮洪氏とのあいだに生まれ、英祖は彼を「世孫」に指名し王位を継がせました。

  • 英祖:祖父
  • 思悼世子:父
  • 正祖(イ・サン):孫で後継者

という三世代の関係がこの家系図では縦に連なっています。
ドラマ『イ・サン』はこの三代の因縁と思悼世子事件の影を背負った正祖の生涯を描いた作品です。

 

英祖のおいたち

英祖は1694年(粛宗20年)に生まれました。即位前の称号は延礽君(ヨニングン)
正室の子ではなく、すでに世子がいたため後継者候補ではありませんでした。

当時の朝鮮では老論・少論・南人などの党派が激しく争っており、王妃や側室の擁立問題も派閥争いと深く結びついていました。

禧嬪張氏の死後、世子の地位が不安定になり。延礽君も後継者争いに巻き込まれます。

景宗の時代には世弟となりましたが「延礽君が王位を狙っているのではないか」と疑われ、命を奪われかねない状況に追い込まれたこともありました。

延礽君時代の詳しいエピソードや派閥争いについては延礽君(ヨニングン)派閥争いを生き残り王になるで解説しています。

 

国王・英祖になる

1724年10月11日。景宗が死去。

 1724年10月16日。世弟(延礽君)は即位。21代国王・英祖になりました。

英祖は老論の支持を得ていましたが、老論は力を失っていました。朝廷で力を持っているのは少論です。

英祖は少論の李光佐(イ・グァンジャ)を領議政、柳鳳輝を左議政、趙泰耉(チョ・テグ)を右議政にしました。老論の閔鎮遠(ミン・ジノン)を釈放。

すると老論の反撃が始まりました。李義淵が景宗時代に追放された老論の重臣の身分回復を訴えました。ところが少論の反撃にあい。李義淵は流罪。それでも少論はさらに処罰を要求するので怒った英祖は少論の首領・金一鏡(キム・イルギョン)を流罪にしました。

 

蕩平策

英祖は派閥の力が偏るとよくないと考え派閥のバランスをとる政治を心がけました。この政策を「蕩平」といいます。

老論が弱いときは老論の力が回復するまでは老論を増やす。老論が力をつけすぎると少論派の重臣を増やすという具合に。派閥の力関係の天秤が釣り合うように王がコントロールしました。

さらに英祖は「惟才是用」を実行。才能さえあれば老論・少論・南人・北人に関係なく採用する人事方針です。

 

李麟佐(イ・インジャ)の反乱

ところが政治から排除された少論の強行派が南人の一部と手を組み英祖を排除しようと動き出します。

英祖4年(1728年)。 少論の強行派 李麟佐(イ・インジャ) 昭顕世子(ソヒョンセジャ)の子孫・密豊君(ミルプングン)を担いで「延礽君は兄を殺して王になった。偽りの王を排除する」と主張して挙兵しました。

反乱軍は一時は7万の兵を集め首都・漢城(ソウル)に迫る勢いでしたが、英祖は鎮圧に成功。李麟佐を処刑。密豊君を自害させました。

李麟佐の反乱についてはこちらを御覧ください。

・李麟佐(イ・インジャ) 英祖に反乱を起こした過激な少論派

その後も英祖は各派閥からバランスをとって人事をおこないました。それぞれの派閥は争いながらも微妙なバランスをとって政治を行いました。

この年。孝章世子が9歳で死亡。

英祖12年(1736年)。次男の李愃(イ・ソン)が2歳で新しい世子になりました(荘献世子)。

英祖33年(1757年)。王妃徐氏が病死。

英祖35年(1759年)。大臣 金漢耉の娘を新しい王妃(貞純王后)に迎えました。

思悼世子(サドセジャ)の死

英祖25年(1749年)。英祖は55歳になっていました。当時の平均寿命ならいつ死んでもおかしくありません。英祖は世子に政治の経験を積ませようと考えました。

英祖はまず自分の病気が重くなったのを理由に思悼世子に譲位すると発表。世子や重臣たちが反対すると世子に代理聴政を行わせました。

英祖は厳しく教育しました。

代理聴政を任された思悼世子は過酷な政治の争いに耐えられません。とくに老論からの追求が厳しく思悼世子は次第に精神を病んでいきます。侍女を殺したり、妹の和緩翁主や妻、宮中の侍女たちに暴力をふるうようになりました。英祖に無断で平壌に遊びにいったことがばれました。

思悼世子は奇行が目立っていたので重臣からは謀反を訴えられ、実の母からは息子を犠牲にしてでも孫は助けて欲しいと言われるようになります。

本来ならここで世子を廃位するところです。

でも英祖は孫の李祘(イ・サン)に期待していました。李祘に王位を継がせたいので思悼世子を罪人にするわけにはいきません。

英祖38年(1762年)。英祖は思悼世子に自害を命じますが拒否。そこで思悼世子を米びつに閉じ込めて餓死させました。

思悼世子(荘献世子)についてはこちらを御覧ください。

思悼世子(サドセジャ、イ・ソン)イ・サンの父はなぜ死んだの?

その後、孫の李祘を世孫(王位継承者)にします。

 

英祖の業績

税・経済分野

税の改正

均役法を実施。民が軍役に行く代わりに税として納める布(軍布)を2疋から1疋に減らしました。減った税収は地主からの税の徴収や、魚税、塩税、舟税(それまで王室の収入になっていたのを国庫に入るようにした)で賄われました。

英祖は均役法を実施するために昌慶宮の弘化門まで行って官吏や民衆から直接意見を聞きました。朝鮮半島史上とても珍しいことです。

ドラマでは民の声を直接聞く王はよく出てきますが、実際に行なったのは英祖くらいでしょう。

贅沢禁止令と貿易赤字

英祖は質素倹約を美徳と考えました。

朝廷に集まる臣下はみんな赤を官服を着ていましたが、青と緑の官服を復活させました。(朝鮮国内では染色技術があまり進んでいないので、鮮やかな赤い布は明・清からの輸入に頼っていました)

女性の派手な髪飾りを禁止しました(玉は清、真珠・ヒスイは日本からの輸入)。
清から青く染めた布の輸入を禁止。国内産の藍染を使うようにしました。
冠婚葬祭で輸入品を着たり身につけるのを禁止しました。

ただの倹約だけが理由ではありません。貿易赤字の問題があります。贅沢品は清や日本からの輸入でした。

朝鮮は銀を日本から輸入していました。当時、日本からの銀の輸入が減り、貿易の支払いに使う銀が不足していました。そこで支出を減らそうとしたのです。

日本からの銀の輸入が減った理由としては。

  • 日本国内での銀の産出量が減り、江戸幕府が銀の輸出を減らした。
  • 銀が減ったので日本で人参の国産化を進め、朝鮮からの輸入に頼らなくてもいいようになった。
  • その結果、清やオランダに比べて朝鮮の優先順位が下がった。

などがあります。

英祖は銀以外の物で輸入品を仕入れようとしましたが、なかなかうまくいかなかったようです。

法・刑罰の分野

刑罰の緩和

刑罰の規則を改定して刑罰の乱用や拷問を一部廃止しました。

法律改正

「経国大典」や「国朝五禮儀」の法律が成立して200年近くたち現状に合わない部分が出てきたので改正しました。

 

その他

飢饉対策

朝鮮通信使の趙曮が日本から持ち帰ったサツマイモを飢饉対策の食べ物として採用しました。

書院の削減

朝鮮には「書院」という儒学者が子弟を育てる私塾がありました。

私塾は派閥の温床になると考え。孔子廟や書院の新たな建設を禁止、170の書院を廃止しました。

出版

英祖は学問を好み、様々な出版物を普及させました。自分も「御製警世問答」「為将必覧」を書きました。

 

身分制の改善

世宗の時代。父か母のどちらか一方が賤民なら生まれた子供は賤民。と決められました。英祖はその法律を変えて「母が良民ならその子は良民」と決めました。

良民を増やして税収を増やすのが主な目的ですが。生まれながらの賤民を減らす目的もあります。この法律を「定従母法」といいます。

朝鮮王朝では役職につくのは両班だけでした。司憲府と司諫院の一部の役職に庶民を採用しました。

 

清への反骨心

英祖は孝宗や粛宗と同じように清への反骨心を持ち続けた王でした。

英祖は「尊周思明」思想をかかげ「明が滅んだ今、朝鮮が中華を受け継ぐ唯一の国だ」として明への崇拝を強化。明の洪武帝 (初代・太祖)、万暦帝(神宗、文禄・慶弔の役で朝鮮を助けた皇帝)、崇禎帝(最後)を祀りました。

ただしこれは英祖の権威を高める狙いがあります。国王が皇帝を崇拝しているのだから、臣下や国民は国王を見習って王を崇拝するように。というわけです。

清が中原にやってきて約100年。雍正帝の清軍がジュンガルに破れたと聞き、清も滅ぶかもしれない、そうなれば朝鮮にも影響がでると考えて国境付近の防衛を強化しました。

ところが清は滅ぶどころが更に強大になって続きました。朝鮮国内では清を見習おうという動きも出て清への反感も薄らいできました。

英祖はその雰囲気を嘆いていました。次の正祖の時代になるとますます清に肯定的な人が増えます。

ただし英祖は現実的な政治家でもあるので感情を優先して清と争ったり国際問題になるようなことはしません。

また。それまで朝鮮は明や清に貢女を出していましたが、英祖の時代に正式に貢女は廃止になりました。

英祖(ヨンジョ)の性格と評価:名君か冷酷な王か

英祖は朝鮮王朝の中でも「評価が分かれる王」のひとりです。

一方では税制改革や身分制の緩和、学問の奨励などを行った名君として語られ、もう一方では息子・思悼世子を死に追いやった冷酷な父として記憶されています。

名君としての英祖

英祖が高く評価されるポイントを簡単に整理してみましょう。

  • 在位52年という長期政権で税制や軍役制度を現実に合わせて見直した
  • 均役法の実施や身分法の改正(定従母法)により、庶民の負担を一部軽くした
  • 書院の整理や出版事業を進め、儒学と実学の発展に貢献した
  • 老論・少論などの派閥が暴走しないよう、蕩平策でバランスを取り続けた

こうした点から経済や文化の面では「英祖・正祖の時代が朝鮮の全盛期」と評価する歴史家も多くいます。ドラマでも『イ・サン』や『ヘチ』では「有能な王」として描かれることが多いですね。

冷酷な父としての英祖

一方で、思悼世子を米びつに閉じ込めて死なせた出来事は英祖のイメージを大きく傷つけました。

英祖は思悼世子に厳しく接しており、世子の間違いを激しく叱っていました。さらに派閥争いと王位継承問題が絡み合う中で世子は病的な行動をとるようになり。最終的に極端な方法で事態を収めようとします。

思悼世子事件では英祖が感情的に怒って命令したのか、それとも政治的な計算があったのか、今でも議論が続いています。

現実主義者としての英祖

英祖の決断には常に「王朝を守る」という現実的な視点がありました。
派閥のどちらか一方に寄りかかるより、対立する勢力同士を競わせて自分の権力を保つ方を選んだのも、王権維持を最優先にした結果といえます。

世子を廃してしまうと、孫のイ・サンが王位に就く道も閉ざされてしまいます。英祖は孫に大きな期待をかけていたため、世子を「公式には逆賊にしない形」で排除するという苦い選択をし

ました。ドラマではここが「冷酷な祖父」として描かれる一方で「国と王朝を守るためには身内にも厳しかった王」として描かれることも多い部分です。

英祖をどう見るか?

英祖は庶民の暮らしを改善しようとした政策面では間違いなく有能な君主でした。

しかし激しい派閥争いと王位継承問題の中で、家族を犠牲にしてでも王朝を守ろうとした姿は多くの人に複雑な感情を抱かせます。

ドラマ『トンイ』『イ・サン』『ヘチ』『赤い袖先』などでは、この二面性がそれぞれ違った角度から描かれています。史実の英祖を知ったうえでドラマを見ると、「この場面はどこまで史実がなのか?」という楽しみ方もできると思います。

 

世孫の代理聴政と英祖の最期

英祖は80歳を過ぎたころから痴呆の症状がでるようになりました。すでに他界している者を役職に任命しようとすることもありました。病は次第に重くなっていきます。

英祖51年(1775年)。英祖は病が重くなり寝込むようになりました。英祖は世孫に代理聴政を命じます。重臣で最も力を持つ洪麟漢は反対。でも英祖は強行しました。

洪麟漢は和緩翁主の養子・鄭厚謙(少論蕩平党)、金亀柱と結託して世孫と対立。

世孫は洪国栄たち清名党とともに洪麟漢たちに対抗しました。

英祖52年(1776年4月22日)英祖は慶熙宮で死去。享年83(数え年)。

楊州元陵に葬られました。

廟号は「英宗」
高宗の時代に「英祖」に変わりました。

清朝からは「荘順王」の称号が与えられました。ただし朝鮮国内では清から与えられた称号は使いません。

 

英祖のエピソード

廟号「英」の由来

英祖は宋の英宗を尊敬しました。宋の英宗は宮廷の外で育ち、皇帝になったときに書物だけを持って宮殿に入った学問好きで知られる皇帝です。「私も”英”を授かりたい」と言っていました。

正祖が祖父の廟号を決める時に領議政の金尚喆と相談したところ。金尚喆は生前の英祖の言葉を正祖に伝えました。そこで「英宗」に決まったといいます。

高宗の時代。高宗は自分の権威を高めるため系譜上の祖先の英宗を「祖」に昇格させました。そこで英祖になりました。(実際には高宗は仁祖の三男・麟坪大君の子孫なので英祖の血は受け継いでいない)

 

長寿の秘訣

在位期間52年は朝鮮史上最長。
82歳も朝鮮史上最も長生きした国王です。

英祖は日頃から健康管理には気をつけていました。

英祖は白米を食べず、軽い精進料理と麦飯を好みました。他の王が一日五食のところを一日三食ですませました。

また高齢になってからは高麗人参を服用していました。

英祖は国の内外に様々な問題を抱えていましたが。優れた判断力と決断力で様々な問題に取り組み。英祖・正祖の時代が朝鮮の文化や経済が発展した全盛期といえそうです。

その一方では厳しすぎる面もあり、冷徹な政治家としての側面もあります。

 

英祖のテレビドラマ

大王の道 MBC1998年 演:パク・クニョン
洪國榮 ホン・グギョン MBC 2001年 演:チェ・ブラム
暗行御使パク・ムンス MBC 2002年 演:チョ・ミンギ
張禧嬪 チャン・ヒビン KBS 2002年 演:イ・ミンホ
正祖暗殺ミステリー 8日 チャンネルCGV 2007年 演:キム・ソンギョム
イ・サン MBC 2007年 演:イ・スンジェ
トンイ MBC 2010年 演:イ・ソノ、イ・ヒョンソク・
ペク・ドンス SBS 2011年 演:チョン・グックァン
秘密の扉 SBS 2014年 演:ハン・ソッキュ
赤い月 KBS 2015年 演:キム・ミョンゴン
テバク〜運命の瞬間 SBS 2016年 演:ヨ・ジング
ヘチ 王座への道 SBS 2019年 演:チョン・イル
紅い袖先 MBC 2021年 演:イ・ドクファ

今回は21代国王 英宗を紹介しました。李氏朝鮮王朝には27人の王がいます。朝鮮王朝全体の流れと歴代の王について詳しく知りたい方は、李氏朝鮮王朝の歴代王一覧をご欄ください。

 

参考文献

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この記事を書いた人

 

著者イメージ

執筆者:フミヤ(歴史ブロガー)
京都在住。2017年から韓国・中国時代劇と史実をテーマにブログを運営。これまでに1500本以上の記事を執筆。90本以上の韓国・中国歴史ドラマを視聴し、史実とドラマの違いを史料(『朝鮮王朝実録』『三国史記』『三国遺事』『二十四史』など)に基づき初心者にもわかりやすく解説しています。類似サイトが増えた今も、朝鮮半島を含めたアジアとドラマを紹介するブログの一つとして更新を続けています。

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