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英祖(ヨンジョ)の史実と家系図。派閥争いを抑え全盛期を迎えた厳しい国王

朝鮮英祖 1 李氏朝鮮の国王

朝鮮 英祖(ヨンジョ)は 李氏朝鮮王朝の題21代国王。

19代国王粛宗淑嬪崔氏の息子。

正祖 イ・サンの祖父です。

即位する前は延礽君(ヨニングン)と呼ばれていました。

朝廷内の派閥争いも激しく、王族同士の争いもありました。その一方で、英祖の時代は国内の様々な問題にとりくみ朝鮮の文化や経済が最も発展した時代でした。

史実の英祖はどんな人物だったのか紹介します。

 

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朝鮮 英祖 (ヨンジョ)の史実

英祖 (ヨンジョ)の肖像画

朝鮮 英祖 肖像画

朝鮮 英祖 肖像画

出典:wikipedia 英祖 (朝鮮王)

英祖 (ヨンジョ)のプロフィール

名前:李昑(イ・グム)
廟号:英祖(ヨンジョ、えいそ)、英宗
清式諡号:荘順王
王子時代の称号:延礽君(ヨニングン)

生年月日:1694年10月31日
没年月日:1776年4月22日
享年:83(数え歳)
在位:1724~1776年

日本では江戸時代。8代将軍 徳川吉宗~9代 家重の時代。
清朝では5代 雍正帝~6代 乾隆帝の時代。

父:粛宗
母:淑嬪崔氏

 

英祖の家系図と家族

家系図

朝鮮 英祖の家系図

朝鮮 英祖の家系図

 

英祖 (ヨンジョ)の家族

父:粛宗
母:淑嬪崔氏

延礽君時代からの妻と側室:
貞聖王后徐氏
靖嬪李氏

以下は国王即位後
貞純王后 金氏
暎嬪李氏
貴人趙氏
淑儀文氏

子供
長男:孝章世子 李緈
次男:荘献世子 李愃
など

詳しく知りたい方はこちらをご覧ください。

英祖(ヨンジョ)の王妃(妻)と側室

 

延礽君のおいたち

1694年(粛宗20年)。英祖が誕生。

父は 19代国王粛宗。

母は淑媛崔氏(後の淑嬪崔氏)。

延礽君(ヨニングン)時代についてはこちらを御覧ください。

・延礽君(ヨニングン)派閥争いを生き残り王になる

 

1724年8月22日。景宗が死去。

国王・英祖になる

1724年8月30日。延礽君は即位。21代国王・英祖になりました。

英祖は老論の支持を得ていましたが、老論は力を失っていました。朝廷で力を持っているのは少論です。

英祖は少論の李光佐(イ・グァンジャ)を領議政、柳鳳輝を左議政、趙泰耉(チョ・テグ)を右議政にしました。老論の閔鎮遠(ミン・ジノン)を釈放。

すると老論の反撃が始まりました。李義淵が景宗時代に追放された老論の重臣の身分回復を訴えました。ところが少論の反撃にあい。李義淵は流罪。それでも少論はさらに処罰を要求するので怒った英祖は少論の首領・金一鏡(キム・イルギョン)を流罪にしました。

蕩平策

英祖は派閥の力が偏るとよくないと考え派閥のバランスをとる政治を心がけました。この政策を「蕩平」といいます。

老論が弱いときは老論の力が回復するまでは老論を増やす。老論が力をつけすぎると少論派の重臣を増やすという具合に。派閥の力関係の天秤が釣り合うように王がコントロールしました。

さらに英祖は「惟才是用」を実行。才能さえあれば老論・少論・南人・北人に関係なく採用する人事方針です。

李麟佐(イ・インジャ)の反乱

ところが政治から排除された少論の強行派が南人の一部と手を組み英祖を排除しようと動き出します。

英祖4年(1728年)。 少論の強行派 李麟佐(イ・インジャ) 昭顕世子(ソヒョンセジャ)の子孫・密豊君(ミルプングン)を担いで「延礽君は兄を殺して王になった。偽りの王を排除する」と主張して挙兵しました。

反乱軍は一時は7万の兵を集め首都・漢城(ソウル)に迫る勢いでしたが、英祖は鎮圧に成功。李麟佐を処刑。密豊君を自害させました。

李麟佐の反乱についてはこちらを御覧ください。

・李麟佐(イ・インジャ) 英祖に反乱を起こした過激な少論派

その後も英祖は各派閥からバランスをとって人事をおこないました。それぞれの派閥は争いながらも微妙なバランスをとって政治を行いました。

この年。孝章世子が9歳で死亡。

英祖12年(1736年)。次男の李愃(イ・ソン)が2歳で新しい世子になりました(荘献世子)。

英祖33年(1757年)。王妃徐氏が病死。

英祖35年(1759年)。大臣 金漢耉の娘を新しい王妃(貞純王后)に迎えました。

思悼世子(サドセジャ)の死

英祖25年(1749年)。英祖は55歳になっていました。当時の平均寿命ならいつ死んでもおかしくありません。英祖は世子に政治の経験を積ませようと考えました。

英祖はまず自分の病気が重くなったのを理由に思悼世子に譲位すると発表。世子や重臣たちが反対すると世子に代理聴政を行わせました。

英祖は厳しく教育しました。

代理聴政を任された思悼世子は過酷な政治の争いに耐えられません。とくに老論からの追求が厳しく思悼世子は次第に精神を病んでいきます。侍女を殺したり、妹の和緩翁主や妻、宮中の侍女たちに暴力をふるうようになりました。英祖に無断で平壌に遊びにいったことがばれました。

思悼世子は奇行が目立っていたので重臣からは謀反を訴えられ、実の母からは息子を犠牲にしてでも孫は助けて欲しいと言われるようになります。

本来ならここで世子を廃位するところです。

でも英祖は孫の李祘(イ・サン)に期待していました。李祘に王位を継がせたいので思悼世子を罪人にするわけにはいきません。

英祖38年(1762年)。英祖は思悼世子に自害を命じますが拒否。そこで思悼世子を米びつに閉じ込めて餓死させました。

思悼世子(荘献世子)についてはこちらを御覧ください。

思悼世子(サドセジャ、イ・ソン)イ・サンの父はなぜ死んだの?

その後、孫の李祘を世孫(王位継承者)にします。

 

英祖の業績

税・経済分野

税の改正

均役法を実施。民が軍役に行く代わりに税として納める布(軍布)を2疋から1疋に減らしました。減った税収は地主からの税の徴収や、魚税、塩税、舟税(それまで王室の収入になっていたのを国庫に入るようにした)で賄われました。

英祖は均役法を実施するために昌慶宮の弘化門まで行って官吏や民衆から直接意見を聞きました。朝鮮半島史上とても珍しいことです。

ドラマでは民の声を直接聞く王はよく出てきますが、実際に行なったのは英祖くらいでしょう。

贅沢禁止令と貿易赤字

英祖は質素倹約を美徳と考えました。

朝廷に集まる臣下はみんな赤を官服を着ていましたが、青と緑の官服を復活させました。(朝鮮国内では染色技術があまり進んでいないので、鮮やかな赤い布は明・清からの輸入に頼っていました)

女性の派手な髪飾りを禁止しました(玉は清、真珠・ヒスイは日本からの輸入)。
清から青く染めた布の輸入を禁止。国内産の藍染を使うようにしました。
冠婚葬祭で輸入品を着たり身につけるのを禁止しました。

ただの倹約だけが理由ではありません。貿易赤字の問題があります。贅沢品は清や日本からの輸入でした。

朝鮮は銀を日本から輸入していました。当時、日本からの銀の輸入が減り、貿易の支払いに使う銀が不足していました。そこで支出を減らそうとしたのです。

日本からの銀の輸入が減った理由としては。

  • 日本国内での銀の産出量が減り、江戸幕府が銀の輸出を減らした。
  • 銀が減ったので日本で人参の国産化を進め、朝鮮からの輸入に頼らなくてもいいようになった。
  • その結果、清やオランダに比べて朝鮮の優先順位が下がった。

などがあります。

英祖は銀以外の物で輸入品を仕入れようとしましたが、なかなかうまくいかなかったようです。

法・刑罰の分野

刑罰の緩和

刑罰の規則を改定して刑罰の乱用や拷問を一部廃止しました。

法律改正

「経国大典」や「国朝五禮儀」の法律が成立して200年近くたち現状に合わない部分が出てきたので改正しました。

 

その他

飢饉対策

朝鮮通信使の趙曮が日本から持ち帰ったサツマイモを飢饉対策の食べ物として採用しました。

書院の削減

朝鮮には「書院」という儒学者が子弟を育てる私塾がありました。

私塾は派閥の温床になると考え。孔子廟や書院の新たな建設を禁止、170の書院を廃止しました。

出版

英祖は学問を好み、様々な出版物を普及させました。自分も「御製警世問答」「為将必覧」を書きました。

 

身分制の改善

世宗の時代。父か母のどちらか一方が賤民なら生まれた子供は賤民。と決められました。英祖はその法律を変えて「母が良民ならその子は良民」と決めました。

良民を増やして税収を増やすのが主な目的ですが。生まれながらの賤民を減らす目的もあります。この法律を「定従母法」といいます。

朝鮮王朝では役職につくのは両班だけでした。司憲府と司諫院の一部の役職に庶民を採用しました。

 

清への反骨心

英祖は孝宗や粛宗と同じように清への反骨心を持ち続けた王でした。

英祖は「尊周思明」思想をかかげ「明が滅んだ今、朝鮮が中華を受け継ぐ唯一の国だ」として明への崇拝を強化。明の洪武帝 (初代・太祖)、万暦帝(神宗、文禄・慶弔の役で朝鮮を助けた皇帝)、崇禎帝(最後)を祀りました。

ただしこれは英祖の権威を高める狙いがあります。国王が皇帝を崇拝しているのだから、臣下や国民は国王を見習って王を崇拝するように。というわけです。

清が中原にやってきて約100年。雍正帝の清軍がジュンガルに破れたと聞き、清も滅ぶかもしれない、そうなれば朝鮮にも影響がでると考えて国境付近の防衛を強化しました。

ところが清は滅ぶどころが更に強大になって続きました。朝鮮国内では清を見習おうという動きも出て清への反感も薄らいできました。

英祖はその雰囲気を嘆いていました。次の正祖の時代になるとますます清に肯定的な人が増えます。

ただし英祖は現実的な政治家でもあるので感情を優先して清と争ったり国際問題になるようなことはしません。

また。それまで朝鮮は明や清に貢女を出していましたが、英祖の時代に正式に貢女は廃止になりました。

世孫の代理聴政と英祖の最期

英祖は80歳を過ぎたころから痴呆の症状がでるようになりました。すでに他界している者を役職に任命しようとすることもありました。病は次第に重くなっていきます。

英祖51年(1775年)。英祖は病が重くなり寝込むようになりました。英祖は世孫に代理聴政を命じます。重臣で最も力を持つ洪麟漢は反対。でも英祖は強行しました。

洪麟漢は和緩翁主の養子・鄭厚謙(少論蕩平党)、金亀柱と結託して世孫と対立。

世孫は洪国栄たち清名党とともに洪麟漢たちに対抗しました。

英祖52年3月5日 英祖は慶熙宮で死去。享年82。

楊州元陵に葬られました。

廟号は「英宗」
高宗の時代に「英祖」に変わりました。

清朝からは「荘順王」の称号が与えられました。ただし朝鮮国内では清から与えられた称号は使いません。

 

英祖のエピソード

廟号「英」の由来

英祖は宋の英宗を尊敬しました。宋の英宗は宮廷の外で育ち、皇帝になったときに書物だけを持って宮殿に入った学問好きで知られる皇帝です。「私も”英”を授かりたい」と言っていました。

正祖が祖父の廟号を決める時に領議政の金尚喆と相談したところ。金尚喆は生前の英祖の言葉を正祖に伝えました。そこで「英宗」に決まったといいます。

高宗の時代。高宗は自分の権威を高めるため系譜上の祖先の英宗を「祖」に昇格させました。そこで英祖になりました。(実際には高宗は仁祖の三男・麟坪大君の子孫なので英祖の血は受け継いでいない)

 

長寿の秘訣

在位期間52年は朝鮮史上最長。
82歳も朝鮮史上最も長生きした国王です。

英祖は日頃から健康管理には気をつけていました。

英祖は白米を食べず、軽い精進料理と麦飯を好みました。他の王が一日五食のところを一日三食ですませました。

また高齢になってからは高麗人参を服用していました。

英祖は国の内外に様々な問題を抱えていましたが。優れた判断力と決断力で様々な問題に取り組み。英祖・正祖の時代が朝鮮の文化や経済が発展した全盛期といえそうです。

その一方では厳しすぎる面もあり、冷徹な政治家としての側面もあります。

 

英祖のテレビドラマ

大王の道 MBC1998年 演:パク・クニョン
洪國榮 ホン・グギョン MBC 2001年 演:チェ・ブラム
暗行御使パク・ムンス MBC 2002年 演:チョ・ミンギ
張禧嬪 チャン・ヒビン KBS 2002年 演:イ・ミンホ
正祖暗殺ミステリー 8日 チャンネルCGV 2007年 演:キム・ソンギョム
イ・サン MBC 2007年 演:イ・スンジェ
トンイ MBC 2010年 演:イ・ソノ、イ・ヒョンソク・
ペク・ドンス SBS 2011年 演:チョン・グックァン
秘密の扉 SBS 2014年 演:ハン・ソッキュ
赤い月 KBS 2015年 演:キム・ミョンゴン
テバク〜運命の瞬間 SBS 2016年 演:ヨ・ジング
ヘチ 王座への道 SBS 2019年 演:チョン・イル
紅い袖先 MBC 2021年 演:イ・ドクファ

 

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