清王朝の康煕帝時代は、清が大きく発展した時代です。
康煕帝は歴代中国皇帝の中でも特に優れた皇帝といわれました。ところがその康煕帝にも大きな悩みがありました。後継者問題です。
康煕帝には30人以上の息子がいました。その中で成人したのは24人。その中の9人が次期皇帝を巡って争いました。
その争いを 九王奪嫡 といいます。もちろん後の時代の歴史学者が付けた名前なので当時の人は九王奪嫡とは呼んでいません。でもそのくらい印象的な出来事だったのです。
日本は中国史研究が盛んな国ですが、それでも九王奪嫡は知られていません。そこで九王奪嫡の要点を紹介しようと思います。
後継者争いに加わった9人の皇子たち
九王ですから9人の皇子たちが争いに関わっています。
その9人とは以下の人たちです。
大阿哥(第一皇子) 胤禔(いんし)
二阿哥(第二皇子) 胤礽(いんじょう):皇太子
三阿哥(第三皇子) 胤祉(いんし)
四阿哥(第四皇子) 胤禛(いんしん):後の雍正帝
八阿哥(第八皇子) 胤禩(いんし)
九阿哥(第九皇子) 胤禟(いんとう)
十阿哥(第十皇子) 胤䄉(いんが)
十三阿哥(第十三皇子) 胤祥(いんしょう)
十四阿哥(第十四皇子) 胤禵(いんてい)
阿哥=王子
阿哥(あか)とは「兄弟」という意味。もともとは満洲語の「アグ(age)=男兄弟」を漢字で表現したものです。清では「皇子」の意味で使われました。日本語訳では「第一皇子」「第二皇子」と訳されます。
皇子たちの後継者争い「九王奪嫡」
生まれた順番より血筋が大事・皇后の息子が皇太子に
康熙13年(1674年)。孝誠仁皇后が第二皇子の胤礽(いんじょう)を出産。孝誠仁皇后は難産で亡くなってしまいました。
康煕帝は胤礽に期待します。
胤礽はわずか2歳で皇太子になりました。
母の叔父・ソンゴトゥ(索額図)は康煕帝の側近。最も力のある重臣でした。ソンゴトゥの影響力が大きかったのも胤禔が皇太子になった理由のひとつでしょう。
康煕帝は皇太子になった胤礽に英才教育を行って他の皇子とは差をつけて育てました。
ところが胤礽はしだいに横暴になってしまいます。重臣たちからも苦情が出るようになりました。
満洲人には皇太子制度がなじまない
ところが満洲人(女真時代も含めて)には「長男が相続する」「王が自分の後継者を決める」という習慣はありません。部族長たちが集まる会議で「後継者にふさわしい」と認められた者が王(ハン)になる習慣でした。
誰もが納得する皇子がいればいいですが。
飛び抜けた人がいないとどうなるでしょうか?
幸か不幸か。康熙帝の子供には有能な皇子が何人もいました。
そのぶん争いも激しくなります。
かつての遊牧民王朝は後継者争いで自滅しました。大帝国の元があっさり滅びたのも内輪もめが原因でした。康煕帝はそれを繰り返したくありません。そこで皇太子制度を取り入れようとしたのです。
でも古くからの習慣はなかなか変わりません。皇帝が「後継者だ」と決めても他の有力者が納得しないのです。
第一皇子の胤禔(いんし)が戦争で手柄をたてると「第一皇子が後継者にふさわしい」と考える重臣もでました。
人格的に優れているとされた第八皇子 胤禩(いんし)も朝廷内で人気を集めています。
それぞれが次の皇帝の座を狙っていました。
皇太子が廃位される
皇太子の支持者ソンゴトゥの死去
ソンゴトゥは康煕帝が若い頃から支えた重臣でした。ところが康煕帝との意見の違いが目立つようになって追放されてしまいます。ソンゴトゥの仲間たちも捕らえられ職を失いました。
康熙42年(1703年)。皇太子・胤礽を支えていた重臣のソンゴトゥが死亡しました。
胤礽は有力な支持者を失いました。
他の皇子の支持者が皇太子 胤礽の悪い噂を流します。胤礽は人びとの信頼を失なって自暴自棄になっていきました。
胤礽が監禁
康熙47年(1708年)。康煕帝は第一皇子・胤禔たちから「皇太子が貢物を横領している」「皇太子は皇帝を暗殺しようとしている」などと聞かされました。
もともと胤礽の行いは普段からあまりよくありません。悪い噂をたてられても「そうかもしれない」と思えたようです。
康煕帝は皇太子・胤礽から皇太子の位を取り上げ監禁しました。
第一皇子・胤禔は康煕帝から胤礽の監視を任されます。
第八皇子 胤禩(いんし)派が勢いづく
胤礽の廃位が決定後。皇子たちが次の皇太子を巡って動き出します。
1708年(康熙帝47年)冬。康煕帝は大臣たちを集め。次の皇太子を誰にしたらいいか訪ねました。康熙帝の狙いは胤礽にやり直す機会を与えることでした。
だから重臣たちが「第二皇子にもう一度機会を」と言うのを期待していたのです。
ところが佟国维たち大臣は共同で第八皇子を次の皇太子に推薦しました。
康熙帝は驚きました。若くて血筋のよくない(助けてくれる親戚がいない)、戦場で手柄もたてていない八皇子 胤禩がなぜ大勢の大臣たちから支持されているのでしょうか?たしかに胤禩は人付き合いもよく「人格者だ」と評判でした。でもそれだけで一癖も二癖もある大臣たちが皆そろって支持するのは不自然です。
康煕帝は「何かある」と考え。その場で大臣たちの意見を拒否しました。
一皇子 胤禔が八皇子 胤禩に便乗
一皇子 胤禔(いんし)も次の皇太子になりたいところです。ところが有力な支持者だった納蘭明珠(ナーラン・ミンジュ)がすでに他界していました。他の大臣や皇子たちは八皇子を支持しています。どうも分が悪そうです。
そこで一皇子胤禔は八皇子 胤禩に便乗することにしました。
一皇子 胤禔は康煕帝にある報告をしました。
「廃太子は卑劣で人の心を失っています。鑑定士の張明徳はかつて八皇子は大物になると言っていました。廃太子を殺したいなら、父上が手を下すまでもありません」というのです。
なぜ一皇子胤禔がこのような報告をしたのかは2つの説があります。
・自分の立太子を諦めて優勢な八皇子派に乗り換えた。幸い八皇子の養母は胤禔の生母・恵妃です。生母や自分も優遇されるかもしれません。
・八皇子派が廃太子を殺そうとしている。と思わせて廃太子と八皇子の両方の失脚を考えた。
その結果はどうなったでしょうか。
一皇子 胤禔と八皇子 胤禩が脱落
康煕帝は激怒しました。康煕帝は胤禔に立ち直る機会を与えたいのです。それなのに殺そうとするとは許せません。
康煕帝は「一皇子胤禔と八皇子胤禩こそが反逆者」と激怒しました。
さらに三皇子 胤祉が「第一皇子は僧侶を使って第二皇子を呪っています」と報告しました。
康煕帝は調査させました。胤礽の悪い噂も胤禔たちが流していたことがわかりました。
張明徳という占い師が八皇子胤禩に廃太子を殺害しましょう。と相談していた事もわかりました。でも八皇子は張明徳を叱って追い返しました。そのことは十四皇子 胤禵も聞いています。
でも康煕帝は「そんなに重要なことを皇子だけに言ってなぜ私にいわないのかと激怒」張明徳は捕まって処刑されました。
康煕帝は「一皇子胤禔と八皇子胤禩は反逆者」と考え。2人の爵位を取り上げ幽閉しようとしました。
ところが九皇子・十四皇子や重臣たちが懇願。八皇子 胤禩が皇太子暗殺を計画したという証拠もありません。八皇子 胤禩の処分は爵位のとり消しだけですみました。
でも康煕帝は八皇子 胤禩に不信感をもちます。
結果は一皇子胤禔と八皇子胤禩の共倒れです。
このとき四皇子 胤禛は廃太子胤礽を擁護。皇太子の復位を目指しました。
皇太子復活と廃位
1709年(康熙48年)。皇子たちの後継者争いにうんざりした康煕帝は二皇子 胤礽を皇太子に戻しました。
「以前は病気だったのでおかしかったのだ。今は治ったので大丈夫だ」という理由です。
ところが一度できた親子の溝は簡単には修復できませんでした。
皇太子 胤礽は自分の支持者を集め党派を作りました。康煕帝も60歳手前。いつ引退してもおかしくない年齢です。康煕帝は長くないと考えた重臣たちは皇太子 胤礽にとり入ろうとしました。
1711年(康煕50年)。太子派の重臣を贈収賄の罪で処罰。
康煕帝は皇太子 胤礽の廃位を決定しました。
1712年(康煕51年)。胤礽は再び廃位になりました。胤礽は監禁されました。
このとき重臣たちは胤礽の復位を訴えました。でも康煕帝は胤礽の復位を訴えたものを処罰しました。本気で胤礽を廃位したのでした。
以後、康煕帝は皇太子を決めないことにしました。
康煕帝は派閥政治が嫌い
どうして康煕帝は一度許した胤礽を再び廃したのでしょうか?
康煕帝は皇子や重臣が派閥を作るのを非常に嫌いました。身近な重臣にも派閥を作るなと言っています。利害の一致した皇子・重臣・官僚がグループを作り、自分たちのグループのために政治を行うのを朋党政治といいます。朋党とは派閥と同じ意味です。
重臣たちの力が強くなると皇帝が操り人形になることがあります。皇帝が特定の派閥と親しくなると派閥の利益のために政治を行うようになるかもしれません。皇帝以上の力を持つ重臣の出現も嫌いました。
また中国や朝鮮王朝など科挙を行っている国は賄賂が横行しやすいです。というのも。「実力があれば採用される」は建前。その実力を判断するのは人間です。その人にお金や物を贈って自分に有利な結果にしてもらう。というのが横行していました。役人は役職にありついたり昇進するために重臣に賄賂を贈る。自分が払った金は下の者から巻き上げる。金銭の流れが巨大な人間関係のピラミッドを作っていたのです。その底辺で民衆が苦しんでいるのが中国や朝鮮王朝です。
どれもドラマではおなじみの光景ですね。
日本で汚職や賄賂といえば官民の関係で起こりやすいです。中国では官民の汚職も酷いですが、官官の汚職が日本では考えられないくらい酷いのです。
康煕帝はそれを避けたいと考えていました。それでも康煕帝はまだ賄賂の取締は緩かったほうですが、皇子や大臣たちの派閥づくりには警戒していました。
胤禛は康熙帝の考えを理解しました。そして大きな派閥は作らず、目立たないように行動しました。味方になってくれる重臣たちとも必要以上の付き合いはしません。そのため人付き合いが悪そうに見えたかもしれません。ドラマの四阿哥 胤禛が何を考えているのかわからないミステリアスな人物に描かれるのもそのためです。
朋党嫌いな皇帝といえば雍正帝が有名です。もともとは康熙帝の方針でした。雍正帝は康熙帝の考えを受け継いだのです。
水面下で続く後継者争い
康煕帝は皇帝の仕事の補佐を三皇子・胤祉、四皇子・胤禛にやらせました。
それでも皇子たちの間では次の皇帝の座をめぐって密かな争いが続いていました。
皇帝の信頼を失った八皇子にかわり、十四皇子が次の後継者にふさわしいと人気が出ました。
四皇子 胤禛は廃太子胤礽の復活の可能性がないと判断。自分が次の皇帝になろうと皇子たちの動向を探りました。四皇子 胤禛を支持したのは十三皇子 胤祥でした。
胤祥の育ての親は徳妃。そのため 胤禛と胤祥は実の兄弟のように育ちました。兄弟というより主従に近いかもしれません。
1722年(康熙61年)康煕帝が病に倒れました。皇子と重臣たちが集められます。
四阿哥 胤禛は天壇に行かされ皇帝のかわりに天の神を祀る儀式を行うようにいわれます。
やがて康熙帝が死去。
康煕帝の遺言を受け取ったのがロンコドでした。遺言には「胤禛を次の皇帝にする」と書かれていました。
康熙帝が次の皇帝に選んだのは四阿哥 胤禛でした。ドラマでは 胤禛の陰謀がよく描かれます。でも皇子時代の行動や皇帝になったあとの政治の仕方を見ると、康熙帝の考えを一番よく理解していたのは胤禛だったのは間違いありません。康煕帝はそれに気づいていたのでしょう。
康煕帝があと10年長生きしたからわかりませんが。あの時点では胤禛がベストだったのでしょう。
皇帝になったのは四阿哥 胤禛
胤禛は第5代皇帝・雍正帝となりました。
でも悲劇はこのあとも続きます。
皇帝になった雍正帝は皇子や重臣が派閥(朋党)を作って争うのを嫌いました。雍正帝は派閥を作るものは徹底的に潰しました。その中で皇子たちが地位を失い幽閉され、重臣たちが処刑されていきました。雍正帝の容赦の無さは康煕帝もあの世で驚いたかもしれません。
皇子たちの派閥
九王奪嫡で皇子たちが作ったとされる派閥にはどんな人がいたのでしょうか?想像できる範囲で派閥の人たちを紹介します。実際にはもっと大勢の人がいたでしょう。皇子と主な重臣だけを紹介します。
また同じ時代に同時に派閥が存在したのではなく、時期によって存在する派閥やメンバーも違います。おおまかな目安と考えてください。
大千歲党
党首:大阿哥 胤禔(いんし)
支持者
納蘭明珠、余国柱、舒穆禄 佛倫
太子党
二阿哥 皇太子 胤礽(いんじょう)
索額図、格爾芬、阿爾吉善、蘇爾特、哈什太、薩爾邦阿、杜黙臣、阿進泰、蘇赫陳、倪雅漢、斉世武、托合斉、耿額、鄂繕。
三爺党
三阿哥 胤祉(いんし)
陳夢雷
四爺党
四阿哥 胤禛(いんしん)
胤祥、年羹堯、隆科多、張廷玉、李衛、田文鏡、戴鐸。
八爺党
八阿哥 胤禩(いんし)
胤禟、胤䄉、胤禵、福全、満都護、景熙、呉爾占、蘇努、阿布蘭、佟国維、馬斉、阿霊阿、揆敘、王鴻緒、阿爾松阿、鄂倫岱、何焯、秦道然、張廷枢、普奇、馬爾斉哈、常明、徐元夢、巴海、法海、査弼納、粛永藻、高成齢。
爺=地位の高い男性。老人の意味ではありません。
九王奪嫡をテーマにした物語・ドラマはたくさんあります。
日本で見ることができるドラマをこちらの記事で紹介しています。
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