洪熙帝(こうきてい) 朱高熾(しゅこうし)は明朝の第4代皇帝。
年号から洪熙帝(こうきてい)と呼ばれます。
即位した期間はわずか1年しかありません。
洪熙帝の父・永楽帝の時代には戦争や大規模な遠征を繰り返し、国力が疲弊。独裁が強まっていました。それを見ていた洪熙帝は独裁を緩め、国力を回復させるため父とは逆の政治を行いました。
洪熙帝とその次の宣徳帝の時代をあわせて「仁宣の治」と呼ばれ。明の全盛期とされます。
史実の洪熙帝はどんな人物だったのか紹介します。
洪熙帝の史実
洪熙帝のプロフィール
生年月日:1378年8月16日
没年月日:1425年5月29日
姓 :朱(しゅ)
名称:高熾(こうし)
国:明
地位:燕王世子→皇太子→皇帝
呼称:洪熙帝(こうきてい)
廟号:仁宗(じんそう)
父:永楽帝
母:仁孝文皇后徐氏
正室:誠孝昭皇后張氏
子供:朱瞻基(宣徳帝)ほか
彼は明朝の第4代皇帝です
日本では室町時代になります。
おいたち
洪武11年(1378年)当時、燕王だった朱棣(しゅてい)の長男として生まれました。
若い頃の朱高熾(しゅこうし)、物静かで威厳があり、言葉遣いも良く、弓術も得意で、儒教関係者と話すのが好きな人でした。
洪武28年(1395年)燕王の世子に任命されました。
穏やかな性格と臣下や兵士たちに対する思いやりから祖父の洪武帝 朱元璋に可愛がられました。
脚に持病があり、肥満気味だったこともあって歩くのに不自由したようです。
よく「太り過ぎで歩けない」みたいに書かれることはあります。
話を盛りすぎですね。朱高熾は肥満気味だったようなので脚に脚に負担はあったと思います。永楽帝から「減量しろ」と言われたのも負担を減らす配慮なのでしょう。でも歩きにくい直接の原因は持病のようですね。
体の不自由な人に対して本人の努力が足りないからだと批判する差別的な風潮があったのでしょう。
靖難の変
洪武帝の死後。父・朱棣が建文帝に対して反乱を起こしました。靖難の変の始まりです。
靖難の変では朱高熾は1万の兵を率いて燕王の本拠地・北平(北京)を守りました。脚の不自由な朱高熾は遠征には不向きでした。
そこで弟の朱高煦や朱高燧が父・朱棣と一緒に遠征しました。朱棣は勇猛な朱高煦や朱高燧を可愛がりました。
手柄をたてた朱高煦は父の後継者になろうと野心をもちました。朱高煦は兄の朱高熾を誹謗するようになります。
太子時代
靖難の変で勝った父・朱棣は皇帝に即位(永楽帝)しました。北平を「北京」に改名して都にしました。
永楽元年(1403年)臣下たちは皇太子を決めるように進言しました。でも永楽帝はすぐには決めませんでした。
永楽帝は病弱だった朱高熾が不満でした。武官たちも朱高熾を支持しません。勇敢な漢王・朱高煦を支持しています。でも乱暴な朱高煦は文官には不人気でした。
文官に人気があったのは朱高熾です。初代皇帝・朱元璋が後継者に決めたこと。病弱という以外には朱高熾に問題になる点がなかったこと。そして朱高熾の息子。朱瞻基を永楽帝が気に入っていたこと。武官たちも有能な朱瞻基が将来は皇帝になる。ということで妥協しました。
永楽2年(1404年)4月。朱高熾は「皇太子」になりました。
元の後継者を目指していた永楽帝はモンゴルを支配下におくため。頻繁に遠征を行いました。永楽帝が遠征するときは皇太子の朱高熾が「監国」になって皇帝の代わりに国内の政治を行いました。
明は戦争や災害、飢饉などの被害を受けていました。朱高熾は民衆を救うため役人を派遣。民を愛する政策は高く評価されました。
ところが皇太子になれなかった漢王・朱高煦は不満でした。弟の朱高燧と協力、高熾と永楽帝の仲を裂こうとします。
永楽10年。永楽帝が遠征から帰ったとき。朱高熾の派遣した使者の到着が遅れてしまいました。漢王・朱高煦はこれを厳しく批判、黄淮たち朱高熾の臣下たちが投獄されました。
洪熙帝の時代
永楽22年(1424年)。永楽帝が死去。朱高熾が皇帝に即位しました。洪熙帝の誕生です。
洪熙帝はまず永楽帝時代に投獄された元戸部尚書の夏原吉(かげんきつ)たち釈放しました。夏原吉は財政担当で膨大な資金が必要な遠征に反対して、永楽帝に投獄されていました。
他にも投獄されていた臣下を復帰させ皇帝の独裁を緩めました。
洪熙帝は、監国として国内政治を担当していたときから永楽帝の大規模な遠征には疑問を持っていました。そこで同じ考えをもつ臣下を釈放、即位後は遠征は行いませんでした。西洋取宝船(鄭和の大航海)も廃止しました。
永楽帝は元の後継者を目指して大規模な遠征や航海を繰り返しました。でもそれに必要な膨大な資金、食料は民衆から搾取したものでした。洪熙帝は明の国力では元の真似をするのは無理だと判断したのです。
また、建文帝に仕え永楽帝の即位後に奴隷や官妓にされた人たちを釈放、身分を回復。没収されていた彼らの財産を返しました。
洪熙帝は「法を厳格に運用して罪を罰する」方針を打ち出しました。それまでは法律が恣意的に運用されていたという反省があるからです。囚人を鞭打ったり、宮刑(罪人を去勢すること)を禁止。謀反以外の連座は禁止しました。
南京への遷都を計画
洪熙帝は、北京は万里の長城に近いのでモンゴルの影響を受けやすいと考えました。北京はもともと北方の民族が中国を支配するために首都にしました。永楽帝は逆に北方を支配するための都として北京を選びました。
でも洪熙帝は明の力では北方支配は無理だと思いました。現実に永楽帝は何度もモンゴル遠征を行いましたがモンゴルの支配に失敗しました。元(モンゴル)は滅んだのでなくモンゴル平原に帰っただけですからいつ襲ってくるかわかりません。
そこで洪熙帝は南京への還都を計画しました。鄭和を南京の総督にして、皇太子も南京に派遣。遷都のための準備をはじめました。
ところが、もともと描写下った洪熙帝は即位して1年で死去しました。享年48.
南京への遷都は中止になりました。あとを継いだ宣徳帝は北京を首都にしたまま、北方民族が攻めてきたら耐えしのぎ、こちらからは無理な遠征はしない方針にしました。南京に遷都していたら北京はモンゴルに占領されていたかもしれません。
結果的には宣徳帝のやり方がよかったのです。洪熙帝の弱腰とも思える部分も武官に人気がなかった理由の一つでしょう。でも洪熙帝には「無理をして人々を苦しめている」という思いがあったようです。
洪熙帝は皇帝になったのは1年ですが、洪熙帝は皇帝の独裁を緩め民衆の負担になる遠征や戦争をしませんでした。永楽帝時代に疲弊した国力の回復に専念しました。
「明史」には洪熙帝は人事や政治が優れており、もっと長生きしたら明はさらに栄えただろうと書かれています。
洪熙帝の廟号は「仁宗」と名付けられました。とくに「仁(慈しむ心)」がある。と判断されたからです。
後に洪熙帝と宣徳帝の治世は「仁宣の治」と呼ばれ、明の全盛期だったと言われるます。
テレビドラマ
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