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王継忠(耶律宗信)中国史上最も名誉な裏切り者

宋 4 宋

王継忠(おう・けいちゅう)は北宋の武将。

耶律宗信(やりつ・そうしん)の名前ももっています。

宋の第3代皇帝 真宗に使えました。

ところが王継忠が国境を守っていたとき、契丹との戦争が起こり、捕虜になっていしまいました。

王継忠を気に入った蕭太后と遼聖宗は臣下にしました。そして契丹と宋の和平に貢献しました。

その後は、王継忠は契丹で暮らしました。

王継忠は宋を裏切って契丹の臣下になりましたが、宋真宗は和平の実現に貢献した王継忠を称賛。彼や彼の家族を罰することはありませんでした。

史実の王継忠はどんな人物だったのか紹介します。

 

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王継忠の史実

いつの時代の人?

生年月日:不明
没年月日:1023年

名称:王継忠→耶律顕忠→耶律宗信

国:宋→契丹

父:王珫
母:不明
妻:不明

子供:4人

彼は宋 真宗と遼聖宗に仕えました。

日本では平安時代になります。

 

おいたち

生年は不明。

開封府(現在の河南省開封市)出身。

父の王珫は北宋で武騎指揮使を務める武人でしたが、王継忠が6歳の時に戦死。

王継忠は太宗の第三皇子・趙恒の屋敷で仕えました。実直でおおらかな性格のため趙恒から信頼されました。

真宗 趙恒が即位すると内殿崇班に任命され、鄆州刺史、殿前都虞候になりました。

その後、領雲州観察使などを務めました。

契丹の捕虜になる

咸平6年(統和21年、1003年)。契丹が攻めてきました。

王継忠は宋軍を率いて契丹軍を迎え撃ち、康村で激戦になりました。軍を率いて西の山沿いに北上し、白城に向かいました。契丹軍は王継忠の部隊の守りの弱いところをついて攻撃を仕掛けました。宋からは援軍が来ず、補給路も断たれてしまいました。

生き残った者たちは撤退しようとしましたが、契丹軍の待ち伏せにあってしまいます。王継忠は耶律奴瓜によって捕らえられてしまいました。

宋真宗は王継忠が殉職したものと思い「大同軍節度使」の官位を与え王継忠の子供に官職を与えました。

契丹と宋の和平に貢献

聖宗の母・蕭太后は王継忠が有能で信用できる人物と判断。臣下にしようと思いました。王継忠は蕭太后から授戸部使の地位を与えられました。

王継忠は蕭太后に契丹と宋の和睦を提案。

蕭太后は契丹も宋もお互いを滅ぼすことは無理、このまま戦っても消耗するだけだと思っていました。どこかで戦争を止めないといけません。でもそのためにはできるだけ有利な条件で和睦に持ち込みたいと思っていました。

王継忠に宗真宗 趙恒あてに手紙を書くように命令。その手紙を受け取った宋真宗は王継忠が生きていることを知りました。でも宋真宗は契丹が和睦を望んているとは信じませんでした。

そこで蕭太后は宋に契丹の力を見せつけてその後で有利な条件で和睦しようと考えます。

1004年。遼聖宗と蕭太后は大軍で宋に攻め込みました。

驚いた宋真宗からは和平の使者がやって来ました。

王継忠は遼聖宗から宋との和平交渉に尽くすように命じられました。宋の朝廷内には契丹との和睦に反対する者もいましたが。宋真宗はなんとしても契丹と和睦したかったので王継忠に和平を実現させるように連絡をとりました。

そうして何度かやり取りがあったあと和平が成立。「澶淵の盟」が結ばれました。聖宗も蕭太后も満足できる内容でした。宋真宗もほっとしました。

王継忠はこのときすでに遼聖宗から官位を与えられており宋も無理に引き戻すことはしませんでした。

王継忠はその功績で遼聖宗から30戸の領地を与えられました。王継忠は遼聖宗から信頼され左武衛上将軍に任命されました。

その後。毎年、宋から契丹に金銭や貢物(歳弊)が届けられるようになりました。また歳弊とは別に王継忠のもとにも贈り物が届けられました。宋の使者を見る度に王継忠は泣いたといいます。

王継忠は宋に妻子がいて戻りたいと思いました。

ところが「澶淵の盟」では罪人が国境を超えて逃亡してきた場合は国に送り返す。という条約がありました。また、王継忠は契丹皇帝から官位をもらっているので契丹の人間です。国境を勝手に超えて宋に戻ることは許されないのです。

宗真宗は契丹と和睦したので事を荒立てたくありません。宗真宗は契丹皇帝から気に入られている王継忠の帰国を認めようとはしませんでした。

宗真宗としては宋に残った王継忠の妻子の罪は問わない代わりに、両国の平和のために王継忠は契丹に残ってくれ。という思いだったでしょう。

 

契丹で余生をおくる

開泰2年(1013年)。中京留守(中京の防衛責任者)、検校太師になりました。

開泰5年(1016年)。漢人行宮都部署に任命され「琅邪郡王」の爵位を与えられました。

契丹と国交を断絶して宋と国交を回復した高麗に対して聖宗は高麗攻めを決定。
この戦いでは北院枢密氏 蕭合卓が都統。王継忠は副都統。
契丹軍の副将を務めました。

開泰6年(1017年)。「楚王」になりました。「耶律」姓を与えられ名前を「耶律顕忠」に変えました。後に「耶律宗信」に変えています。

帰京。枢密使になりました。

太平3年(1023年)。死去。

遼聖宗と宋真宗は王継忠の死を悲しみ。宋真宗は王継忠の子孫を優遇しました。

 

中国史では国を裏切って他国(特に異民族)の臣下になったら散々に叩かれて悪人よばわりされます。でも王継忠は契丹の臣下になっても宋に尽くした人物として称賛されました。契丹と宋の和平に尽力してその後も両国の友好に貢献した人物とされています。

 

テレビドラマ

燕雲台 2020年、中国 演:沈雪煒
大宋宮詞 2021年、中国 演:葉新宇

 

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