翁歸靡(おうきび)は紀元前1世紀ごろの烏孫(うそん)の国王。
いとこの軍須靡(ぐんすび)から烏孫王の座を受け継ぎました。
前漢から嫁いできた和親公主・劉解憂とも良い関係を築き3男2女がいました。
翁歸靡は先代からの方針を変更して前漢との同盟を続け、匈奴と戦いました。その結果、匈奴の支配を抜け出して。烏孫を西域での有力国にしました。
史実の翁歸靡はどんな人物だったのか紹介します。
翁歸靡の史実
生年月日:不明
没年月日:紀元前60年
名称:翁歸靡(おうきび)
国:烏孫
地位:→昆彌(王)
称号:肥王
祖父:獵驕靡
父:
母:
妻:
左夫人・匈奴公主
子供:烏就屠(小烏孫王)
右夫人・劉解憂
子供:
烏孫昆彌・元貴靡(大烏孫王)
莎車王・萬年
左大将・大楽
弟史
素光
彼女はです
日本では弥生時代になります。
翁歸靡(おうきび)は烏孫の王族。「肥王」の称号を名乗っていました。
烏孫王の軍須靡(ぐんすび)の従兄弟です。
紀元前1世紀ごろ。烏孫王の軍須靡が死去。軍須靡の息子・泥靡(でいび)はまだ幼かったので翁歸靡が烏孫の昆莫になりました。烏孫では王の称号は昆莫といいます。
泥靡が成長したら王位を泥靡に譲るという約束でした。
解憂と結婚
翁歸靡が烏孫王になる前のことです。
烏孫王の軍須靡(ぐんすび)は自分が高齢なのを理由に翁歸靡が解憂と結婚するように言いました。前漢から来た解憂公主は軍須靡と結婚・右夫人になっていました。
遊牧民社会では王が死ぬとその妻と次の王が結婚する習慣があります。遊牧民にとって結婚は「部族と部族の同盟」の意味があるので。前の王が死んだからといって同盟をやめるわけにはいきません。そこで新しい王が前の王の妻と結婚するのです。
軍須靡は匈奴から来た左夫人の匈奴公主(名前は不明)と前漢からきた右夫人の解憂公主と結婚していました。
翁歸靡も左夫人と右夫人と結婚しました。
しかし翁歸靡は匈奴公主よりも解憂公主の影響を強く受けたようです。
漢と同盟して匈奴と対決
軍須靡の代までは烏孫は匈奴と前漢の両方と同盟して生き残ろうとしていました。しかし匈奴は烏孫が前漢から公主を娶ったのを知ると烏孫に圧力をかけてくるようになっていました。
翁歸靡は前漢と同盟して匈奴とは縁を切ろうとしました。
紀元前70年代はじめ。匈奴が烏孫が前漢との関係を深めようとしているのを知ると、匈奴は4千の兵で攻めてきました。匈奴はまずオアシス都市国家の車師(しゃし)をせめました。車師は匈奴に降伏。匈奴は車師の兵を吸収して烏孫に攻めてきました。
しかし翁歸靡は匈奴が車師と戦っている間に前漢の昭帝・劉弗に使者を送り、援軍を送るように要請しました。前漢は援軍を送り匈奴を攻めようとししました昭帝が死去。遠征は中止になりました。
あてにしていた漢軍が出兵しなかったので、翁歸靡は苦しい立場になってしまいました。東の国境を接する車師は匈奴に降伏しました。烏孫国内の匈奴支持派も勢いづいてきました。
しかし翁歸靡は5万の選りすぐりの兵で軍を組織して匈奴に抵抗しました。
再び前漢に使者を送り、新しく即位した宣帝・劉恂に援軍を出すように要請しました。前漢は15万の大軍で匈奴を攻めました。同時に常恵を烏孫に派遣。
翁歸靡は常恵の率いる漢軍とともに匈奴を攻撃。匈奴を撃退。烏孫と漢の連合軍は処理しました。
敗北した匈奴は烏孫を恨みました。その年の冬。匈奴は1万の兵で烏孫の村を襲撃しました。烏孫の人々は捕虜になりました。匈奴兵が撤退しようとすると大雪になり匈奴の兵や馬も凍死。匈奴は大きなダメージを受けます。弱体化した匈奴からは次々と部族がはなれていき漢に降伏する者が増えました。
西域での匈奴の影響力が弱まり、漢の支配力は高まります。烏孫は漢との同盟をつづけ西域でも有力な国になりました。
西域の有力国になる
翁歸靡の時代。烏孫は経済的にも発展。翁歸靡の名声も高まりました。
タリム盆地の亀茲や莎車王国も前漢との関係を深めようとして烏孫と友好関係を築こうとしました。
翁歸靡は、莎車王国には次男の万年を養子に送り込んで莎車王にしました。
亀茲王には娘の弟史を嫁がせました。翁歸靡の時代、烏孫が中心になって西域を安定させました。
紀元前60年。翁歸靡は病死。
軍須靡の息子・泥靡(でいび)が烏孫王になりました。
翁歸靡の死後におきた内乱
しかし烏孫国内では泥靡に従わないものもいて内乱状態になってしまいます。翁歸靡の息子・烏就屠が泥靡を殺害。漢王朝とつながりのある馮嫽夫人の働きで前漢が烏孫の争いに介入。
その結果、元貴靡が大烏孫王になり、烏就屠が小烏孫王になりました。
翁歸靡の息子が烏孫の王になりました。
テレビドラマ
解憂 2016年、中国 演:袁弘 役名:翁歸
コメント