ドラマ『朱蒙』『風の国』に登場する扶余(プヨ)は、本当にあのような「北方の強国」だったのでしょうか。
扶余(プヨ)はドラマだけの架空の国ではなく、満州一帯に勢力を張った豊かな農牧国家として歴史書に登場します。高句麗や百済の王家はその系譜を名乗り王権に重みを持たせました。
この記事ではドラマで描かれた世界観から一歩踏み込み、歴史書をもとに実在した古代王国・扶余(ふよ/プヨ)の歴史と高句麗・百済とのつながりをわかりやすく解説します。
この記事で分かること
- 扶余が満州北部に成立した農牧国家であり、交易拠点として栄えた理由
- 王と「四加」を中心とした扶余の政治体制と社会構造
- 高句麗・百済が扶余を自らの源流と語った背景と「扶余ブランド」の意味
- 史書に見る扶余の姿と、神話やドラマと史実の違い
扶余(夫余/プヨ)とは?
扶余(ふよ/夫余・プヨ)は現在の中国東北部・満州一帯に存在したとされる古代王国です。
古代の北東アジアの諸勢力の中でも格式の高い国と見なされ、高句麗や百済の王家は自らを「扶余の後継」と位置づけて王統の正統性を主張していました。
韓国ドラマ『朱蒙(チュモン)』『風の国』では
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主人公たちの故郷
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ときには宿敵でもあり
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高句麗建国神話を語るうえで欠かせない舞台
として登場します。
ドラマの中では「高句麗の前にあった強国」として描かれますが、史実の扶余もそのイメージに近い有力な王国でした。
扶余はどこにあった? 満州の「中継地」としてのプヨ
扶余の所在地はおおよそ現在の中国・吉林省から黒竜江省南部にかけてと推定されています。
高句麗や古朝鮮(衛氏朝鮮)があった地域よりも、やや北寄り・内陸寄りの位置です。

夫余の位置を示した図
地図でイメージすると、
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南:楽浪郡・玄菟郡、高句麗、古朝鮮系の勢力
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西:燕・秦・漢の「遼東郡」
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北・東:烏桓・東胡、粛慎・勿吉(のちの女真系)
といった勢力にはさまれた位置で、北方の草原地帯と南の農耕地帯と漢の勢力圏を結ぶ「中継地」のポジションにありました。
そのため、扶余には
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名馬・毛皮などの北方産品
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穀物や鉄製品などの南方・中原の産物
が集まり交易の拠点として栄えます。
中国の史書は扶余を、
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「方二千里」(かなり広い領域)
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「戸八万」
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「その国殷富なり」
と記しており「辺境の小国」ではなく農業と牧畜が発達した豊かな王国として描いています。
東扶余・北扶余など、名前と系統
史料には「扶余」のほかに、東扶余・北扶余といった呼び分けも登場します。これは
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共通のルーツを持つ「扶余系」の集団が、時代や場所によって分岐した
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似た文化・習俗を持つ勢力を、中国側がまとめて「扶余」と呼んだ
といった可能性があり、「扶余系」の伝統を持つ勢力が北東アジア広域に分布していたことを示していると考えられます。
その「扶余系」の伝統を自分たちのルーツとして積極的に利用したのが、高句麗や百済の支配層です。
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高句麗の始祖・朱蒙が扶余出身とされる
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百済の王家が「夫余氏」を名乗り、国号を「南扶余」としたと伝えられる
これらは「扶余の後継者」を名乗ることで王権に箔をつけようとした政治的演出とかんがえることがきます。
扶余の歴史を歴史書から探るとどうなるか?
扶余や高句麗の話になると、まず思い浮かぶのは『三国史記』『三国遺事』、そしてそれをもとにしたドラマ『朱蒙』に登場する
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ヘモス(解慕漱)
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ヘブル(解夫婁)
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クムワ(金蛙)
といった人物たちの物語だと思います。
ただ、これらは高句麗建国神話の一部として語られている部分で、神話的な要素(神懸かりの誕生、超人的な能力、象徴的な人名)が非常に強いです。ここから「いつ・どこで・どんな国があったのか」という具体的な扶余の歴史を復元するには向きません。
さらにやっかいなのは、
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扶余人自身が残した文字史料は見つかっていない
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扶余についてまとまった形で書かれた記録は
『史記』『漢書』『後漢書』『三国志』『晋書』など、中国側の史書だけ
という現状です。
ですので、この記事ではいったん、
ドラマや『三国史記』の世界観から少し離れ、
中国正史に記された扶余の姿を基準にして、史実側の扶余像を整理する
という方針をとります。
そのうえで、
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『三国史記』の朱蒙伝説
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扶余建国神話(東明伝説)
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好太王碑の「出自北扶余」
といった話が、「扶余ブランド」をどう利用しているのかを後半で見ていきます。
史料からわかる扶余の歴史
中国正史:北東アジアの有力国としての扶余
『漢書』『後漢書』『魏志東夷伝』『晋書』などの中国正史には、扶余が何度も顔を出します。そこでは、おおむね次のように描かれます。
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北東アジアで長く存続した安定した王国
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農業と牧畜が発達し、「その国殷富なり」と評される
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騎馬と弓に長けた勇猛な民
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東漢とたびたび使節を往来させる「重要な周辺勢力」
また、扶余の社会について、
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礼儀や誓いを重んじる
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臆病者や逃亡兵には非常に厳罰を科す
といった道徳規範の厳しい国というイメージも語られます。
もちろん、これらはあくまで「中国から見た扶余像」であり、そのまま100%信じることはできません。
それでも、
として意識されていたことは確かです。
いつ滅んだ? 空白だらけの扶余史
扶余の難しさの一つが、「いつ滅んだのか」がきれいに揃わない点です。
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『三国史記』系伝承では、扶余王・帯素王(テソ)が高句麗との戦いで戦死した話が有名
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一方、中国史書では5世紀末ごろまで「扶余」という国名が登場する
など、史料間でズレがあります。
よくイメージされるのは、
という姿です。
ドラマのように
「ある年のある戦いで、バッサリ滅亡」
というより、
いつの間にか力を失い、静かに歴史の表舞台から消えていった
と考えた方が、史料の状態には近いかもしれません。
扶余の政治体制:王と「四加」が支える国
北扶余・東扶余の時期、扶余では王位は基本的に世襲制+嫡長子相続でした。
ただし、長子がふさわしくない場合には、重臣たちが協議し、嫡出の次男や庶子の中から新しい王を推すことができたとされています。
「血筋」は重視しつつも、
完全な独裁ではなく、重臣たちに“王を選び直す”権限があった
というイメージです。
王の下には、国を四つの方面に分けて統括する有力貴族がいて、史料では
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馬加(マガ)
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牛加(ウガ)
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豬加(チョガ)
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狗加(クガ)
と呼ばれます。
いずれも部族長クラスの首長で、単なる地方官ではなく国政の重要事項を議論する権限も持っていました。
王と四加のもとには、
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大使・大使者
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使者(対外使節・宮中の使者)
といった官僚層がつき、外交や宮廷の実務を担当します。
その下にはさらに、
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豪民 … 氏族首領クラスの有力者
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下戸 … 一般の民(農民・庶民)
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奴婢 … 奴隷身分
という身分秩序があったとされます。
扶余の下戸層には、濊(わい)や挹婁(ゆうろう)などの諸集団も多く含まれており、彼らは扶余に従属する形で、穀物や毛皮などの貢納品を納めていました。
しかし3世紀になると、苛酷な徴発に耐えきれず挹婁などが反乱を起こし、扶余は討伐を試みるものの、完全な服属は得られなかったと記録されています。
この三つの階層の人々が扶余という王国を支えていた、とイメージすると分かりやすいと思います。
扶余の社会と暮らし:農牧国家とシャーマニズム
扶余の経済の基本は、農業と畜牧業でした。
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田畑を耕して穀物を作る
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牛や馬などの家畜を多く飼う
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狩猟はあくまで補助的
という、「畑+家畜+狩り」を組み合わせた生活です。
中国史書は、扶余の特産として、
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よく肥えた名馬
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赤い玉(赤玉)
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大きな真珠
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貂(テン)の毛皮
などを挙げており、これらは周辺諸国との重要な交易品でした。
ドラマに出てくる「北方の騎馬民族的なプヨ」のイメージは、このあたりの描写とも重なります。
同じ穢(わい)系諸民族の多くがほぼ農業一本だったのに対し、扶余は
農耕と牧畜を組み合わせた「農牧国家」
であった点が特徴的です。
そのぶん、農業の成否は王の権威と直結していました。
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凶作が続くと、「王の神聖さが失われた」とみなされる
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場合によっては、王が廃位されたり、最悪の場合は殺される
といった話も残っています。
これは、扶余社会において王が
単なる政治家ではなく、「豊穣をもたらす存在」としての宗教的役割も背負っていた
ことを物語っています。
社会全体には巫術(シャーマニズム)が色濃く残っており、とくに戦争の前には天を祀って吉凶を占う儀式が行われました。
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牛を屠り、その蹄の状態を見て吉凶を判断する
(蹄がきれいに揃っていれば吉兆)
という独特の占い方法も記録されています。
また、毎年旧暦12月には「迎鼓祭」と呼ばれる大きな祭礼が行われました。
秋の収穫を祝う性格の強い祭りと考えられ、
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人々は酒を飲み、歌い、踊って一年の終わりを祝う
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支配者はこの機会に罪人を赦免する
という、宗教儀礼と社会的イベントが一体になった行事でした。
扶余と高句麗:朱蒙・帯素王をめぐる関係
朱蒙は扶余から出た? 建国伝承の意味
『三国史記』によれば、朱蒙はもともと扶余王家のもとで育ち、やがて命を狙われて南へ逃れ、新しい国・高句麗を建てたとされます。
この物語は、
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「追放された王子が新天地で王国を建てる」という王道パターン
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高句麗王家に「古くから続く扶余の血筋」という格を与えるレトリック
として働いていました。
史実としてどこまで正確かはともかく、
高句麗の人びとが、自らを「扶余の後継者」とみなしていた
ことを示す重要なヒントです。
帯素王戦死の物語と世代交代
同じく『三国史記』には、扶余王・帯素王(テソ)が高句麗との戦争で戦死したという話も出てきます。ドラマ『風の国』で描かれるテソ王の最期はこの伝承を踏まえたものです。
このエピソードは、
かつて北東アジアをリードした扶余から、
高句麗へと主導権が移っていく「世代交代」の象徴
として受け止められてきました。
もちろん、細部は神話・脚色が多く、そのまま歴史的事実とするのは難しいのですが、
「かつての強国・扶余」と「後から台頭した新興勢力・高句麗」の交代劇
という流れを物語の形で表現したものと見ることもできます。
「扶余ブランド」は大人気
史書を眺めていると、
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高麗 … 国名からして「高句麗の後継」を名乗る
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渤海 … 高句麗遺民を受け入れ、「海東の盛国」として高句麗の記憶を継承
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百済 … 一時期、国号を「南扶余」としたと伝えられる
など、「過去の大国の名前や血統を意識的に使っている」例がいくつも見つかります。
これと同じように、
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扶余は、早い時期から中国正史に登場
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農牧国家として豊か
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騎馬・農耕・交易をこなす北東アジアの有力勢力
- ときには漢とも戦った強国
というイメージが積み重なることで、周辺諸国にとって
「あの扶余の血を継いでいる」と名乗れば、王家の格がワンランク上がる
そんな政治的ブランドになっていた可能性があります。
高句麗の始祖・朱蒙が扶余出身と語られるのも、百済王家が自らを扶余氏と位置づけるのも、
本当にそうだったのかどうかは別として、
「扶余の後継=歴史ある大国の系譜に連なる王家」
というイメージを利用したかった、という政治的思惑が透けて見えます。
ドラマ『朱蒙』『風の国』で描かれる「扶余王家のプライド」も、こうした扶余ブランドの歴史的イメージを踏まえて見ると、単なる作り話以上の重みを帯びて感じられます。
日本人と扶余:騎馬民族征服王朝説という“昔話”
日本人にとって扶余(夫余)という名前が急に身近になるきっかけのひとつが、かつて流行した「騎馬民族征服王朝説」です。
ざっくり言うと
「日本列島の古代国家(ヤマト王権)は、北方からやってきた騎馬民族が倭人を征服して作ったのではないか。そのルーツは扶余や高句麗など、満州・朝鮮半島北部の王侯貴族に求められるのでは?」
(騎馬民族征服王朝説)
という仮説です。
東大名誉教授の江上波夫が主張したこともあって、1960〜70年代ごろに日本で大きな話題になり、「日本の天皇家は扶余系の騎馬民族の末裔?」といった刺激的なフレーズで紹介されました。団塊世代以上のオジサマたちには絶大な人気を誇ったストーリーです。
ただし
- 江上説を持ち出さなくても古墳時代の変化は説明できる。
- 考古学的・文化的に日本に騎馬民族がいた痕跡がない。
- 飛びついたのはマスコミや作家、専門外の有識者が多かった。
- そもそも学会内に否定的な意見が多かった。
とはいえ、
-
「北方の騎馬民族」
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「扶余や高句麗の王族が海を渡ってきた」
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「日本の皇室は大陸・半島のどこかとつながっているのでは?」
といったイメージは今でも一般向けの本やネット記事で繰り返し語られます。正直、フェイクニュースと変わらない内容ですが。扶余と日本人を結びつける“物語”としての魅力があるのかこのような噂話はなくなりません。
話し出すと長くなるのでこの記事では
「騎馬民族征服王朝説」= かつて人気だったが、今は否定されている過去の遺物
という位置づけを軽く紹介するだけにとどめます。
扶余を知ると『朱蒙』がもっと面白くなる(まとめ)
扶余という国は、史料も少なく謎も多い存在です。それでも、ここまで見てきたように、
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北東アジアで長く存続した有力王国であり、漢からも一目置かれていたこと
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高句麗や百済の王家が自分たち「扶余の後継」と位置づけて王権を正当化したこと
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朱蒙や帯素王の物語が史実と作り話が混ざった「扶余―高句麗関係の神話」であること
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農牧国家としての豊かさとシャーマニズムや厳しい道徳観をあわせ持つ独特の社会だったこと
といったポイントを押さえておくと、ドラマの見え方が大きく変わってきます。
クムワやテソの決断、朱蒙の出自の重さ、高句麗建国の意味がドラマの都合というだけでなく、
「北東アジアの権威とブランドをめぐる物語」
と理解すると。なぜあそこまで熱くなっているのかが分かると思います。
扶余という高句麗の先輩に当たる古代王国”を頭の片隅に置きながら、『朱蒙』や『風の国』を見直してみると、同じシーンでも感じ方がガラッと変わってくると思います。
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