龐籍(ろう・せき)は宋(北宋)時代の政治家。
仁宗時代に地方の役人から出世して宰相になりました。
中国の演劇・小説・ドラマでよく出てくる「龐太師」のモデルとも言われます。
龐太師とは宋朝時代の名裁判官・包拯の物語で悪役として登場する重臣です。
でもドラマの龐太師と違って龐籍は極悪人ではありません。それなりに実績も残しています。
史実の龐籍(ろう・せき)はどんな人物だったのか紹介します。
龐籍の史実
いつの時代の人?
生年月日:988年
没年月日:1063年4月7日
姓 :龐(ろう)氏
名称:籍(せき)不明
国:宋(北宋)
地位:宰相
父:龐格
日本では平安時代になります。
おいたち
988年誕生。單州成武(現在の中国山東省成武県伯楽鎮龐楼村)の出身。
父は國子監博士の龐格。
大中祥符8年(1015年)。科挙の進士に合格。
黄州(湖北黄岡)の司理参軍に任命され。後に開封府兵曹参軍になりました。
黄州にいたころ。龐籍(ろう・せき)は夏竦(か・しょう)の下で働いていました。夏竦は龐籍を高く評価していました。ある時、龐籍が重い病気にかかってもう治らないだろうと思っていました。すると夏竦は「あなたは死なない、宰相になれるから心配ない」と言って励ましました。
後に龐籍は本当に宰相になります。
天聖5年(1027年)。朝廷で「天聖編敕」の編纂準備が進められ、龐基は刑部に任命されました。
龐籍は「臣下は国が育てた馬を使用できないと規定されていたが、これは武装装備を重視するからです(車のない時代、馬は乗り物や軍の装備品です)。ところが今では気まぐれな樞密院が甲冑付きの馬を内侍の楊懷敏に何度も貸し出しています。臣下が上申しても陛下は直接見ずに中書、樞密院に送るだけです。近頃は詔書が増えていて私的な要求が増えています。」と訴えました。
天子御史
景祐3年(1036年)。侍御史になりました。
章献明粛皇后 劉氏は遺言で仁宗に「章恵太后 楊氏に国事と軍事を相談するように」と残していましたが。龐籍は章献明粛皇后の遺言を焼いてしまうように言いました。
そして「陛下は国政に責任をお持ちですから、その才能で悪と正義を見分け悪い取り巻きを防ぎ、自分に近い大臣を登用して宰相だけに任せず、皆の意見に耳を傾けるべきです」とも言いました。
仁宗はすでに26歳。皇太后の補佐が必要な年齢ではありません。君主としての自覚を持って後宮や一部の宰相に頼るのではなく皆の意見を聞いて判断するように進言しました。
孔道輔は「発言したほとんどの臣下は宰相の顔色を見ていた。だが龐籍はそうではない。天子御史だ」と評価しました。
後宮の介入に抵抗
龐籍が開封府の判官をしていたとき。仁宗の側室の尚美人を潮位愛していました。仁宗はとしばしば尚美人の派閥に所属する内侍(宦官)を開封府に派遣。開封府の行政に注文をつけてきました。このとき龐籍は尚美人が独断で開封府の行政に介入していると考え、皇帝に「先祖依頼、美人が行政府に命令を出すことはありません。内侍を杖刑にしてください」と進言。
范諷に弾劾を起こしました。范諷は宰相の李迪と仲がよく「龐籍の言ってることは嘘だ」と訴え、逆に龐籍が左遷されて、広南東路轉運使に異動になりました。それでも龐籍は追放された後も、龐基は范蠡を弾劾し続けました。
後宮の行政への介入を阻止しようとしましたが、最終的には宰相と対立して左遷されてしまいます。
タングート(大夏)から国境を守る
寶元元年(1038年)。タングートの李元昊が「大夏(西夏)」を建国。北宋の国境に攻めてきました。
慶曆元年(1041年)。龐籍は龍圖閣(文書を保管する施設)の学士になって延州(今陝西西安)に向かいました。
慶曆2年(1042年)。延州観察使に任命されましたが龐籍は辞職。左諫議大夫になりました。龐籍は砦を築き、田畑を耕作する人を募集。厳重な軍規を決めて防衛を強化しました。国境付近を守りました。
宋と夏の和睦が成立すると、都に呼び戻されて副枢密顧問官を務めました。
宰相になる
皇祐3年(1051年)。龐籍は中書門下平章事(宰相)に任命されました。
皇祐5年(1053年)。龐籍の甥で道士をしていた趙清貺は皇甫淵から賄賂を受け取りました。趙清貺は杖刑になり辺境に送られましたが、途中で死亡しました。
翌年。龐籍は宰相を解任され。戸部侍郎に任命。鄆州(山東東平県)に異動になりました。
晩年
嘉祐2年(1057年)。仁宗は病がちになって朝廷に出てくることが減り、仁宗は後宮に籠もり丹薬(道教の薬)を服用していました。大臣たちは不安になります。
そこで龐籍は「早く皇太子を決めてください」と訴えました。
西夏との戦いで武将の武戡たちが討たれ宋軍が敗退。龐籍は観文殿大学士、戸部侍郎になって青州に赴任しました。尚書左丞にはなりましたが、実際に働き場所は与えられず、定州に戻されました。
嘉祐5年(1060年)。龐籍は都に戻ってきました。
72歳になった龐籍は、朝廷に戻るには年を取りすぎていたので、朝廷に引退を願い出る手紙を出しました。朝廷は引退を認め「太子太保」の名誉称号と「潁國公」の爵位を与えました。
嘉佑8年(1063年)。死亡。享年76歳。
死後、司空、侍中の位が与えられました。
評判が下がってしまう
宋書によれば。
龐籍は法律に詳しく能力の高い役人でした。軍隊を指揮させても兵士たちに厳しい規律を守らせ、軍隊内で犯罪を犯した者は切り捨てたり鞭で打ち殺して兵士たちに恐れられていました。おかげで彼の軍は規律が守られていました。
龐籍は初めのころは民衆を大切にする役人でした。宰相になると郡を治めていた時よりも評判は落ちて低くなった。と書かれています。
また韓琦、范仲などと親しくし、司馬光、狄青など若くて有能な人材を発掘しました。
仁宗時代の朝廷でも派閥争いがありました。それほど重大な罪ではないのに地方に跳ばされり、晩年の評価が低いのは対立する派閥が政権を取っていたことと。遠慮せず意見を言うので仁宗からは鬱陶しがられていた(でも西夏から宋を守ったのは龐籍だと評価しています)からのようです。
龐太師のモデル?
包青天再起風雲 2019年、中国 演:李成昌 役名:龐籍
高潔なあなた 2021年、中国 演:宗峰岩 役名:龐太師、龐吉
様々な小説・演劇やテレビドラマで包拯(ほう じょう)の敵として龐太師という人物がでてきます。龐太師(龐吉)のモデルは一般には姓が同じ龐籍(ろう せき)とされています。
でも龐籍は太師にはなってません。
物語では龐太師の家族は仁宋の妃になっていますが。龐籍には妃になるような親戚はいません。
確かに龐籍もいいところばかりではありませんが、ドラマや物語で描かれるほど極悪人ではありません。
姓が「龐」ということと。宰相を解任されて晩年を地方で暮らしたので、龐籍が悪事を働いたことにされているのでしょう。
龐籍は龐太師のイメージとは違うというので、中国の歴史ファンの間では仁宗皇帝の文成皇后の叔父・張堯佐がモデルではないかという意見もあります。
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