遼景宗 耶律 明扆(やりつ・めいい)は大契丹国(遼)の第5代皇帝。
劉賢(りゅう・けん)という漢名ももっているので中華圏では耶律賢(やりつ・けん)と言われることもあります。
父は3代皇帝世宗でした。ところが反乱で命を失いました。その後、一族の穆宗が皇帝になりましたが評判が悪く。臣下たちの中には耶律 明扆を皇帝にしようという動きがありました。
穆宗は暗殺され。明扆が皇帝(景宗)になります。
景宗 は政敵であっても粛清を行わず、刑罰も軽くして寛容な政治をこころがけました。農耕や畜産を盛んにして生産力を上げたり、有能な人材の採用にも熱心でした。
次の聖宗の時代に契丹国が大きく発展しますが、それができたのも景宗の地道な取り組みがあったからです。
史実の遼景宗 耶律 明扆はどんな人物だったのか紹介します。
遼景宗 耶律明扆 の史実
いつの時代の人?
生年月日:948年9月1日
没年月日:982年10月13日
姓名:耶律明扆(やりつ・めいい)
漢名:劉賢(りゅう・けん)
国:大契丹国(遼)
地位:皇帝
称号:孝成皇帝
廟号:景宗
在位:969~982年
父: 世宗 耶律兀欲(やりつ・こつよく)
母:懐節蕭皇后
妻:睿智蕭皇后
渤海妃
子供:
耶律 文殊奴(隆緒、聖宗)
耶律 普賢奴(隆慶、秦晋王、皇太弟)
耶律 普徳奴(隆裕、斉王)
耶律 薬師奴(早逝)
耶律 観音女(秦晋国大長公主、蕭継先の妻)
耶律 長寿女(衛国公主、蕭排押の妻)
耶律 延寿女(越国公主、蕭恒徳の妻)
耶律 淑哥(盧俊の妻)
彼は大契丹国(遼)の第5代皇帝です。
日本では平安時代になります。
おいたち
明扆(めいい)は948年(天禄2年7月25日)に誕生。
父は契丹国の第3代皇帝 世宗 兀欲(こつよく)
世宗は部族の集まりだった契丹を中央集権型の帝国に改革。中華王朝式の制度を採用しました。ところが契丹人の保守派の中には快く思わないものもいました。
母は懐節蕭皇后(かいせつしょうこうごう)
明扆は次男でした。
漢名(中国式の名前)は 劉賢(りゅう・けん)
951年(天禄5年)。父の世宗 兀欲が祥古山(フフホト)にいたとき反乱が起こりました。一族の察割によって殺害されます。翌日、母も殺害されました。
明扆(めいい)は薪の山に隠れていて無事でした。
従兄弟の述律(やりつ・じゅつりつ)が第4代皇帝 穆宗として即位しました。
明扆は永興宮で育てられ、後に望雲川(河北省赤城北)の屋敷で暮らしました。
穆宗は酒が好きで遊んで政治を怠り、むやみに拷問していました。
明扆が成長すると、大臣たちは世宗の子・明扆に王位を継がせようと相談するようになりました。でも隠れて行っていたので穆宗には気づかれませんでした。
あるとき、韓匡嗣は明扆に皇位継承のことを話しましたが、明扆は無理だと思って拒否。韓匡嗣はそれ以来話題にしませんでした。
969年(応暦19年)。穆宗が侍従に暗殺されました。
明扆は女里、蕭思温、高勳たちと宮殿に入りました。
翌月。明扆は契丹人と漢人の大臣たちに担がれ皇帝に即位しました。契丹国(遼)5代皇帝 景宗の誕生です。
以後。契丹国の皇帝の座は突欲(太祖・阿保機の長男)の家系が独占するkとになります。
景宗の時代
景宗は政敵には寛容でした。
契丹国(遼)は建国以来、一族の中で争いが続き激しい対立がおきていました。そうした一族や重臣たちの対立を和らげるために。政敵をむやみに粛清したりしませんでした。
それまで契丹の刑罰は重かったのですが、刑罰を軽くしました。疑いがあるというだけでは罰したりはせず。
耶律屋質、耶律賢適、高勳、郭襲、耶律休哥、耶律沙、韓匡嗣などの優れた人材を採用しました。後に蕭太后・聖宗時代を支える人たちになります。
契丹人が主要な役職を独占していまいたが、漢人を重要な役職につけて中華王朝の統治方法を学び、皇帝の権限や組織を強化。中央集権化を進めました。
賞罰をはっきりさせる一方で、些細なことで罰したりはしなかったので役人たちは景宗の行う改革に意欲的に取り組みました。
また民と一緒に休憩をとって意見を聞いたりしました。
こうして内政は安定し、農耕や畜産が盛んになりました。力をつけた契丹は北宋との戦いで優位に立つことができるようになりました。
外交面では北漢と同盟を結びました。
宋との戦い
2代 太宗 堯骨(ぎょうこつ)の時代。936年に契丹は後晋と同盟を結び、援助する代償として燕雲十六州を譲り受けていました。それ以来、中原の有力な国は燕雲十六州を狙っていました。
北宋建国後。979年。宋太宗 趙炅は北漢を滅ぼし中原をほぼ統一。北宋軍はその勢いで燕雲十六州を手に入れようと攻めてきました。
将軍の耶律沙、耶律休哥たちが北宋軍を撃退。宋太宗 趙炅は負傷して牛車に乗って逃走しました。高梁河の戦いでも北宋軍を破り北宋軍は撤退しました。
翌年の980年(乾亨2年)。景宗は北宋の満城、雁門を攻撃させました。しかし失敗。その結果に怒った景宗は10月に自ら大軍を率いて北宋に攻め込みました。
11月。瓦橋関の戦いで北宋軍を破り多くの兵を討ち取り数名の将軍を捕虜にしました。11月17日。遼景宗は都に戻りました。
病に倒れ皇后 蕭綽が摂政になる
しかし景宗はもともとあまり体が丈夫ではなく、病気で寝込むようになりました。
そこで皇后の蕭綽(蕭燕燕)が皇帝の代わりに政治を行うようになりました。政治や軍事の主要な事柄は皇后の蕭綽が決定したといわれます。
982年(乾亨4年)。景宗は病が悪化。雲州(山西省大同市)で崩御しましたた。
享年34。
景宗と蕭綽の子・聖宗 文殊奴(もんじゅど)が次の皇帝になりました。
テレビドラマ
燕雲台 2020年、中国 演:經超 役名:耶律賢
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