固倫和敬公主は清朝の第代皇帝・乾隆帝の娘。
母は孝賢純皇后 富察氏です。
乾隆帝にとっては三女になるので「三公主」と呼ばれていました。
ドラマ「如懿伝」では「愛新覚羅・璟瑟(けいしつ)」の名前で登場します。
乾隆帝には多くの娘がいました。その中でもとくに溺愛されていた娘です。
固倫和敬公主はモンゴルの王子セプテン・バルジュルと結婚しました。ところが乾隆帝は娘がモンゴルに行ってしまうのが寂しくてずっと北京で暮らさせました。
史実の固倫和敬公主はどんな人物だったのか紹介します。
固倫和敬公主 の史実
いつの時代の人?
生年月日:1731年7月31日
没年月日:1792年9月30日
姓:愛新覚羅
称号:固倫和敬公主
地位:
父:乾隆帝
母:孝賢純皇后 富察氏
夫:セプテン・バルジュル(色布騰巴爾珠爾)
子供:エレケ・テムール・ババイ
清王朝の第6代皇帝・乾隆帝の娘です。
日本では江戸時代になります。
おいたち
1731年6月28日(雍正9年)に生まれました。
父は愛新覚羅・弘曆(後の乾隆帝)。
母は嫡福晋(正室)・富察氏(後の孝賢純皇后)
弘曆(乾隆帝)の三女です。
富察氏にとっては唯一の成人した娘です。
雍正帝の側室・勤太妃によって育てられました。
1735年(乾隆元年)。父の乾隆帝が即位しました。
「和敬公主」の称号が与えられました。
皇帝の娘はすべて「公主」です。皇后の娘は特別に固倫公主(こりんこうしゅ、満州語:グルニグンジュ)と呼ばれます。皇女も嫡子と庶子が区別されているのです。もちろん「和敬公主」も固倫公主です。固倫(グルニ)とは満洲語で「天下・世界」という意味。固倫公主は「世界の王女」という意味です。
清朝の固倫公主(グルニグンジュ)と公主(グンジュ)の違いは
朝鮮王朝の公主(コンジュ)と翁主(オンジュ)の違いと同じです。
中華王朝は側室の娘でも「公主」と言いますが、冊封国(属国)の朝鮮では側室の娘は公主とは言えません。
1747年(乾隆12年)。モンゴル・ホルチン部の王子・セプテン・バルジュル(色布騰巴爾珠爾)と結婚しました。
モンゴルに行かずに北京で別居生活
ところが乾隆帝は娘が遠くに行ってしまうのが嫌で和敬公主が北京で暮らすのを許可しました。
和敬公主はモンゴルの王族と結婚しながら北京で暮らした最初の皇女でした。
親王が暮らす「貝勒府」の隣に「和敬公主府」という屋敷が作られ、和敬公主はそこで暮らしました。
清朝で唯一の公主のための屋敷です。
和敬公主とセプテン・バルジュルは別居生活になってしまいましたが、二人の間には少なくとも5人の子供が生まれました。子どもたちの名前は乾隆帝が名付けました。
1749年(乾隆14年)。セプテン・バルジュル(色布騰巴爾珠爾)の父・達爾罕親王ロブチベットアブ(羅卜藏袞布)が病気になりました。ロブチベットアブは順治帝の娘・固倫端敏公主の子供です。モンゴル王家は代々清朝と婚姻関係を結んでいました。
そこで乾隆帝の命令で和敬公主はお見舞いのためにモンゴルを訪問しました。内務大臣が同行しました。
1752年(乾隆14年)。義父ロブチベットアブが病死しました。
乾隆帝はすぐに戻って義父のために喪服を着るように和敬公主に伝えます。また夫セプテン・バルジュルの具合も気にして王室の医師の診察を受けるように言いました。
1771年(乾隆36年)。崇慶皇太后の80歳の祝賀会が行われました。和敬公主たち王女は崇慶皇太后にプレゼントを贈りました。
1773年。(乾隆38年)。四川で反乱が起こり清軍が派遣されました。夫のセプテン・バルジュルも軍を率いて遠征しました。この戦いは長引きました。
1775年。(乾隆40年)。セプテン・バルジュルが遠征先で死亡。
和敬公主は未亡人になってしまいます。
その後は再婚しませんでした。
1792年(乾隆57年)。和敬公主が死去。享年62。
乾隆帝は和敬公主に毎年多くのお金を渡していました。1万5千両(そのうち銀8900両、中国では「両」は重さの単位、1両=約37g)を渡していたと言います。そのため和敬公主は贅沢な暮らしができました。
娘が結婚してもモンゴルに行かせずに北京に屋敷を作って暮らさせたり、乾隆帝は和敬公主を溺愛していたようです。
テレビドラマ
如懿傳〜紫禁城に散る宿命の王妃~ 2018、中国
役名:三公女・愛新覺羅・璟瑟 演:關雪盈
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