遼世宗 耶律 兀欲(やりつ・こつよく)は大契丹国(遼)の第3代皇帝。
劉阮(りゅう・げん)という漢名もあるので中華圏では耶律阮(やりつ・げん)とよばれます。
父は東丹国王 耶律突欲(やりつ・とつよく)。本来なら兀欲が皇帝になっても不思議ではありません。叔父の太宗 耶律堯骨(やりつ・ぎょうこつ)の死後、他の皇族たちに推される形で皇帝になりました。
世宗は漢風の文化や制度に興味が強く。漢人を多く採用し皇帝の力を強めるため組織を変えました。しかし伝統を守ろうとする契丹人貴族の反感をうけます。
さらに一族内の権力争いも加わり、反乱によって命を落としました。
史実の遼世宗 耶律 兀欲はどんな人物だったのか紹介します。
遼世宗 耶律兀欲 の史実
どんな人?
生年月日:919年1月29日
没年月日:951年10月7日
姓名:耶律 兀欲(やりつ・こつよく)
漢名:劉阮(りゅう・げん)
国:大遼(大契丹国)
地位:皇帝
称号:天授皇帝
廟号:世宗
在位:947~951年
父:耶律突欲(やりつ・とつよく)
母:懐節蕭皇后
妻:皇后甄氏
皇后蕭撒葛只
子供:
耶律吼阿不(早世)
耶律明扆(景宗)
耶律只没(寧王)
耶律和古典(秦国長公主、蕭啜里の妻)
耶律観音(晋国長公主、蕭夏剌の妻)
耶律撒剌(蕭斡里の妻)
彼は大契丹国(遼)の第3代皇帝です。
日本では平安時代になります。
おいたち
耶律 兀欲(やりつ・こつよく)は神冊3年12月25日(919年1月29日)に誕生。
父は契丹国の東丹王 耶律突欲(やりつ・とつよく)。
祖父は大契丹国(大遼)の初代皇帝 耶律阿保機(やり・つあぼき)
父の突欲は皇太子ですが契丹には皇太子の制度はないので形だけのものです。太祖 阿保機は突欲を気に入っていたようですが。述律皇后は突欲をあまり好きではなかったようです。
そのためか、突欲は渤海滅亡後に契丹が作った東丹国の王に任命されました。
926年。太祖 阿保機が死去。
述律皇后の主導で後継者を決める会議が行われ跡を継いだのは叔父の太宗 耶律堯骨(やりつ・ぎょうこつ)でした。
930年。皇帝の座を継ぐことができなかった東丹王 突欲は後唐に亡命しました。
兀欲は父には従わず、叔父の堯骨のもとで育てられました。堯骨には実の子のように可愛がられました。
937年。突欲は後唐で死亡しました。
会同9年(946年)。太宗 堯骨は後普を攻めるため遠征。開封を占領。後普を滅亡させました。
兀欲もこの遠征軍に同行しました。その戦いで手柄を立てました。
大同元年(947年)2月。太宗 堯骨は国名を「大契丹国」から「大遼」に変えます。兀欲は「永康王」の称号が与えられました。
太宗 堯骨の死去で皇帝に即位
ところが太宗 堯骨は開封の統治に失敗。各地で反乱が起こります。太宗 堯骨は開封出発して北上。臨城に来たところで病死しました。
遠征には兵たちの不満もあったといわれ。せっかく開封を占領したものの手放すことになってしまいました。不満をもつ遠征軍のクーデターではないかという説もあります。
太宗 堯骨の死後。宿衛 耶律安摶、南院大王 耶律吼、北院大王 耶律窪 たちが皇帝不在のままにしておくはいかないと、遠征軍にいた永康王 耶律兀欲 を皇帝にしようと画策します。
太宗 堯骨には子がいますがまだ幼いです。安摶たちは述律太后に相談すれば耶律李胡を継がせるだろうと考えました(事実、李胡が皇太弟として首都にいます)。でも耶律李胡は乱暴で人望がありません。でも耶律兀欲は自分が皇帝になるのは躊躇しました。
耶律安摶の父・耶律迭裡は 太祖 耶律阿保機が崩御した時、東丹王 耶律突欲を即位させましょうと言って述律太后によって投獄され拷問の末に獄中死しました。
耶律安摶は耶律兀欲とも親友で、兀欲を即位させるなら今が絶好のチャンスだと考えました。こうして耶律兀欲は皇族や諸将に突き動かされる形で皇帝になるのを決意しました。
遠征軍は南京(なんけい:今の北京)を占領後。兀欲は叔父の棺の前で皇帝即位を宣言しました。このとき兀欲は喪服ではなく、吉服(お祝いごとのときに着る服)を来て即位式を行いました。
述律太后との争い・横渡之約
「兀欲の即位」の報告は首都・上京にいる述律太后に届きました。述律太后は激怒。溺愛する三男の李胡を皇帝にするべく挙兵しました。
兀欲たちの軍は李胡の率いる軍を撃退。すると述律太后が自ら軍を率いて出陣。
両軍はシラムレン川のほとり横渡で睨み合いました。でも兵力では遠征軍を率いる兀欲が勝っています。皇族同志の争いを望まない耶律屋質が述律太后を説得。述律太后と李胡は兀欲の即位を認め和睦しました。この条約を「横渡之約」といいます。
世宗皇帝の時代
兀欲は正式に皇帝(世宗)になり元号を「天禄」に変えました。
しかし述律太后はまだ諦めず、李胡を皇帝にしようとしました。そこで述律太后と耶律李胡を太祖の陵墓のある祖州に移しました。
世宗 耶律兀欲は自分の生母・蕭氏を皇太后にしました。
世宗 兀欲は耶律屋質を信頼して大臣を任せました。兀欲は組織を改革。太宗時代に創設した南面官と北面官を合併して、南北の枢密院を創設。南北大王を廃止。後に南北の枢密院を合併しています。古い部族の統治方法を変えて中央集権型の国作りを目指しました。
世宗 兀欲は酒と狩りが大好きでした。それだけならまだいいのですが。
やがて皇帝にこびを売る者を信用したり、過剰な褒美を出すかと思えば安易に人を殺したりするようになります。人々の皇帝への信頼を失っていきました。
皇后が二人
後唐を滅ぼした時に後唐の後宮にいた甄氏を自分の妾にして、即位後は皇后にしました。甄氏は契丹では唯一の漢人の皇后です。
951年には皇子の明扆(後の景宗)を生んだ蕭氏を皇后にしました。同時に皇后が二人いた事になります。
相次ぐ反乱
しかし世宗の即位や彼のやり方に納得できない皇族もいます。
世宗 の即位に産生した人たちは、もともと述律太后に反感を持っていた人たちです。述律太后を排除した後、皇族たちは世宗と対立するようになりました。
さらに世宗が中華の文化や政治制度が好きで、多くの漢人を要職に就けました。伝統を守ろうとする契丹人の反感をうけました。
天禄2年(948年)。耶律天徳、蕭翰、耶律劉哥、耶律盆都たちが謀反。世宗は彼らを処分しました。
天禄3年(949年)。蕭翰と妻の阿不里が 耶律安端を誘って反乱を計画しました。蕭翰は世宗の娘・阿不里と結婚していました。
しかし安端の息子・耶律察割が蕭翰の手紙を入手して涙ながらに世宗 耶律兀欲に報告。察割は世宗 耶律兀欲の信頼を得ました。
事件の首謀者・蕭翰は処刑され、阿不里は投獄されました。安端は辺境の部族の舞台の指揮官に左遷されました。
耶律屋質は察割は野心を持っているのではないかと思い、世宗に忠告しました。でも世宗は「察割は父を捨てて私に協力したのだ。何もしないさ」と屋質の忠告を聞きませんでした。
この察割が後に反乱を起こします。
火神淀之乱で殺害される
天禄5年(951年)9月。世宗は北漢の支援要請をうけて北周を攻撃しました。しかし兵たちは疲れて進軍を嫌がりましたが、世宗は進軍を命令しました。
やがて世宗たちは祥古山(現在の内モンゴル自治区フフホト)まで来ました。他の部隊はまだ祥古山には来てなくて、火神淀に待機していました。
世宗は祥古山で父の東丹王に生贄をささげ儀式をしました。その後、宴会をひらきました。大臣たちは酔っ払ってしまいました。
ここで耶律察割が反乱を起こしました。察割はもともと野心があって世宗を討つ機会を狙っていたのです。世宗は察割に殺害されてしまい、二人の皇后と皇太后も殺害されました。
このとき耶律屋質は逃げることに成功。屋質は耶律述律とともに察割を討ちました。
耶律述律が皇帝(穆宗)に即位しました。
テレビドラマ
燕雲台 2020年、中国 演:金珈
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