耶律磨魯古(やりつ・まろこ)は大契丹国(遼)の役人で軍人。
5代皇帝 聖宗 耶律文殊奴(やりつ・もんじゅど)や肅太后に仕えました。
ドラマ「燕雲台」では肅燕燕の幼なじみで、燕燕に痛い目にあわされる友達のように描かれています。
耶律磨魯古は若いころから弓矢が得意でした。
北宋との戦いでは前線で戦っています。
史実の耶律磨魯古はどんな人物だったのか紹介します。
耶律磨魯古の史実
どんな人?
姓 :耶律(やりつ)
名称:磨魯古(まろこ)
国:大契丹国(大遼)
地位:北院大王
生年月日:不明
没年月日:不明
彼は聖宗の時代に活躍しました
日本では平安時代になります。
家族
母:不明
夫:不明
子供:不明
おいたち
祖先の耶律覿烈(やりつ てきれつ)は契丹迭剌(デリ)部の貴族。大契丹国を建国した耶律阿保機に仕えました。迭剌部は耶律阿保機が部族長を務める部族です。
磨魯古の一族は契丹宗室(皇室)と同じ祖先を持ちますが。宗室(皇室)を支える貴族のような身分になっています。
耶律磨魯古の生年は不明。
父は耶律虎古(やりつ・ここ)。4代皇帝 景宗 耶律明扆(劉賢)を支えた重臣です。
耶律磨魯古(やりつ・まろこ)は弓矢が上手かったといわれます。
聖宗 耶律文殊奴の時代
統和元年(983年)。 耶律磨魯古は南面林牙に任命されました。林牙とは行政の事務を行う役人です。
統和4年(986年)。北宋の太宗 趙炅は燕雲16州を手に入れるため、契丹攻撃を命令。契丹に攻めてきました(雍熙北伐)。
耶律磨魯古は契丹軍の最前線で戦い矢を受けて負傷しました。それでも矢を引き抜いて前進しました。戦いが始まってしばらくは契丹軍が北宋軍におされていましたが。皇太后 蕭綽が援軍を率いて到着。契丹軍が盛り返しました。その後のの戦いで耶律磨魯古は負傷して戦えなくなりました。北府宰相の蕭継先とともに国境を巡視ししました
統和6年(986年)。契丹軍は北宋に攻め込みました。耶律磨魯古は先頭にたって軍を率いました。耶律奴瓜とともに定州を攻め。北宋の将軍・李忠吉の軍と戦って勝利しました。
統和8年(990年)6月。「北院大王」になりました。
契丹は遊牧民と農耕民を別々の組織を作って統治していました。遊牧民もいくつかの部族に分かれていました。その部族を統治する行政機関が「北大王院」。北院大王はそのトップです。
統和22年(1004年)9月。耶律老君奴が北王府、南王府を視察したあと。
耶律磨魯古は軍中で病死しました。
テレビドラマ
燕雲台 2020年、中国 演:阿斯汗
劇中では蕭燕燕のことが好き。同世代の遊び仲間のように描かれます。
腕比べでは蕭燕燕に負けたり。気絶させられて大会には出られなかったりと、いじめられ役みたいな立場。
父の耶律虎古が景宗 耶律賢を支える重臣。世代的には景宗や蕭燕燕と同じでも不思議ではありません。
韓徳讓のことは身分が低いので見下している部分もあり、よくトラブルをおこします。
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