雍正帝(愛新覚羅 胤禛)は大清帝国の第5代皇帝。
清朝といえば康煕帝と乾隆帝の時代が有名です。
その2人にはさまれて印象が薄い雍正帝時代ですが。雍正帝や妃嬪たちは魅力的な人物です。そのためいくつものテレビドラマの題材になっています。
康煕帝時代には九王奪嫡という後継者争いが起こります。第四皇子 胤禛は重要な役どころなのでわりとドラマに登場する機会も多いです。
胤禛はドラマでは架空の人ばかり相手にしているように見えますが。もちろん正室はいますし何人かの側室もいます。
また乾隆帝時代の皇太后や太妃(先代の妃)も雍正帝の妃たちなので意外とドラマでは出てくる人も多いです。
そこで雍正帝の正室と側室をリストにしてみました。ドラマに登場する人や妃以上の側室を中心に紹介します。
ちなみに
雍正帝の生没年は
生年:1678年12月13日(康煕17年)
没年:1735年10月8日(雍正13年)
皇帝在位 1722~1735年。
享年58。
妃嬪たちとの年齢差もみてみると面白いかもしれませんよ。
妃嬪たちの称号や地位は雍正帝在位中のものです。
乾隆帝時代の呼び名とは変わっている部分もあります。
雍正帝の正室
孝敬憲皇后 烏喇那拉氏(ウラナラ)氏
嫡福普 → 皇后
生年 1681年(康煕20年)
没年 1731年(雍正9年)
享年 51
皇后在位 1723~1731年。
満洲正黄旗人。
民族:満洲人
名門の烏喇那拉氏(ウラナラ)氏出身。
康熙30年(1691年)10歳で胤禛と結婚。
康熙36年(1697年)に長男・弘暉が生まれますが8歳で死亡。
雍正元年(1723年)皇后になります。
雍正9年(1731年)病気で死亡。
ドラマ「宮廷女官 若曦」「宮廷の茗薇」「花散る宮廷の女たち」などのドラマでは第四皇子 胤禛の福普として登場する事が多いです。物分りのいい人なのですが、あまり幸せそうには描かれません。
ドラマ「宮廷の諍い女」では皇后 烏喇那拉氏は二人いて姉妹関係。ドラマ開始時には姉はすでに死亡。すでに故人になってる皇后 烏喇那拉氏の方が嫡福普だった人。
妹の皇后 烏喇那拉氏は姉の死後・皇后になったという設定。ヒロイン鈕祜祿・甄嬛と対立する悪役。
ドラマ「如懿伝」のヒロイン 烏喇那拉・如懿 は皇后 烏喇那拉氏の姪の設定。息子が廃されて幽閉されてしまいます。如懿に復讐するよう言い残して死亡します。
比較的「いい人」として描かれることが多いです。
子供:
端親王 弘暉
雍正帝の側室
敦粛皇貴妃 年氏
他の称号:皇貴妃、貴妃
生年 不明
没年 1725年(雍正3年)
享年?
漢軍鑲白旗人。後に漢軍鑲黄旗人
民族:漢人
胤禛の皇子時代からの側室(側福普)。
雍正帝即位後はいきなり「貴妃」。
生前の最高の称号は「皇貴妃」。「皇貴妃」になったのは死の直前なので、「貴妃」時代が長いです。「敦粛皇貴妃」は死後贈られた称号。
兄は将軍の年羹堯(ねん・こうぎょう)
「花散る宮廷の女たち」のヒロイン 年姝媛(ねん・しゅえん)は 敦粛皇貴妃 年氏がモデル。歴史上は 年氏と皇太子の間に恋愛関係はありません。
「宮廷の諍い女」では華妃 年世蘭として登場。ヒロインを虐める役でした。
「宮廷の茗薇」では茗薇のことが気に入らず対立していましたが、胤禛の危機には茗薇と協力する場面もありました。
子供:
皇四女(夭逝)
福宜(夭逝)
懐親王福恵(夭逝)
福沛(夭逝)
4人の子供を生みましたがいずれも幼くして死亡。
熹貴妃 鈕祜禄(ニオフル)氏
他の称号:聖母皇太后、崇慶皇太后、孝聖憲皇后
生年 1692年1月2日(康煕30年)
没年 1777年3月2日(乾隆42年)
享年 86
満洲鑲白旗人。後に満洲鑲黄旗人
民族:満洲人
乾隆帝の生母。
胤禛の皇子時代は格格(妾)。
側室時代は皇后はもちろん年貴妃よりも地位が低かったのですが。息子が皇帝になったおかげで後宮で絶大な影響力を持ちました。息子の弘暦は康熙帝からも可愛がられ、早くから後継者と噂されていました。孝敬憲皇后が亡くなると後宮で一番の影響力を持ちました。
ドラマでは皇太后として登場することが多いです。清史上、最も皇帝から大切にされた皇太后といわれます。西太后も鈕祜禄氏の待遇に憧れました。
ドラマ「宮廷の諍い女」のヒロイン。鈕祜祿·甄嬛 のモデル。ただし劇中の甄嬛は甄玉嬛という名の漢人。劇中で鈕祜祿·甄嬛という名前を与えられるという設定。ただし実在の鈕祜祿氏は満洲人。
「如懿伝」「瓔珞」では皇太后 鈕祜禄氏として登場。
歴史上は乾隆帝の生母なのにドラマや小説ではことごとく養母にされてしまう。場合によっては子供を側室から奪ったことにされる気の毒な人。
子供:
皇四子 弘暦(乾隆帝)
裕妃 耿氏
他の称号:裕太妃、純懿皇貴妃
生年 1689年12月14日(康煕28年)
没年 1785年1月27日(乾隆49年)
享年 97
鑲白旗包衣管領下人 後に 鑲黃旗包衣旗鼓佐領下人
民族:漢人
胤禛の皇子時代は格格(妾)。
非常に長生きした妃。当時としては驚異的な高齢。
息子は問題行動の多い和親王 弘昼。鈕祜禄氏にうまく取り入って後宮での地位を築きました。
雍正帝時代の側室として登場することは殆どありません。
「瓔珞」では和親王 弘昼の母・裕太妃として登場します。
子供
皇五子 和親王 弘昼
斉妃 李氏
生年 1676年(康煕15年)
没年 1737年(乾隆2年)
享年 62
民族:漢人
胤禛の皇子時代は格格(妾)。
ドラマでは「宮廷の諍い女」に登場しました。
息子の弘時は成人した皇子の中では最年長でした。そのため雍正帝が即位したときの後宮での地位は弘暦の母・鈕祜祿氏よりも上でした。ところが弘時は年羹堯から銀1万両を借金したり問題行動が多かったので追放されてしまいます。弘時追放後は斉妃の影響力は落ちました。
子供
皇二女 和碩懐恪公主
皇二子 弘昀(夭逝)
弘昐(夭逝)
皇三子 弘時
謙妃 劉氏
生年 1714年(康煕53年)
没年 1767年(乾隆32年)
享年 54
民族:漢人
雍正帝時代に内務府選秀で入宮。
「宮廷の諍い女」では寧嬪・方淳意の名前で登場します。
子供
皇六子果郡王弘曕
寧妃 武氏
生年 不明
没年 1737年(乾隆2年)
享年 不明
漢軍鑲黄旗人
民族:漢人
雍正帝時代に八旗選秀で入宮。
懋嬪 宋氏
生年 不明
没年 1729年(雍正8年)
享年 不明
胤禛が皇子時代からの格格(妾)。
雍正帝時代に懋嬪になりました。
子供
皇長女(夭逝)
皇三女(夭逝)
貴人 李氏
生年 不明
没年 1760年(乾隆25年)
雍正帝時代に入宮したと思われる人物。地位が低かったので詳しい記録があまりありません。
小説やドラマでは乾隆帝の生母にされることも多い人。李貴人ともいいます。
実際には李貴人には子供はいません。漢民族を乾隆帝の親にしたい。という中国人の願望から生まれた妄想です。
ドラマ「宮廷の諍い女」「如懿伝」では乾隆帝の生母が李金桂になってます。李金桂のモデルになったのが李貴人。
その他。
貴人 5人
常在 6人
答応 6人
格格 4人
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