太祖:李成桂(イ・ソンゲ)は李氏朝鮮最初の国王

2017年9月1日

高麗を倒し、李氏朝鮮最初の王になった李成桂(イ・ソンゲ)。高麗時代は伝説的な活躍をみせた将軍でした。チョン・モンジュやチョン・ドジョンといった思想家やイ・バンウォンら息子たちとともに革命を起こします。やがて高麗王朝を倒し朝鮮王朝の最初の王となりました。

しかし後半生は身内の争いが絶えない寂しい晩年になってしまいました。

史実の李成桂(イ・ソンゲ)はどんな人物だったのか紹介します。

李成桂(イ・ソンゲ)の史実

いつの時代の人?

生年月日:1335年10月27日
没年月日:1408年6月18日

在位期間: 1392年8月5日~1398年10月14日

名前:李成桂(イ・ソンゲ:り・せいけい)
称号:太祖(テジョ:たいそ)
父: 李子春
母: 懿恵王后(永興崔氏)
妻:神懿王后(安辺韓氏)、神徳王后(谷山康氏)

子供:
母:神懿王后
鎮安君、定宗、益安君、懐安君、太宗、徳安君、慶慎公主、慶善公主
母:神徳王后
撫安君、宜安君、慶順公主
他、女子2人

李氏朝鮮の初代国王です。彼が生きたのは1335年~1408年。高麗末期から朝鮮王朝(李氏朝鮮)の初期の人物です。

日本では室町時代になります。

おいたち

1335年。和寧府で李子春の次男として産まれました。

当時の高麗は元の支配下にありました。和寧府はもともとは高麗の領土でしたが、この時期には元の直轄地になってました。李子春は元の役人となり千戸という千人の兵を率いる身分でした。李子春の支配する地域には女真族が多く暮らしていました。李子春の家臣にも女真族の者がいまいました。

イ・ソンゲが育った時代は元の支配力が弱まっていました。各地で反乱が頻発します。漢民族の起こした紅巾賊の反乱には元も手を焼いていました。

そこに目をつけたのが高麗の恭愍王です。李子春を味方につけて和寧府を取り戻すことにしました。

1357年。イ・ソンゲは父とともに高麗に寝返り、和寧府を高麗の領にすることに成功しました。李子春一家はいちやく高麗の有力者になりました。

1361年。紅巾賊が高麗に攻めてきました。高麗の都・開京が陥落します。イ・ソンゲは都奪還に加わり大きな手柄をたてました。

女真族の兵を率いる無敵の武将

イ・ソンゲの家は代々女真族を支配下に置いていました。女真族は馬に乗り、弓矢を得意とする民族です。女真族の騎兵は戦いでは非常に強かったといいます。イ・ソンゲ自身も弓矢が得意でした。

1362年。女真族出身で元の将軍・納哈出(ナハチュ)軍が高麗に攻めてきました。一度は逃げられましたが、再び攻めて来たところを撃退しました。
1363年。元は反抗的な恭愍王を廃位して元に友好的な徳興君を王にしようとしました。高麗は拒否しました。
1364年。元は高麗出身の崔儒に兵を預けて高麗を攻めさせました。イ・ソンゲは崔瑩(チェ・ヨン)とともに崔儒を撃退。元は高麗を服従させることを諦めました。

女真族が高麗に侵入。和寧より北を占領されました。
1369年。イ・ソンゲは女真族を討つために遠征しました。このとき一緒に遠征したのが鄭夢周(チョン・モンジュ)です。遼東の中心地・遼陽城まで占領しました。

1374年。恭愍王が元に友好的な家臣によって殺害されました。恭愍王の息子・禑王が即位しました。

1377年。朝鮮南部に攻めてきた倭寇との戦いで功績をあげます。
1380年。倭寇が500隻の大軍で攻めてきました。高麗は軍隊を派遣しましたが将軍が撃たれるなどして敗退。イ・ソンゲが総司令官に任命されました。イ・ソンゲは倭寇の大将・アキバツ(阿只抜都)の軍と戦い撃退しました。アキバツとは高麗側の呼び方です。正体は分かっていません。日本人、モンゴル系、高麗系との説もあります。

その後も倭寇や女真族との戦いで功績をあげます。イ・ソンゲは地方豪族や若い官僚たちから支持を集めるようになりました。

王への反抗、威化島回軍

1388年。明は朝鮮の北部を渡すように一方的に要求してきました。禑王や崔瑩は遼東地域を支配下にして明に抵抗しようとしました。

イ・ソンゲは右軍都総使、曹敏修(チョ・ミンス)が左軍都総使になり、出兵することになりました。イ・ソンゲは反対しましたが禑王は出兵を強行しました。出兵する将兵の家族が人質に取られました。

5月。イ・ソンゲたち遠征軍は鴨緑江河口の威化島に到達。大雨で川が増水して渡れませんでした。例え渡れても遼東を支配する明に勝つのは難しく思われました。逃亡する兵士が増え、食料の補給も途絶えがちになりました。イ・ソンゲはチョ・ミンスと話し合い、撤退しました。

イ・ソンゲは遠征失敗はチョ・ヨンの責任だとして、禑王にチョ・ヨンの処罰を要求しました。禑王は拒否。チョ・ヨン将軍との戦いになります。イ・ソンゲは戦いに勝ちました。チョ・ヨンは流刑になった後に処刑されました。

王禑は内侍を使いイ・ソンゲの屋敷を襲わせましたが失敗。王禑は追放されました。

チョ・ミンスは禑王の息子・昌王を第33代高麗王しました。しかしイ・ソンゲは昌王が継ぐことは反対でした。

恭譲王擁立

1389年。イ・ソンゲはチョ・ミンスを生け捕りにして流罪にしました。昌王と禑王を殺害しました。

イ・ソンゲとは遠戚になる定昌君を第34代国王・恭譲王につけました。

しかし、急激な改革を勧めようとする鄭道伝(チョン・ドジョン)と緩やかな改革を目指すチョン・モンジュが対立。イ・ソンゲはチョン・ドジョンを支持していました。イ・ソンゲとチョン・ドジョンは田制改革を行なって自分たちを支持する官僚たちに土地を配分しました。

これにモンジュが反発。イ・ソンゲが落馬して休養中にチョン・ドジョンらを追放しました。しかし5男の李芳遠(イ・バンウォン)らがチョン・モンジュを殺害しました。追放になった者たちを呼び寄せました。

李氏朝鮮の始まり

復帰したイ・ソンゲは恭譲王を追放して、自らが高麗王に即位しました。しかし歴代の王は中国(このときは明)から認めてもらわないと名乗ることができません。このときは仮に治めているだけの存在でした。

1393年。王になったイ・ソンゲは王に認めてもらうため明に使者を派遣。明は王家が変わったので国名を変えるように要求しました。イ・ソンゲは「朝鮮」と「和寧」を用意して明に選んでもらうことになりました。

「朝鮮」は高句麗より古い時代に朝鮮半島にあったとされる国の名前。「和寧」はイ・ソンゲ出身地の名前です。イ・ソンゲは古代に存在した朝鮮の後継者だと名乗りたかったのです。明は朝鮮を選びました。イ・ソンゲも朝鮮を本命と考えていました。李氏朝鮮の始まりです。

イ・ソンゲは初代国王・太祖になりました。太祖というのは死後に送られた名前です。イ・ソンゲが在位中は明との仲も悪いままでした。李氏が朝鮮の王だと正式に認めてもらったのは3代太宗の時代、1401年のことです。

朝鮮の呼び方

イ・ソンゲが作った朝鮮という国を李氏朝鮮と呼ぶのは古代にあった朝鮮と区別するためです。日本や中国はイ・ソンゲから始まる朝鮮を李氏朝鮮、古代の朝鮮を衛氏朝鮮・箕子朝鮮・檀君朝鮮と呼びます。現在も朝鮮を名乗る北朝鮮は李朝朝鮮や李氏朝鮮と呼びます。韓国では李氏朝鮮は単に「朝鮮」古代の朝鮮を「古朝鮮」と呼びます。

最近では韓国ドラマの影響や学会の考え方の変化から、日本でも朝鮮といえば李氏朝鮮を意味することが多くなってます。しかし、古代に存在した朝鮮と間際らしいので適切ではないという意見もあります。

王族・支配階級・一般人をふくめた国そのものは李氏朝鮮。王室や家臣を含めた国を動かしている組織を朝鮮王朝といいます。

王一族への弾圧

1394年。恭譲王に謀反の疑いをかけて殺害しました。

他の高麗王家の人々も殺害しました。隠れ住む王一族を呼び出すために、王一族のために島を用意したと宣伝します。集まってきた王一族を船に乗せて沖合で沈没させて皆殺しにしました。

集まってこなかった王一族も、王の名字を捨てて隠れ住みました。現代でも韓国では王の名字を持つ者はわずかしかいません。もともと王の名字を持つものが少なかったことに加え、李氏朝鮮の行なった弾圧が原因だともいわれます。

鄭道伝の国つくり

新しい王朝で国つくりの忠臣になったのが鄭道伝(チョン・ドジョン)です。

1394年。古い特権階級の権門勢族があふれる開京を捨てることにしました。漢陽(漢城、今のソウル)に都を移します。チョン・ドジョンは漢陽の宮殿や街を設計しました。

朝鮮の法律「朝鮮経国典」を定めました。国作りに農地改革を行い寺院から土地を取り上げて国のものにしました。チョン・ドジョンは仏教は不必要なものと考え、儒教で国作りを行いました。崇儒廃仏政策を進めます。各地に儒教の学校を作りました。

第一次王子の乱

1398年。イ・ソンゲは八男の芳碩を後継にしました。長男の李芳雨(イ・バンウ)は1393年に病死していました。

神懿王后がすでになくなっていたのに対し、2番めの妻・神徳王后に対する信頼が大きかったのです。最初は神徳王后の長男(イ・ソンゲの7男)・李芳蕃(イ・バンボン)を後継者にしようとしました。しかし、チョン・ドジョンはイ・バンボンは性格が凶暴で軽率だとして反対。若い李芳碩(イ・バンソク)を支持しました。

この決定に神懿王后の息子たちが反発します。

また、チョン・ドジョンは王族や家臣の持っている私兵を王の軍隊に合流させるように指示しました。王の力を強めるためです。

気性の激しいイ・バンウォンが素直に従うはずがありません。イ・バンウォンは中心となって反乱を起こし、チョン・ドジョンら重臣が殺害されました。さらにイ・バンボン、イ・バンソクが殺されました。

イ・バンウォンは次兄の李芳果(イ・バンカ)を後継者に推薦しました。太祖は心痛のあまり位を退いてしまいます。イ・バンカが2代目国王となりましたが形式的なものでした。権力はイ・バンウォンが握っていました。

太祖は上王となり引退、都を離れました。

その後もイ・バンウォンと兄弟たちは争いを続けます。太祖は兄弟や家臣たちを殺し続けるイ・バンウォンを恨みました。バンウォンが使者を送っても使者を殺したと言われます。

1400年。バンウォンが3代国王・太宗になりました。
1402年。太宗と和解して漢陽に戻りました。しかし形式的なもので内心は不満だったと言われます。

朝鮮王朝は仏教を排除して儒教の国を作ろうとしていました。にもかかわらず、晩年は仏教にのめり込み念仏三昧の日々をおくったといいます。多くの人々の命を奪い、自分の身内や家臣を失いました。その苦しみを救うのは信仰の道に入るしかなかったのかもしれません。

1408年。死去。享年73。

イ・ソンゲが革命を起こしたのは私欲だったのか、本当に国を思ってのことかはわかっていません。イ・ソンゲは高麗王朝時代に活躍した英雄。朝鮮王朝最初の国王でしたが、建国後は身内の争いに悩まされ続けたのでした。

 

実は朝鮮人じゃなかった?

ドラマでは全く触れられていませんが。
歴史の研究科の間ではイ・ソンゲは女真族の出身ではないかという説があります。イ・ソンゲの住んでいる地域は女真族の多い地域です。家臣の中にも女真族がいました。女真族そのものではなかったとしても、血筋のどこかに女真族出身者がいる可能性があるという説があります。

元の人間だったという説もあります。イ・ソンゲが暮らしていたのは、元の支配する地域です。イ・ソンゲの家は元に仕える一族でした。イ・ソンゲも元の人間としての名前を持っています。イ・ソンゲの父達が授かっていた千戸長という役職はモンゴル人以外では任命されるのが難しい役職だったといいます。イ・ソンゲが元から独立して朝鮮王朝を作ったのは、元に服従した高麗人が独立したのではなく、衰退した元を裏切っったモンゴル人が南下して高麗を征服した。とする研究者もいます。

様々な説があるので本当のところは分かりません。日本や中国・韓国の学者が現在も研究中です。ドラマでは決して描かれない一面があるかもしれませんね。

テレビドラマ

開国 KBS、1983年 演:イム・ドンジン
太宗大王 MBC、1983年 演:ギムムセン
龍の涙 KBS、1996年 演:ギムムセン
シンドン MBC、2005年 演:イ・ジンウ
インイ SBS、2012年 演:オ・ジェム
大風水 SBS、2012年 演:チ・ジニ
チョン・ドジョン KBS、2014年 演:ユ・ドングン
イニョプの道 JTBC、2014年 演:イ・ドギョン
六龍が飛ぶ SBS、2015年 演:チョン・ホジン
チャン・ヨンシル KBS、2016年 演:ギム・ギヒョン


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