麗・解氏(ヘ氏)が高氏(コ氏)に変わったのは高句麗時代だった?

2017年12月20日

韓国ドラマ「麗・花萌ゆる8人の皇子たち」では。最終回で「コ氏は高麗時代はヘ氏だった」というセリフが出てきます。

ヒロインの「コ・ハジン」が高麗時代にタイムスリップして「ヘ・ス」の体に乗り移ったのは、祖先だったかもしれないという縁を演出したかったのでしょう。

ところが、解氏(ヘ氏)が高氏(コ氏)に変わったのは高句麗の時代なのです。

なぜ、高麗時代に変わったことになってるのでしょうか?

意外と知られていない高句麗と高麗の関係についてお話します。

高氏と解氏の関係

現在の韓国では”高(コ)”の名字を持つ人は、約47万人。韓国では22番めに多い苗字です。

朝鮮の高氏は高句麗系と耽羅系に分かれます。

高句麗系の”高”氏

高句麗系の高氏は高句麗王族が始まりです。高句麗王族は”高”を名字にしてました。高句麗の創始者・東明聖王の名前が”高朱蒙”だったからです。鄒牟(チュモ)、衆解(チュンヘ)とも書きます。

三国史記(高麗で作られた歴史書)によると朱蒙は古代中国の伝説上の皇帝”黄帝”の孫”高陽”の子孫だと自称していことになってます。だから”高”と名乗っていたそうです。ただし、朱蒙が古代中国皇帝の子孫だとすると朝鮮人ではなくなってしまうので、韓国ドラマではこの説は採用していません。

”高”の名字は王族だけでなく将軍や家臣にも与えていました。”高”の名字をもつからといって高句麗王族とは限りません。

高句麗は朝鮮半島の上半分と中国大陸にまたがる国でした。満州と渤海に住んでいた高氏はほぼ高句麗系だといわれます。現在だと中国の東北部と北朝鮮のあたりです。

解(ヘ)氏

扶餘は紀元前1世紀ごろ満州(中国東北部)にあった国です。解慕漱は人というより神や神の子に近い存在です。また、東扶余国(扶余国ともいいます)を作ったのは”解夫婁(ヘブル)”王。いずれにしろ扶余の王族は”解”の名字をもっていたようです。

高句麗の創始者、朱蒙(チュモン)の名字はかつては”解(ヘ)”だったという説があります。

朱蒙の父親は”解慕漱(ヘモス)”でした。解慕漱は扶餘や高句麗の建国神話に出てくる名前です。

だから解氏から高氏に変えたのではないかというのです。

 

高氏は昔は解氏だった?その真相

高句麗と百済は扶余から分裂した国だといわれます。”解”の名字を持つ人が王族にいても不思議ではありません。

後に朱蒙が扶余の建国神話に出てくる解慕漱の子供ということになったので、”解”から”高”に名字が変わったという理屈になりました。

冒頭でも書いたように、「麗・花萌ゆる8人の皇子たち」では最終回に「コ氏は高麗時代はヘ氏だった」というセリフが出てきます。

なぜ高麗時代の設定にしてしまったのでしょうか?

それは古代、高句麗は「高麗」と名乗っていた時期があるのです。

広開土大王の息子・長寿王の時代から国の名前を高麗にしました。古代中国の文献では高句麗の王族が高氏を名乗っていたと分かるのも長寿王の時代からです。

ところが後の時代に王建が高麗という国を作りました。王建はかつて朱蒙が作った高句麗(途中から高麗に改名)の末裔だと自称していたからです。それなら歴史上は後高麗か王氏高麗と区別すればいいのですが。

歴史研究では高氏の国を「高句麗」、弓裔の国は「後高句麗」にして、王氏の国は「高麗」と区別することになったのです。

ちなみに、古代中国の記録では高句麗のことを「高麗」と書いていることもあります。

日本では高句麗のことは「こま」と呼んでいました。百済を「くだら」、新羅を「しらぎ」、任那を「みまな」と呼ぶのと同様に、やまとの国(いわゆる倭国)では「高麗」の読みは「こま」でした。狛犬の「こま」はここから来ています。

高句麗は濊貊の子孫だと考えられていました。貊は狛とも書きます。古代日本では「高麗」も「狛」もどちらも「こま」と呼んでいました。

「麗・花萌ゆる8人の皇子たち」の製作者が、高句麗の名前の移り変わりや古代中国の歴史書に「高句麗が高麗と書かれている」のを知っていたかはわかりません。

本当は朱蒙の作った高句麗時代に解氏から高氏に変わったのに、王建の高麗だと勘違いした可能性はありますね。

 

古代, 高麗

Posted by Fumiya


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