愛新覚羅・胤禩は清朝の第4代皇帝・康熙帝の第8皇子。八阿哥とも書きます。
当時の朝廷内でも有力な皇位後継者と考えられ「八賢王」と呼ばれていました。胤禩を支持する派閥ができていたほどでした。
しかし皇帝になることはできず。雍正帝の時代には目の敵にされます。
雍正帝のイメージがあんまりよくないせいで、ドラマでは八阿哥 胤禩は「よい人」と描かれることも多いです。
でも実際は皇太子をめぐる派閥争いの中心にいた人物でした。
胤禩はどのような人物だったのか紹介します。
胤禩 の史実
いつの時代の人?
生年月日:1681年3月29日
没年月日:1726年10月5日
享年:45
姓:愛新覚羅(あいしんかくら、満洲語:アイシンギョロ)
名:胤禩(いんし、満洲語:インシ)→ 允禩→ 阿其那 (アキナ)→ 胤禩
称号:廉親王 → なし
父:康煕帝(こうきてい)
母:良妃 衛氏(本姓:覚爾察氏)
正室:嫡福普・郭絡羅氏
側室:側福普
某氏
妾:庶福晋
王氏、張氏、毛氏
子供:
男子 弘旺 母:張氏
女子 不明 母:毛氏
養子 弘時
胤禩 が生きたのは清王朝の第4代皇帝・康煕帝から5代・雍正帝の時代です。
日本では江戸時代になります。
母の身分は低かった
1681年(康煕20年)3月29日に生まれました。
胤禩は康熙帝の八男です。
清朝では「八阿哥」とも呼ばれました。阿哥(アグ)は満洲語で王子・息子の意味。清朝では「皇子」の意味で使われました。
父は康煕帝。
母は側室の衛氏(本姓:覚爾察氏)
漢民族風の姓ですが祖先は満洲人(女真)。もともとは覚羅氏と同じ祖先をもつ覚爾察氏です。祖先がヌルハチと争って追放され、後金建国後に満洲正黃旗包衣に組み込まれました。母の衛氏は宮廷で働く宮女でした。
「良妃」は後になって与えられた称号。允禩が生まれたときの地位はよく分かっていません。
母の身分が低かったので胤禩は恵妃に育てられました。恵妃は大阿哥(第一皇子)胤禔の生母です。
康煕帝時代の四大学者・何焯(か しゃく)の教えを受けました。
評判が高かった 胤禩
1698年(康熙37年)。八阿哥 胤禩は17歳のとき。四阿哥 胤禛、五阿哥 胤祺、七阿哥 胤祐と一緒に多羅貝勒(ドロイベイレ)に任命されました。
多羅貝勒は清朝では親王、郡王に継ぐ3番めの爵位です。胤禩は当時最年少の多羅貝勒でした。それほど評価が高かったのです。
八阿哥 胤禩は朝廷内でも有能な皇子と考えられていました。高名な学者の教えを受け、人格的にも素晴らしい人物。と考えられていました。「八賢王」という愛称もありました。
九阿哥 胤禟、十阿哥 胤䄉、十四阿哥 胤禎も八阿哥 胤禩が皇太子にふさわしいと考え、八阿哥 胤禩を支持する派閥「八爺党」ができました(爺はじいさんではなく、地位の高い男性を意味する敬称)。
皇太子をめぐる争いの中心になる
1708年(康熙47年)。皇太子 胤礽が廃位されました。康煕帝は胤礽が謀反を起こそうとしていると考えたからです。
一方、大阿哥 胤禔も次の皇太子になりたいと思っていました。ところが実現が難しそうと判断すると、同じ母に育てられた八阿哥 胤禩の支持にまわりました。
八阿哥 胤禩の支持者と大阿哥 胤禔は廃太子 胤礽を殺害して八阿哥 胤禩を皇太子にしようと考えました。
康煕帝はその話を聞かされ激怒して胤禔の爵位を取り上げ自宅に幽閉しました。胤禩も爵位を取り上げられました。
でも八阿哥 胤禩が胤礽暗殺を実行したわけではありません。証拠は不十分だったのでそれ以上の罰は与えられませんでした。
重臣の馬齊と康熙帝の姑・佟國維たちは八阿哥 胤禩の処分を取り消すように訴えましたが。康煕帝は拒否。胤禩を庇うなと怒りをあらわにします。
皇太子 胤礽の復活と廃位
1709年(康熙48年)。二阿哥 胤礽は皇太子に復位しました。他の皇子たちにも爵位が与えられました。でも八阿哥 胤禩には何の爵位も与えられませんでした。
このころ朝廷内ではいくつかの派閥がありました。
皇太子 胤礽を支持する「太子党」と八阿哥 胤禩を支持する「八爺党」が有力な派閥でした。
1712年(康熙51年)。皇太子 胤礽が再び廃位になりました。
康煕帝は皇子や重臣たちに党派を作って争うのを止めるように言います。
このとき康煕帝が重臣たちに次の皇太子は誰がふさわしいか相談すると、 八阿哥 胤禩がふさわしいという答えが多く康煕帝は驚いたと言います。
でも康煕帝は八阿哥 胤禩を信用できません。派閥を作って皇太子と争っていた張本人だからです。
1715年(康熙54年)。康煕帝は八阿哥 胤禩とその部下の俸禄を削減しました。
その後、自分の処遇に不満な八阿哥 胤禩は十四阿哥 胤禵を支持しました。自分が次の皇帝になるのは難しいと考え、自分を指示していた十四阿哥 胤禵を次の皇帝にしようと考えました。
1735年(康熙61年)。康煕帝が死去。遺言で四阿哥 胤禛が皇帝になりました。
雍正帝の時代
雍正帝は即位すると、自分の名前と同じ漢字を使ってはいけない。と命令を出します。
これは避諱(へきい)という漢字文化圏によくある習慣です。皇帝や王や尊い身分の人と同じ漢字を使うのは失礼にあたる。という考えです。
八阿哥 胤禩 は 允禩 と名乗ることになりました。発音は同じです。
雍正帝は 八阿哥 允禩 に 廉親王 の位を与えました。新王は皇族としては最高の爵位です。
雍正帝は八阿哥 允禩、十三阿哥 胤祥、馬齊、隆科多の四人に総理事務を任せました。清朝の最高の役職です。また、允禩は理藩院というモンゴルを管理する役所を任されました。
ところが雍正帝の要求は厳しいものでした。
雍正帝は 允禩に最高の地位を与えておきながら、働きが不十分だと何度も批判しました。
理藩院で違反が見つかると允禩は紫禁城内で一晩中土下座するよう命令されました。
允禩は雍正帝の信頼を失っていきます。
もともと雍正帝は即位したころからいきさつが不透明といわれ様々な噂話がありました。
皇子たちも納得できないものがありました。とくに皇太子を狙っていた八阿哥 允禩は雍正帝から野心がある人物とみられ厳しい要求を突きつけられ。それができないとひどく怒られていました。
雍正帝の信頼を失った允禩は人びとから批判の対象になりました。でっちあげの告発もうけて允禩は皇族の地位を剥奪されます。
1726年(雍正4年)正月。雍正帝は八阿哥 允禩 に 阿其那(アキナ)と名前を変えるように命令しました。「アキナ」の意味は諸説ありますが、「犬」「不名誉」「まな板の上の肉(まな板の上の魚)」を意味すると言われます。
9月。允禩は病気で死亡しました。病名は不明です。
死後に名誉復活
雍正帝のあと乾隆帝の時代になりました。
1778年(乾隆43年)。乾隆帝は允禩の身分を皇族に戻し、名前も「胤禩」と戻しました。死後62年たって胤禩の名誉は回復しました。しかし爵位は復活していません。
皇族としての地位と名前が復活しただけです。
乾隆帝の考えでは。
八阿哥 允禩 は 雍正帝が即位したあとは逆らう意志はなかったかもしれない。だから雍正帝の処分は重すぎる。でも允禩が皇太子の座を狙って党派を作り朝廷内を混乱させた罪は消えない。と考えていました。
乾隆帝は胤禩のすべてを許したわけではなかったのです。
ドラマの八阿哥 允禩
宮廷女官 若曦 2011、中国 演:鄭嘉穎
花散る宮廷の女たち 2017、中国 演:衛延侃
宮廷の茗薇 2019、中国 演:郭浩然
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