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恵妃 烏拉那拉氏・康煕帝の後宮で力を持っていた妃

清王妃側室 1.2 清の皇后妃嬪皇太后

恵妃 烏拉那拉氏は清朝の第代皇帝・康煕帝こうきていの側室。

「皇帝の恋」では恵妃 納蘭氏。

「宮廷女官 若曦」や「花散る宮廷の女たち」では 恵妃。

「宮廷の茗薇」では 納蘭貴妃 として登場します。

どのドラマでも主人公を妨害する悪役として登場します。

皇后がいない時代の康煕帝の後宮では最も力を持っていた妃の一人です。

康煕帝を怒らせて幽閉された第一皇子(大阿哥) 胤禔の生母という立場も影響しているのでしょう。

史実の恵妃 はどんな人物だったのか紹介します。

 

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恵妃 の史実

いつの時代の人?

生年月日:不明
没年月日:1732年

姓:烏拉那拉(ウラナラ)氏
称号:恵妃
地位: 格格級 → 恵嬪 → 恵妃
父:索爾和(サウル)
母:不明
夫:康煕帝(こうきてい)

子供
承慶(早世)、大阿哥 胤禔

清王朝の第4代皇帝・康煕帝の時代です。

日本では江戸時代になります。

納蘭 明珠の家族ではない

恵妃はよく姓(名字)を間違えられます。

本当は恵妃の姓は ウラナラ(烏拉那拉)氏です。

ところが納蘭 明珠(ナーラン・ミンジュ)や納蘭性徳の一族と紹介される時があります。

というのも乾隆帝時代に蕭奭という漢人が書いた本「永憲録」に「恵妃那拉氏は納蘭 明珠の姉妹。納蘭性徳の姑母」と書かれているからです。

「永憲録」は康煕帝~乾隆帝時代のことが書かれた貴重な本なのですが。正式な歴史書ではなく、個人が書いた歴史の本。思い込みや勘違いで書いてる所もあります。

現代の中国でも「永憲録」を信じてる人もいますから、中国のドラマや小説でも恵妃が納蘭氏になっていることが多いです。

でも納蘭明珠はイェヘナラ(葉赫那拉)氏の一族。ウラナラ氏ではありません。

つまり明珠は恵妃の家族ではありません。

恵妃の父は索爾和(サウル)という人物。ところが納蘭明珠と同じ納蘭氏にも索爾和という同名の人がいます。その人物と間違われたようです。

ウラ・ナラ氏はフルン四国のひとつウラ国の王家でした。フルン四国はヌルハチのマンジュ国に破れ併合されました。そしてヌルハチはアイシン国(後金)を建国しました。ウラナラ家は名門として皇后を出す一族とされました。ヌルハチの妃アバハイも 烏拉那拉氏です。

恵妃の家は烏拉那拉氏を名乗っているものの、ウラ国王家の直系ではありません。そのため後金の建国時には内務府正黄旗の包衣に組み込まれました。

 

恵妃のおいたち

父は内務府正黃旗包衣人・索爾和(サウル)

誕生年は不明。おそらく1650年代?

いつ入宮したのかも不明。1660年代と考えられます。

入宮したときは格格級でした。当時はすでに康煕帝は皇帝でした。当時はまだ後宮の制度ができあがっていなかったのか常在や答応ではなく、記録では格格級になってます。身分の低い側室という意味なのでしょう。

1670年(康熙九年) 男子の承慶が誕生。烏拉那拉氏は小福晋級になりました。
当時の康煕帝は17歳。
翌年。承慶は病死します。

当時の皇后は赫舍里(ヘシェリ)氏

1672年(康熙11年) 胤禔(いんし)が誕生。胤禔は成人した皇子の中では最年長なので後に大阿哥と呼ばれました。

1677年(康熙16年)。康煕帝は鈕祜祿(ニオフル)氏(孝昭仁皇后)を二人目の皇后にしました。

後宮で大きな影響力を持つ

烏拉那拉(ウラナラ)氏は恵嬪になりました。

このあたりから急激に存在感が高くなっています。康熙帝の信頼を得たようです。

1681年(康熙20年)。烏拉那拉(ウラナラ)氏は恵妃になりました。

八阿哥胤禩が誕生。胤禩の生母・良妃は辛者庫の宮女出身。そこで康煕帝は胤禩を恵妃に育てさせました。

1694年(康熙33年) 温僖貴妃 鈕祜祿氏が死去。このころの後宮には皇后はいません。康煕帝はしばらく貴妃も任命していません。

恵妃は後宮で最高位の妃嬪になりました。息子の胤禔も成人した皇子の中では長男です。彼女自身も後宮の妃の中では年長者のため、後宮では大きな影響力を持っていました。

1670年(康熙39年) 孝懿仁皇后の妹・佟佳氏が貴妃になったので後宮の最高位の座を譲りました。

後継者争いで息子たちが没落

1708年(康熙47年9月) 皇太子 胤礽が廃位、幽閉されました。大阿哥胤禔は廃太子 胤礽の監視を任されました。ところが胤禔は「廃太子はどうしようもない悪人です。占い師によると八阿哥の相は貴人の相だと言っていた。廃太子を殺すなら父上が手を下すまでもありません」と進言。

康煕帝は胤禔の意見に激怒。

さらに三阿哥が「胤禔がラマ(僧侶)を雇って皇太子を呪った」と報告しました。

康煕帝は兄弟を殺そうとした胤禔に対して「盗人の逆臣め」と激怒しました。

その話を聞いた恵妃は処刑されるかもと絶望的になって康煕帝に「胤禔は子供のころから親不孝だったわけではありませんでした」と訴えました。康煕帝は胤禔を殺すのはやめて爵位を剥奪して屋敷に幽閉させ家に籠もって反省させることにしました。恵妃の訴えで胤禔は命だけは助かりました。

その後、派閥を作っていた八阿哥・胤禩も康熙帝の信頼を失います。

恵妃の実子も養子も康熙帝の信頼を失ってしまいました。

康煕帝は生前「私の死後は皇子が年老いた母を自宅に迎えることができる」と話していました。毎月、皇帝や皇后への挨拶は義務付けられていました。

 

雍正帝の時代

1729年(雍正元年) 恵妃は八阿哥 允禩の屋敷に移り住みました。

ところが3年のあいだ恵妃は挨拶に来ませんでした。そこで雍正帝は「允禩は太妃が挨拶に来るのを妨害している」と批判しました。

1726年(雍正4年) 八阿哥 允禩が投獄されたので烏拉那拉氏は寧壽宮に移り住みました。允禩は年内に死亡。

1732年(雍正10年)恵太妃 死去。70代だったといいます。

1734年(雍正12年)。実子の息子・胤禔が幽閉先で死亡。

テレビドラマの恵妃

宮廷女官若曦 2011、中国 役名:恵妃  演:刘晨霞

皇帝の恋 2016、中国 役名:恵妃 納蘭氏 演:王若心

花散る宮廷の女たち 2017、中国 役名:恵妃  演:梁丹妮

宮廷の茗薇 2019、中国 役名:納蘭貴妃  演:梁丹妮

 

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