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睿智蕭皇后・蕭燕燕 は 契丹を支えた伝説の皇后

契丹 9 その他の国や民族

睿智蕭皇后(えいちしょうこうごう)蕭燕燕(しょう・えんえん)は契丹(遼)の皇后。

蕭太后ともいいます。

 

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出典:Amazon

 

 

契丹(きったん、キタイ)はモンゴル平原東部から満洲地方に住んでいた遊牧民族。唐滅亡後に自分たちの国を作り。「大契丹国」や「大遼」と名乗りました。

その契丹国の中でも伝説的な活躍をしたのが睿智蕭皇后(えいちしょうこうごう)です。

蕭太后と呼ばれることが多いです。

本名は蕭綽(しょう・しゃく)。

幼名 は燕燕(えんえん)。

ドラマでは蕭燕燕(しょう・えんえん)と言われることもあります。

史実の睿智蕭皇后はどんな人物だったのか紹介します。

 

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睿智蕭皇后の史実

 

生年月日:953年
没年月日:1009年

国:遼(りょう)、大契丹国(だいきったんこく、イェケ・キタイ・オルン)

皇后在位:969~982年

姓 :蕭(しょう)
名 :綽(しゃく)
幼名:燕燕(えんえん)
称号:睿智蕭皇后
父:蕭思温
母: 燕国公主・耶律呂不古

夫:景宗(遼の第5代皇帝)

子供:
男:耶律隆緒(聖宗)、耶律隆慶(秦晋王)、耶律隆裕(斉王)、耶律薬師奴(早逝)
女:耶律観音女、耶律長寿女、耶律延寿女

彼女は遼の第5代皇帝 景宗・耶律明扆の正妻。
第6代皇帝 聖宗・耶律文殊奴の生母。

日本では平安時代になります。

蕭皇后のおいたち

蕭氏は一族から皇后が出る契丹の名門

蕭氏はかつては奚(けい)族とよばれる遊牧民のひとつ。拔里(バリ)氏と名乗っていました。祖先は宇文部と同じ匈奴系鮮卑といわれます。言葉は契丹と同じモンゴル系です。

その時代の強い部族や国に服従していました。

契丹(キタイ)の耶律阿保機(やりつ あぼき)が強くなると契丹に服属しました。

大契丹国(あとで遼に変更)の初代皇帝になった 耶律阿保機(やりつ あぼき)から「蕭」の一字姓をもらいました。耶律阿保機は蕭氏から妃を迎えます。

2代皇帝・耶律 堯骨(やりつ ぎょうこつ)は蕭氏の妃から生まれました。以後、蕭氏は代々皇后を出す名門になります。

早熟で子供の頃から評判がよかった燕燕

睿智蕭皇后は953年。蕭思温(しょう しおん)の三女として生まれました。

成人するまでの名前(幼名)は燕燕(えんえん)。

父の蕭思温(しょう しおん)は北府宰相。4代・穆宗、5代・景宗に仕えた重臣です。

母は燕国公主・呂不古。2代皇帝・太宗 耶律 堯骨(やりつ ぎょうこつ)の娘です。

蕭家と耶律家は何重にも婚姻関係を結び親戚になっていました。

蕭綽(しょうしゃく)には2人の姉がいました。二人の姉とは年の差がかなりありました。

一番上の姉・胡輦は太平王・耶律罨撒葛と結婚。太平王は反乱を起こしたので廃位されました。

2番めの姉・伊勒蘭は趙王・耶律喜隱と結婚。趙王も反乱を起こして死刑になりました。

蕭綽(しょうしゃく)は幼い頃から頭がよく、早熟で美人でした。

あるとき父の蕭思温が3人の娘が掃除をするのを見ていました。2人の姉は掃除を急いで終わらせました。蕭綽は一番綺麗に掃除したので父は「この子は将来、素晴らしい人物になる」と喜びました。

969年。景宗・耶律 明扆(やりつ めいい)が即位しました。景宗を即位させた最大の功労者は父の蕭思温です。思温は自分の娘を皇帝に嫁がせようと考えました。

思温は蕭綽を景宗の側室にしました。蕭綽は最初は貴妃でしたが、2ヶ月後に皇后になりました。このとき蕭綽は16歳。

蕭皇后は皇帝の役目を代行

蕭皇后と景宗は非常に仲がよかったといいます。二人の間には4男3女が生まれました。

ところが景宗は病弱で朝廷の会議に出席できないこともありました。そこで蕭皇后が代わりに出席することが増えました。

蕭皇后は刑罰や報酬の決定など政治や軍事に関係する事がらの決定権を保っていました。

975年。景宗は記録係に「皇后が発言するときは「朕」や「予(余)」と書きなさい」と、まるで皇帝の発言を記録するかのように指示しました。蕭皇后を皇帝と同じ地位までひきあげたのです。

景宗時代の業績は蕭皇后の決定で行われたものがかなりあります。

982年。景宗は何年も闘病生活を続けましたが病死してしまいます。

 

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伝説になった皇太后時代

 皇太后になっていきなり命の危機

息子の耶律 文殊奴(やりつ もんじゅど)が即位しました。遼の6代皇帝 聖宗の誕生です。

蕭綽(しょうしゃく)は皇太后になりました。30歳でした。

歴史上は蕭太后と呼ばれることが多いです。

ところが聖宗はまだ12歳。自分で政治が行えないので蕭太后が政治を行うことになりました。

970年。父の蕭思温が暗殺されてしまいます。

父親を失った蕭太后には他に頼れる親族はいません。

景宗の子・文殊奴があとを継ぐことは勅命で決まっていました。でも耶律家には武力を持ち皇帝の座を狙う皇子が何人もいました。聖宗の反対勢力は軍隊をもって朝廷に圧力をかけていました。

二人の重臣を味方にする

自分と子の命が危ないと考えた蕭皇后は二人の有力な大臣、耶律斜軫(やりつ・しゃしん)と韓徳讓(かん・とくじょう)を呼び出しました。

蕭皇后は「私は未亡人で息子は幼い。宗家はとても強く勢いがあります。しかも国境ではまだ争いが続いています。いったいどうすればいいのでしょうか!」と2人の前で泣いてみせました。

すると耶律斜軫(やりつ・しゃしん)と韓徳讓(かん・とくじょう)が「私達を信頼すれば何も心配することはありません」と蕭皇后と聖宗を守ると言いました。

耶律斜軫は初代皇帝・耶律阿保機の兄弟の子孫。耶律一族ですが王位争いをしている宗家の人ではありません。蕭思温とは親しい人物でした。

蕭皇后は耶律斜軫に姪を嫁がせました。

韓徳讓は契丹の捕虜になった漢人の子です。遼に仕え出世していました。頭がよく遼国内での漢人の大臣で最も出世していました。

蕭皇后は耶律斜軫と韓徳讓を朝廷の会議に出席する権限を与えました。

将軍の耶律休哥(やりつ きゅうか)に南に派遣して国境の守りを任せました。

韓徳讓が蕭太后と聖宗親子の警備を担当しました。蕭綽は韓徳讓を気に入って北南枢密使、大丞相、封晋王の地位を与えました。

頭がよく知的な韓徳讓を蕭太后は気にいりました。やがて二人は夫婦同然の関係になります。また漢人ながら出世してそれなりの地位にいる韓徳讓を味方にしておく必要があります。それに遼国内であまりコネがない韓徳讓にとっても蕭太后が後ろだてになるのは好都合な話のはずです。

蕭綽と韓徳讓は多くの大臣を排除し、皇族や大臣同士の会合や、用のない外出を禁止。彼らから軍事的な力を取り除くことに成功しました。

こうして聖宗と蕭綽の親子の地位は安定しました。

983年。聖宗は蕭綽に天皇太后の称号を贈りました。

蕭綽は臣下から良いアドバイスあれば積極的に取り入れました。褒美と罰を使い分けました。アメとムチの使い分けが上手だったのです。

大臣たちに官位を与えたり、景宗の墓に絵を描いたりして、臣下の忠誠心を高めようとしました。また人びとの心を掴むために様々な改革をしました。

事件の審議が終わっても不服があれば訴える制度を作りました。また遼国内では契丹人と漢人がトラブルをおこすと漢人のせいにされることが多かったのですが平等に裁くようにしました。遼は人口の約半分が遊牧生活の契丹人、半分が農耕生活の漢人でした。文化も生活スタイルも違う民族を統治するのはなかなか大変でした。契丹人と漢人がともに生きていける国作りを目指しました。韓徳讓の存在が大きかったのでしょう。

国名を 遼 から大契丹国(イェケ・キタイ・オルン)に戻しました。

1004年。北宋に対する南征の軍を起こすと、戎車に乗って三軍を指揮しました。

1006年。睿徳神略応運啓化承天皇太后と尊号を加えられました。

1009年。死去。聖神宣献皇后と諡されました。

1052年。睿智皇后の称号が贈られました。

蕭太后と韓徳讓の関係

「蕭太后と韓徳讓が若い頃に婚約していた。二人が結婚する前に蕭燕燕(蕭太后)が景宗の側室になって、仲が引き裂かれたのだ」と言われることもあります。でも事実ではありません。

契丹の庶民は恋愛結婚。親が子供の幼いときに結婚相手を一方的に決める習慣はありません。でも王侯貴族ではそういうわけにもいかないので政略結婚は行われていました。

確かに韓徳讓の母は蕭家の出身です。韓徳讓が蕭一族と結婚してもおかしくはありませんが。

蕭一族といっても蕭思温は宰相にまでなった本家筋の家。蕭思温は娘を皇子と結婚させて皇室の外戚になろうとしていました。それを諦めて早くから蕭燕燕と韓徳讓を結婚させるつもりだったとは考えられません。

景宗の死後。蕭太后と韓徳讓は愛人関係になりました。結婚したという伝説もあります。契丹の習慣では女性の再婚は可能です。でも韓徳讓はどんなに出世しても身分は「宮分人(宮廷の奴隷)」なので。そのままでは皇族と結婚はできません。

蕭太后は晩年に韓徳讓に「耶律」という契丹姓と「隆運」の名前を与えています。宮分人の身分からも解放しました。

でもさすがに皇太后の再婚は難しかったかもしれません。やはり愛人どまりの関係だったのでしょう。

結局、韓徳讓には子供がいないので韓徳讓(耶律 隆運)の家を継がせるために耶律家から養子を出させて後継者にしました。皇室とは別に韓徳讓の家を残したということは韓徳讓と蕭太后とは戸籍上の家族にはなっていない。ということです。

でも二人の関係は並の夫婦以上に信頼関係で結ばれていたようです。

テレビドラマ

 

楊家将伝記

 2006年、中国 演:張瑞珈

歴史を無視した展開の典型的な勧善懲悪ストーリー。
遼と戦う北宋の楊一族が主役のドラマなので契丹は敵。
このドラマは蕭太后はボスキャラ。

 

千秋太后

 2009年、韓国KBS 演:沈慧珍  役名:蕭太后
 若い頃の千秋太后が蕭太后に出会い。その生き方に影響を受けるという設定。劇中ではソ太后と呼ばれます。蕭太后の存命中に第一次高麗侵攻を行いましたが。蕭太后が高麗戦に出陣した記録はありません。

 

燕雲台

  2020年、中国 演:唐嫣
 契丹側の視点で描かれた珍しいドラマ。
 蕭太后側の視点で描かれる唯一といってもいいドラマ。

 

大宋宮詞

 2021年、中国 演:帰亜蕾
 こちらは宋側の視点で描いたドラマ。

 

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