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昇平公主・唐代宗に可愛がられ夫婦喧嘩が歴史に残った皇女

唐朝 5.3隋唐の公主

昇平公主(しょうへいこうしゅ)は唐の公主(皇帝の娘)。

9代皇帝・代宗の娘。

10代皇帝・徳宗の妹。

父や兄から可愛がられた公主でした。

夫の郭曖(かく・あい)は、安史の乱で活躍した郭子儀(かくしぎ)の息子。

昇平公主と郭曖は夫婦喧嘩した話が記録に残っていて。それがもとで京劇の「打金枝」の元ネタになりました。

皇帝の娘というのを自慢していたようですが、ただ偉そうにしていただけでもなさそうです。

史実の昇平公主とはどんな人物だったのか紹介します。

 

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昇平公主の史実

プロフィール

生年月日:750年代
没年月日:811年より前

姓:李氏
名:不明
称号:昇平公主
父:唐代宗
母:崔貴妃
夫:郭曖

子供:4男2女。
懿安皇后郭氏など。

彼女は代宗の娘。

日本では奈良~平安時代になります。

昇平公主の生年は不明。安史の乱(756年~)が起こる直前。結婚した年から逆算して750~755年ごろに生まれたと考えられます。

父は代宗 李豫(当時は 広平王 李俶)。

母は崔貴妃(当時は 広平王妃か側室)。

曽祖父には玄宗皇帝がいます。

母親の「崔貴妃」は誰?

記録には昇平公主の母は「崔貴妃」と書かれています。

ところがこの「崔貴妃」が何者なのかよくわかりません。

話をややこしくしているのが「旧唐書」の記録。
「旧唐書 列伝第二 懿安皇后伝」では「代宗の長女」
「旧唐書 列伝第七十」では「代宗の第四女」と書かれています。
同じ書物でも書く場所によって内容が違うのです。
これが「代宗の正妻の子では一番年上で、側室を母に持つ姉が3人いた」という意味なら理解できます。

もしそうなら母の「崔貴妃」は代宗が広平王時代に正妻だった「崔妃(広平王妃)」になります。

崔妃(広平王妃)は楊貴妃の姪、韓国夫人楊氏の娘。崔妃は安史の乱で広平王と疎遠になり、その後死亡しました。

昇平公主は代宗から非常に可愛がられた娘です。母と娘への愛情は別なのかもしれませんけれど。あの広平王妃の娘をそこまで可愛がるでしょうか。それとも史実の広平王妃は悪い人ではなかったのでしょうか。

広平王 の側室に広平王妃とは別に崔氏がいたのかもしれません。「崔」はよくある姓です。崔一族は有力な一族だったので、一族から広平王妃とは別の娘を嫁がせてもおかしくありません。

広平王妃は楊貴妃の親戚で楊一族が横暴だったから最後は疎まれました。楊一族と関わりのない人物なら問題ありません。

その昇平公主の母が代宗即位後に妃や貴妃になったのかもしれません。でも768~775年の間は独孤貴妃がいました。崔貴妃が生きていたのはどんなに遅くても768年までになります。

また、地位の低い側室でも死後「妃」や「貴妃」に追尊されることもあります。

「崔貴妃」は死後につけられた称号で生前はもっと低い地位の側室もありますね。母のいない昇平公主を代宗はよけいにかわいがったのかもしれません。

どちらにしても、これ以上の記録はないのでよくわかりません。

代宗の時代

762年。父の代宗が即位。

昇平公主は代宗から非常に可愛がられていたといいます。

代宗の即位から結婚までの間に「昇平公主」という称号が与えられたと考えられます。

永泰元年(765年)6月。昇平公主は13歳の郭曖(かく・あい)と結婚しました。このときの昇平公主は郭曖と同じか少し年下だったでしょう。

昇平公主の結婚相手になった郭曖は郭子儀(かくしぎ)の六男です。もちろん政略結婚です。郭子儀は安史の乱の鎮圧に大手柄をたてた名将。代宗も非常に頼りにしていた将軍です。

郭曖は郭子儀の正妻・王氏の子。六男と結婚したのは昇平公主と年齢が近く未婚だったのが郭曖だったからです。

歴史に残る夫婦喧嘩

「資治通鑑」という歴史書にはこのような逸話があります。

結婚して何年後のことかはわかりませんが。
あるとき郭曖が酔って昇平公主と喧嘩になりました。

昇平公主は普段から皇帝の娘として威張っていたのでしょう。

郭曖は酔った勢いで「お前は父親が天子だからといって威張るな。俺の父親は天子になろうと思えばなれたんだ。だけど、なりたくなかっただけなんだ」と言いました。

激怒した昇平公主は馬車に飛び乗って宮殿に直行。父の代宗に報告しました。

でも代宗は昇平公主にこう言いました。
「これはお前が思っているほど大げさなことではない。郭子儀の息子の言うとおりだ。もし郭子儀が天子になろうと思ったのなら、お前の実家(つまり皇帝の一族)が今でも天下の主でいられたと思うか?」と言って昇平公主をなだめました。

代宗は今の自分があるのは郭子儀のおかげだと思っていたのです。

皇帝の娘を怒らせたと知った郭子儀は息子の郭曖を幽閉。代宗の所に謝罪に行き処分してほしいと言いました。

ところが代宗は
「昔の話に『不癡不聾、不作家翁(かちふてん、ふさくかおう)』というではないか。夫婦喧嘩などほっておきなさい」
と言って郭子儀を処罰しませんでした。郭子儀は皇帝に感謝して家に帰りました。

家に帰った郭子儀は息子の郭曖を杖で数十回叩いたということです。

皇帝から「気にするな」と言われたのですが、郭子儀としては息子が公主を怒らせたのがよほど許せなかったのでしょう。

この話は後に普劇や京劇で上演される「打金枝」の元ネタになりました。

「不癡不聾、不作家翁」の意味

この話で代宗が言った「不癡不聾、不作家翁(かちふてん、ふさくかおう)」ですが。

言葉の直接の意味は。

「姑が聞こえてない、見えていないふりをして、嫁のことを深く追求しない」

という意味です。ことわざとして使われます。

ことわざとしての意味は

人は細かすぎるのもよくないものだ。少しくらい曖昧にしておくのがちょうどいい

という意味です。

代宗は「若い二人の夫婦喧嘩なんだから気にするな」と言いたかったのでしょう。

農民のために製粉所を撤去

大歴13年(778年)。代宗は白渠水支流にある製粉所の破壊を命令しました。白渠水支流にはいくつも水車があって石臼が設置されて粉を作っていたのです。この水車は王侯貴族が作ったもので庶民のために小麦粉を製造していたのではありません。

水路の水は王侯貴族たちの水車を動かすために使われていました。そこで代宗は農業用水として利用しやすくするため王侯貴族の製粉所の破壊を命令したのでした。

当時、白渠水支流に昇平公主は2つ、郭子儀も2つの製粉所を持っていました。

昇平公主は代宗に製粉所の破壊を止めるようにお願いに行きました。

すると代宗は
「私は民衆のためにこの詔勅を出しているのだ。どうして父の心がわからないのだ。 お前が人々の模範となるべきではないか」と言いました。昇平公主は父親と話し合って製粉所を撤去することにしました。

翌日。昇平公主はすべての製粉所の破壊を命じました。そして昇平公主に続いて、白渠水支流にあった他の皇族や親族の製粉所も撤去されました。

徳宗の時代

779年。父・代宗が死去。兄の徳宗が即位しました。

皇太后沈氏の住居を用意

建中元年(780年)。徳宗は昇平公主に「皇太后沈氏」の住居を用意するように命令しました。

徳宗の生母・沈氏は安史の乱で行方不明になっています。このころには「皇太后沈氏」は称号だけの存在になっています。でも徳宗は母を探し続けていました。時々「沈氏」とされる人が名乗り出ましたがみんな偽物。徳宗は期待をこめて住む所だけでも用意しようとしたようです。

反乱に巻き込まれる

建中年間(780~783年)。唐で節度使の朱泚(しゅ・せい)が反乱を起こしました。皇帝の徳宗は奉天に避難する騒ぎになります。

このとき昇平公主は捕まって宮中に監禁されました。その後、夫の郭曖やその兄 郭晞とともに逃げ出すことに成功。奉天に避難しました。

徳宗は昇平公主を歓迎しました。

その後、反乱は鎮圧されました。

娘が皇帝の孫と結婚

貞元9年(794年)。公主次女・郭氏が広陵王・李純(徳宗の孫・後の憲宗)と結婚。広陵妃になりました。

貞元16年(800年)。夫の郭曖が死亡。享年49。

父と兄から愛される公主

昇平公主は父の代宗から可愛がられていました。

父だけでなく兄の徳宗からも可愛がられていました。

徳宗の母は沈氏。代宗や徳宗が皇帝になったときには既にこの世にいません。
昇平公主の母は張貴妃です。母親同士の仲はよくわかりませんが二人の仲は良かったようです。

当時の公主の中で一番大事にされていました。

そこまで大事にされていたらわがままになるのも仕方ないかもしれません。

憲宗の時代

貞元21年(805年)。徳宗が死去。徳宗の長男・順宗が即位。
ところが順宗は年内に脳溢血で倒れ、言語障害になったため譲位。
順宗の息子・李純(憲宗)が皇帝に即位しました。

昇平公主は「昇平大長公主」の称号を与えられました。

元和5年(810年)。昇平大長公主が死去。享年は不明ですがおそらく60歳前後。

憲宗は昇平大長公主に「斉国昭懿公主」の諡号を与えました。

 

娘が貴妃(懿安皇后)になる

憲宗の即位後。昇平公主の娘の郭氏は貴妃(懿安皇后)になりました。

郭氏は後宮のトップで事実上の皇后でしたが。憲宗は郭氏を皇后にしませんでした。憲宗は郭氏を怖がっていて、郭氏が皇后になったら側室をもつのを許してくれないと思っていました。臣下が皇后にするように進言しても断っていました。

郭氏は憲宗の死後に第二の武則天になるのではないかと噂された人物です(本人は否定)。娘も母の性格を受け継いでいるのかもしれません。

詩を聞くのが好き

生前の昇平公主は詩を聴くのが好きでした。

夫の郭曖(かく・あい)は詩人としても有能で、李端たち十人あまりの弟子に漢詩を教えていました。宴席が開かれると昇平公主は幕の後ろに座り、詩人たちが作る漢詩を幕の裏で聞いていました。

そして良い詩を作った者にはたくさんの縑(かとり=目の細かい緻密に織られた織物=高級品)を与えました。

 

テレビドラマ

万華楼 2020年、中国 演:鐘祺

 

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